第9話 妻

閻魔は例によって紙の束をペラペラとめくり、その中から一枚を抜き出すとそれをじっと凝視し珍しく口を開いた。

「この者でいいのか」

私はゆっくりと頷いた。

すると閻魔は指で年寄り鬼を呼び寄せた。

何やら私にはわからない言語であれこれと指示を出しているのか、年寄り鬼は暗闇の奥へと杖を振り、最後に閻魔へ向かい口を二回カチカチと鳴らした。

何やら、少し慌ただしく感じる。


だがそれは不安では無かった。

何となく直感したのだ、年寄り鬼の言葉を信じるならば私は初めて天国へ行ける人間かもしれない。

人間を地獄へ連れていくのには慣れている鬼達だが、天国へのエスコートは慣れていないのだ。

今、裏方では神や仏のような存在に報告をしているのだろう、もうすぐ人間を一人そちらに送ると。

そう考えるとまた口元が緩む。

溢れる歓喜が私の行動を支配する。

指示を終え、立ち尽くす年寄り鬼が何だか小さく見えた。

きっと、腹の中は煮えくり返っているのだろう。

「天国はどんな所なんだ」

無意識に口から出た言葉に、年寄り鬼はゆっくりと目を私に向けた。

「貴様らの問いには答えんと言うとるじゃろう」

顔はニヤリと笑っている、だが私にはそれが負け惜しみか強がりにしか見えなかった。

「まあ良い、自分で確かめれば良いだけだ」

「ほう、大した自信じゃな」

「私と妻には絆がある、それは…いや、説明しても無駄だろうな」

私は鼻でふんと笑い、小さく頼りない年寄り鬼を見下ろしてやった。


天国はどんな所だろうか。

西島が言っていた、地獄は感覚だけで苦痛を味わう世界。

単純に考えてその逆ならば天国は感覚だけで幸福や快楽を味わえる世界だろうか。

まさかおとぎ話に出てくるような美女と酒の泉があるような楽園だろうか。

まあ、どちらでも構わないだろう。

永遠の幸福が約束されるならば不老不死も悪くない。

待ち遠しいぐらいだ。

早く天国を味わいたい。


「あなた、ですか」


突然、背後から声をかけられた。

驚き振り返るとそこには妻がいた。

酷く怯えた顔で、口を手で覆い、今にも泣きださんばかり。

「ここはどこですか、どうしてあなたもここに」

辺りを見渡し、鬼達に驚きを隠せない様子だ。その姿はここに来たばかりの私と同じだろう。

「ここは、その、選定の場とでも言うか、死者を天国か地獄へ振り分ける場所だ」

まだ状況が掴めないのか、妻はどこかぼんやりとした表情で私を見つめた。

「良いか、よく聞くんだ。私がどちらに行くかはお前にかかっている」

「わ、私が、ですか」

「決め人と言うらしい、自身が選んだ人が決めた場所に送られるんだ」

余りに突拍子も無い話だろう、私でさえ困惑したんだ。

「その決め人は三人選ぶことができる、多く票が入った方に決まるんだ」

「ちょっと、待ってください。よくわかりません」

妻はただオロオロとするばかりだ。

それも仕方ない、私が少し矢継ぎ早に話を進めてしまった。


私は地面に座り込んだ。

相変わらず気味の悪い感触だが出来の悪い座布団とでも思って我慢しよう。

「なあ、少し話そう」


妻はゆっくりと足元を確かめ、小さく座った。

座り心地が気に入らないのだろう、何度も足を直しては姿勢が定まらない。

「なあ」

「あの」

不意に同時に話し始めてしまい、それが可笑しくて少し笑ってしまった。

良い雰囲気だと思ったが妻はまだ険しい顔で目を泳がせている。

「どうした、落ち着かないか」

「何だか悪い夢を見ているようです」

「悪い夢か、確かにこんな不気味な世界ではな」

私は妻の手を取り、その目を覗き込んだ。

「大丈夫だ、私の言うことをちゃんと聞きなさい」

妻は私の手を握り返し、小さく頷いた。

「さっき言った通り、ここは死後の世界で私達は篩にかけられている、それは理解したな」

再度ゆっくりと妻は頷いたが、まだ半信半疑な表情だ。

「西島を覚えているか」

少し目線を下げ、はっと思い出したようだ。

「以前よくいらしてた西島さんね」

「そうだ。まずはあいつが私の決め人になってな、久しぶりに顔を見たよ」

「随分と久しいですね」

「ところが西島のやつ、酷く錯乱していてな。私を道連れにしようと地獄行きを選ばれてしまったんだ」

妻は言葉もなく、ただ私の目を見ていた。

「それから、お前は知らないが子供の頃の恩人が次の決め人になった。勿論、その人は笑顔で私に天国行きを決めてくれたよ」

一度、咳払いをして姿勢を正した。

「最後の決め人を考えた時、お前の顔が浮かんだ」

「私、ですか」

「実を言うとな、天国でも地獄でも私は構わないんだ。ただどうしてももう一度お前に会って話がしたかった」

もう一度、改めて妻の手を強く握った。

「本当にありがとう」

妻は唖然とした。

それもそうだ、私はこんな言葉を何十年も妻にはかけていなかった。

「私はお前に感謝の一つも伝えず、甘えてばかりだったと死の際に気がついたんだ。もう手遅れだと思ったがこうして伝えることができて良かったと思っている」

「私こそ、あなたには生涯を支えていただきました」

何だか少し、照れ臭くなった。

こんな風に手を取り合うのも若い頃の思い出にしかない。

「なあ、覚えているか」

「何ですか」

「始めて二人で出かけた日のことだ」

「覚えていますよ、お見合いの日でしたね」

「そうじゃない、そのあとで二人で出かけた日があっただろう」

「えっと」

「覚えていないか、スカラ座で映画を見たじゃないか」

「ああ、そうでしたね、懐かしいわ」

「映画の後で桜の並木道をこうして手を繋いで歩いたな」

「思い出しました、とても綺麗でしたね」

「始めてお前と手を繋いだ時に思ったんだ、この人を幸せにしようと」

「ふふっ、本当ですか」

「本当だとも、現に生涯を共にしただろう」

「ええ、そうですね」

「くどいかもしれないが、本当にお前には感謝しているんだ。お前が居なくては私の人生は大きく違うものになっていただろうからな」

すると、年寄り鬼が私達の横に立ちはだかった。

「いつまで無駄話をしておる、早う決めんか」

夫婦水入らず、邪魔をする年寄り鬼に苛立ちを覚えた。

「まったく、無粋な鬼だ」

まだ見慣れないのだろう、まさしく化け物を見る目で妻は年寄り鬼への恐怖を隠さなかった。

「私を見るんだ」

妻ははっと驚き、慌てて私を見た。

「どうやら、お前はまだこうして裁かれていないようだな」

「え、ええ、もう何が何だか」

「ならばまず、お前が私を捌くんだ」

「でも、そんな、私に」

「先ほども言った通り、私は天国でも地獄でも構わない。お前が思った方に私を送りなさい。それから、お前の番になったらまずは私を決め人に選びなさい。当然、お前は天国へ行けるように一票を投じる。出来るなら、思い出話の続きを天国でしたいものだな」

私は年寄り鬼を睨み、こう聞いた。

「私はこの後、妻の決め人になれるんだろうな」

年寄り鬼はニヤリと笑った。

「こやつがお前を選ぶならば、そうなるな」

「ふん、回りくどい言い方だ」

私は妻を、満面の笑みで見た。

「そういうことだ、鬼は短気らしいからそろそろ決めると良い」


妻は少し、辺りを見渡し大きく息を吸った。

そして年寄り鬼に向かい口を開いた。

「あの、少し聞いても良いでしょうか」

年寄り鬼は目を細め、妻を睨みつけた。

私はそれに割って入る。

「いや、こいつらは私達の質問には答えはしない」

「なんだ」

珍しく、不機嫌な顔のままで年寄り鬼は妻に聞き返した。

途端に胸の中が騒ついた。

「どうして、私は死んだのですか」

妻の質問がわからなかった。

「な、何だ、どういうことだ、こいつらに何を聞きたいんだ」

「夢としか思えないのです」

「夢とは、どういうことだ」

妻は不思議そうな表情で目を泳がせた。

とても言いにくそうに、ポツポツと言葉を選んで話し始める。

「あなたの葬儀が済んで、少しほっとしていました。これから一人だし、やりたかったこと、したかったこと、叶えられなかったことをしようと思っていました」

妻は淡々と、無表情で言葉を続けた。

「そうしたら、鬼が現れたんです」

「鬼が、どこに現れたんだ」

「うちの中に鬼が現れて、かっと大きな口で私を飲み込むようにしました。そして気がついたら真っ暗な場所にいて」

年寄り鬼が笑った。

心の底から楽しそうに、嬉しそうに、悪意を隠さず高笑った。


「特別に答えてやろう、何故お前が死んだのかだったな」

私も妻もその言葉に引き込まれた。

「貴様らの世界、夫婦の片割れが死ぬと残った方もすぐに死ぬことが多いのは知っておるだろう」

返事も頷きもできなかった。

こうして鬼が話す時、良い展開が訪れないのはもうわかっていたからだ。

「あれはな、先に死んだ方が残った片割れを決め人に選ぶからじゃ」

待て、待つんだ、それ以上言うな。

全身から冷や汗が溢れ出した。

「まさかまだ生きた奴を決め人には出来ぬからな」

もう分かった、分かってしまった、だから、もう何も言うな。

「どうしてもと望むならば、そいつを殺すしかないだろう。こやつがお前を決め人にと言うからお前は死んだのじゃよ」

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