第8話 脈動

ドクドクと心臓が脈を打つ、もう本当に張り裂けてしまいそうだ。

これで私は天にも地にも一票、泣いても笑っても次で決まるのだ。

鳴り止まない鬼達の野次に閻魔がそっと手を振り上げた。

何匹かの鬼はそれを見て身を屈めたが、気付かない野卑な鬼達は泣いたり笑ったり、品のかけらも無く振る舞い続けた。

ドン、と閻魔が演台を打ち付ける。そしてまた世界は静寂に包まれた。


ドクドクと心臓が脈を打つ。

張り裂けそうな胸にそっと手を当て鼓動を押さえつけた。

不思議と言うか、おかしいと言うか、静まり返るこの獄界裁判の中、私は自分の脈に命を感じた。

思えば生や死を意識することは殆どなくただがむしゃらに生きた六十年余。

そんな私が死んだ今になり、生死の境と命を感じているのだ。

出せ、ここから出せ、荒々しくドアを蹴りつけるように私の心臓は暴れている。


「おい、早う次を選べ」

年寄り鬼は私に杖を突きつけ答えを急がせた。

これまた不思議なもので、恐ろしさを感じた鬼達に少し慣れてきたのだろうか。

「待て、よく考えさせろ」

まるで部下や子分にでも言うよう、私は雑に年寄り鬼に言い放つことができた。


西島が選ばれたことは不運だった。

まだここのやり方も知らない私が鬼達に言われるがまま適当に選ばれた決め人、それが不運で無くてなんだと言うのか。

恩も義理も無い、逆恨みに取り憑かれている若造だ、いや、それをわかって閻魔は西島を選んだのかもしれない。

こいつら、卑しき鬼ならば十分にやりかねない。


ばっちゃを思い出したことは幸運だ

いや、運では無く記憶を掘り返せた私の聡明を今は誇ろう。

確かにあれこれと誤算は多かったが、それでも目論見通りに天国への一票は得ることができた。

鬼達の顔を見ればわかる、久しく天国を選ばれた人を見ていなかったんだろう。

どうだ、見たか、そう鬼達に言ってやりたくなる。


一番古いかもしれないばっちゃの記憶。

人生としては中頃だろう西島の記憶。

その前後は断片的であり、そこから繋がる記憶の中に候補は思いつかない。

ばっちゃほど単純で、西島ほど愚かでは無い、言ってしまえば真っ直ぐに人を愛し信じる馬鹿な人間だ。

そんな人間を私は切り捨てて生きてきた。

当然だろう、何の利もない役にも立たない人間達なのだから。

何度思い返しても出てこない。

こいつなら確実に私に従う、そんな人間が思いつかない。

少しづつ鬼達がまたヒソヒソと声を出し始めた。

年寄り鬼も、待ちくたびれたのかジッと私を睨むように見続けていた。


ドクドクと心臓が脈を打つ。

荒ぶる鼓動は心臓を飛びだし、骨や肉を飛び越え、私の手に熱さを感じさせた。

そしてその熱さに優しさを感じた。

はっと気がついた。

誰よりも私を愛し、誰よりも私のそばにいた人間。

私の死の際までこの手を握り続けてくれていた人間。

死の恐怖を手の温もりで和らげてくれた人間。


私には妻がいるではないか。


ばっちゃは私にこう言った。

「会いたい人がいるだろう、その人に気持ちを伝えるといい」

そうだ、あの死の際。

私は妻に伝えたいと思っていた。

ありがとうと愛してる、その二つを伝えたいと心の中で叫んでいたではないか。

妻に感謝と愛を告げ、妻から天国への一票をもらう。

どうしてこんなに素晴らしい案に気がつかなかったのか。


少し、口元が緩む。

そして先程とは違う、歓喜で手が震え始めた。

それを見て年寄り鬼も察したのか、私に声をかけた。

「決まったのか、早うせえ」

私はゆっくり立ち上がり、全身の砂埃を払い、真っ直ぐに閻魔を見据えて言った。

ここが正念場だ。

覚悟を込めて私は言った。

「最後の決め人は、妻にしてください」

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