第10話 さようなら
妻の顔を見ることができなかった。
私が妻の余生を奪ってしまったのだ。
手が震える。
絶望がまた心の中に広がっていく。
妻にも伝わっているだろう、握ったままの手が震えを隠せない。
「あなた」
妻の呼びかけに、私は顔を動かすことができないままで返事をした。
「な、なんだ」
「私を見てください」
その言葉に、恐る恐る妻を見ると優しい笑顔で私を見つめていた。
「良いんですよ、気持ちはわかります。私だって先に逝っていたらあなたを決め人に選んだかもしれません」
酷く震える私の手を、妻はそっと握り返してくれた。
二人で桜並木を歩いた時のように。
私が死ぬあの瞬間のように。
変わらない優しく温かい手で私を包み込んでくれた。
「すまない、本当にすまない」
「ですからそんな顔しないでください」
私はただ俯き、懺悔に浸るしかなかった。
「本当は望んだお見合いではなかったの、父と母にどうしても言われてあなたと会いました。けれども、あなたと手を繋いだ時に思ったんです。私はこの人と一生を添い遂げるのだろうと」
妻はすっと、私の手を離した。
「あなたはいつも自分の道を歩きましたね。私はついていくのがやっとで、せめてご迷惑にだけならないようにと思っていました」
妻の声に感情が無かった。
淡々と、妻はその心内を並べているようだった。
「私にだって意地があります。絶対に弱音を吐かずにあなたと添い遂げる。それが人として、女としての私の意地だと心にずっと誓っていたんです」
「そ、そ、そう、そうか」
「あなたは一度も振り返らなかったわ。いつも自分を中心に行動していましたね」
段々と妻の言葉の温度が下がってきた。
「西島さん、よく私に聞いてきましたよ。どうすれば貴方が満足するでしょうって」
「えっ、西島が、か」
「その度に私は言って差し上げました。
あの人には何をしても無駄ですよ、ってね」
「それから、恩人の方とおっしゃいましたね」
「あ、ああ、近所に住んでいた、その老婆で...」
「笑顔で天国を決めてくれたんですか。
嘘でしょう、私はあなたの言葉に真心を感じたことなんて私は一度もありませんから
そうして自分を美談にするのもいつものあなたでしたね」
妻はゆっくり立ち上がり、足に着いた埃を払った。
そして視界の外、そこで私を見下ろしているんだろう。
「先程言われた、あなたが私を選んだことで私が死んだ。
それは本当にどうでも良いんです。私だって歳ですからね、短い余生だったと思います」
妻はそっと、私の肩に手をかけた。
「あなた、顔をあげてください」
体が動かなかった。
顔をあげるのが恐ろしくて仕方なかったのだ。
「でしたら、そのままで良いわ。ちゃんと聞いてくださいね」
年寄り鬼が吹き出した。
周りの鬼達も、ざわざわと声を上げ始めた。
「あなたに感謝しているのも本当です、こんな年まで面倒を見ていただきましたからね。
でも、それも生きていた時の話です」
目眩がする。
世界が回る。
胃の中のものをぶちまけそうになった。
「私が死んだ理由も良い、あなたと生きた人生も良い」
「でも死んでまであなたに付き合うなんて真っ平、御免よ」
鬼達が歓声を上げた。
私の歯がカチカチと鳴り始めた。
全身が、脳までが震え始めたのだ。
「ごめんなさい、私だって出来るなら天国へ行きたいです。私があなたを天国へ導いたらその時点であなたは天国へ行くのですよね」
妻はその手で私の顔をそっと包み込み、ゆっくりと私の顔を上げさせた。
そこには、どんな鬼よりも恐ろしい顔をした妻が微笑んでいた。
「地獄へ行ってください、これで本当にお別れです」
「この者を下へ送れ」
閻魔の声に鬼達は一層、歓声を強めた。
あちこちから物が飛んできて私に当たった。
年寄り鬼がまた、暗闇に向かって杖を振る。
やはりあの屈強鬼がのしのしと現れて私に一歩一歩近づいてきた。
「ま、待て、待ってくれ、そんな、そんなはずは」
足がもつれ、腰が抜け、何とか這うように妻の足元にしがみついた。
「な、なあ、考えなおせ、なあ、頼む、頼むから」
妻は何も語らず、身動き一つもしなかった。
その薄い笑みに私の憎悪が溢れ出す。
「お前、誰のおかげで生きてこれたと思っているんだ、うちに住めたのも、飯を食えたのも、お前が笑ったのも、幸せだって全部が私のお陰だろう」
妻は表情を変えず、やはり淡々と口を開いた。
「言いましたよね、私にも意地があります。あなたに添い遂げたのは愛ではありません、意地です」
「何を言っているんだ、わけのわからないことを。私への恩を仇で返すのか」
妻は表情を真っ白に変えた。
冷たく透き通る、氷のように冷たい目で私を貫いた。
「本当に、あなたは変わりませんね」
しがみつき、懇願する私に向かい妻はそっと手を合わせた。
「生まれ変わったから、人の気持ちが理解できる人になってください。
そして、もう私とは出会わないでくださいね」
妻の背後に屈強鬼が歩み寄った。
嫌だ、嫌だ、地獄なんて嫌だ、やめてくれ、助けてくれ。
妻の周りを這いながら逃げ回る私に鬼達は大声で笑った。
嫌だ、笑って良いからやめてくれ、頼む、お願いだ、お願いします、許してください。
「い、痛、痛い」
あのノッポ鬼が私の足に噛り付いていた。
牙が肉に食い込み、骨を齧る振動が全身に響き渡った。
ザラザラとしたヤスリのような舌で傷口を舐められる度、頭の先まで貫くような痛みが駆け抜ける。
そして屈強鬼が私の首を掴み無理矢理に持ち上げると齧られていた足が千切れてしまった。
声は出ない、首を絞められているからだ。
息も出来ない、首を絞められているからだ。
私が、私が何をしたと言うのだ。
どうしてこんな仕打ちを受けなくてはならないのだ。
助けてくれ、許してくれ、もう、夢なら覚めてくれ。
段々と声が遠ざかる。
あの闇の中に近づくにつれ、意識も遠ざかっていく。
最後の際、揺れる視界の中。
妻は笑顔で私に手を振っていた。
そしてその口がこう呟いていた。
「さようなら、あなた」
獄界裁判 @ssSnufkin
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