第41話 死命
蒼波との再会を果たした後、私は南尉の中枢に向かった。
『貴方に託しましょう、我らが一手を。』
地蔵大菩薩が行命様に告げた言葉の真意を聞きにいかなければならない。
国の中枢に在る中陵山脈(ちゅうりょうさんみゃく)。国の脊梁と呼ばれるこの山脈には、蓉山(ようざん)と呼ばれる、尾根に連なる山々の中で最も高い山がある。
この国では蓉山の山頂はあの世とこの世の境界であると考えられ、同時に六道を渡って救済を行う地蔵菩薩が顕現する場として祀られていた。
無限の大慈悲を持つ地蔵菩薩はこの山から下界を見渡し、苦悩の人々を救うべく現世を見守ってくれているのだという。
ならば行くべき所はここしかない。
*****
一週間もの旅路を得て辿り着いた参道の入り口で、雪雲に覆われた遥か高みに聳える尾根を眺めた。
あの様子では山頂付近は吹雪になっているだろう。いや、そもそも山の天気は変わりやすい。今の景色を参考にしてはいけないだろう。
万物に宿る奥拉の力を借りて、常人より環境に適応できる肉体にはなった。それでも、前世の登山装備と同等の適応能力しかないと私は考えている。
雪山登山は過酷だ。少しでも天気が変わったら、足を滑らせたら、雪崩が起きたら。考えうる不安要素の一つでも起きたら、生死の天秤は一気に死へと傾く。そして、それはほぼ確実に起きうるのだ。自殺行為と言ってもいい。
だがその不安以上に私の心を掻き毟る感情があった。
蘇る記憶。赤、紅、緋、赫──
「……っ!!」
雪が積もったそこにどしゃりと崩れ落ちた。手足が、内臓が掻き千切られた激痛が蘇る。一気にせり上がる吐き気を堪えて口元を押え、私は雪の中を蹲った。
「っは、はぁ……はぁ……。」
暫くすると波も落ち着き、私は荒い息でよろよろと立ち上がった。登る前から消耗してしまった。だが私の心情はどうしても平常ではいられなかったのだ。
閻魔大王がわざと私を地獄から逃がした。
地蔵菩薩が告げた言葉の背景を考えるならば、かの王の思惑もあって私の現状があるのだと分かる。
けれどその思惑が分からない限り、相対した瞬間地獄の刑場へ連れていかれてしまう可能性も考えてしまうのだ。
分かっている。
閻魔大王が罪を償うべきと判断したら、それを受け止めるべきというのは。
けれど本能が拒否するのだ。今までの修行で悟りを目指し、魂を鍛えてきたというのに、それが根底から覆されるかのような恐怖。
胸の前に握りしめた両手は力が入りすぎて震え、義足の両足は凍り付いたように動かない。
だめだ!止まってはだめだ。自分で決めたことだろう!?
心の中で叱咤するが、それでも足は動かない。
だが──ふと握りしめた両手が解ける。意識してのことではなかった。ただ自然と眼を閉じ、頭を垂れ、掌を合わせ、体は祈りの所作を取る。
どうか……!
臆病な私に歩き出す勇気を──。
この期に及んでどの面下げて、どの神仏に祈ろうというのか。
けれど始めの一歩を踏み出す為に、私は何でもよいから力を貸して欲しかったのだと思う。そう自分で考える程には無意識に行っていた所作だった。
忙しない呼吸が落ち着きを取り戻していく。荒波のように揺れていた心情も同調して凪いでいった。
完全に落ち着きを取り戻した私は、再び山脈を見上げて唾を飲み込むと、意を決して参道を登り始めた。
*****
寒気は肌を破くかのように鋭く、乾ききった風は容赦なく肉体の水分を奪っていく。
気圧の変化、落石、気まぐれのように移り変わる天候。
それは、時には視界を奪い、体温を奪い、空気を奪い、思考を奪い、そして体力を奪っていった。
蓉山は一日で登れる山ではない。荒れ狂う環境の中で私は何度も死に瀕した二日間を過ごし、ただ頂上へと向かった。
そして三日目の昼、
「着いた……。」
そこには地蔵菩薩を祀る小さな祠が建っていた。
思ったより小さい本殿だ。だが、祠が建つこの場所を考えれば当然か。
それは蓉山の槍のように突き立つ頂点にあった。祠が建つ面積だけで頂上の平面は埋まっており、私が立つ場所も身を起こすのがやっとな斜面だ。更にこの位置に来るのにも、絶壁に打ち立てられた杭を頼りに登っていかなければならないのだ。こんなところに大きな建物など建てられる訳がない。
そんな、雪に埋もれかけながらひっそりと建つ祠を見つめる。心臓が大きく拍動し、心音が頭にガンガン鳴り響いた。
私は意を決すると閉められていた祠の扉をゆっくりと開く。扉から現れた地蔵菩薩の仏像は、荒ぶる雪風の中にあってもその繊細な彫刻は朽ちておらず、優し気な眼差しで見つめる柔和な顔に思わず感嘆が零れた。
刹那
ガクンと体が傾いた。
「っな!!」
足元を見れば留め具が掛けられたまま義足が転がった。
透化が──っ!!
その思考が走ったがよく確認する間もなく斜面に倒れ込み、その勢いのまま転がっていく。
まずい、落ちる!!
転がる身体を食い止めようとがむしゃらに手を突き出し、岩の出っ張りに一瞬手が掛かる。しかしすぐに手が滑って意味を失った。いや、
手も──ッッ!
視界に映った両手は消失していた。
ふわりと襲われる浮遊感。そして下から吹き荒ぶ落下の突風。
死ぬ!!!
反射的に目を固く閉じて私の視界は暗闇に塗りつぶされた。
*****
「罪人が参ったようだな。」
腹の底から響くような低く重々しい声に私ははっと意識を取り戻した。跪く私の視界に映るのは大理石の石畳。雪山にいたはずなのに熱気がねばりつくように肌を撫でる。
知っている。この視界は。この感覚は。
ぶわりと脂汗が大量に湧き出る。全身がガタガタと震え出した。
私は怯えながら声の主を見上げる。
「逃れられた、とでも思ったか?」
そこには玉座に佇み目を細めて私を見下ろす閻魔大王がいた。その傍らには、私が地獄に来た時に裁判に立ち会った補佐官らしき鬼も、険しい顔をして立っている。
その姿を認めるとひゅっと息が止まった。
何か話さなければ。私を逃がした真意を聞くんじゃなかったのか。
心の中で叱咤するが、口を何度も開け閉めするばかりで声が出てこない。
「……わかっているだろう。今のお前の存在は現世において歪であるという事は。」
私が話せない様子であるのを察して、大王は続けて口を開いた。
「地獄では罪が確定した罪人に仮の肉体を与える。それは肉体が伴わなければ刑罰の苦しみも伴わないからだ。
だがそれは地獄だからこそ成り立つ理。一度地獄を出れば肉体は自壊していき消滅する。そのように作っている。ならばお前の肉体が崩壊し再びここに戻ってくることになるのは自明の理である。」
崩壊……という事は滑落した時、私は再び死んだのだろうな。
「私はこれからどうなるのでしょうか……。」
やっと声を出すことができた。それは消え入るようにか細く情けないものだったが。
「どうなると思っていたのだ?」
大王は逆に聞き返した。
私は祈るように胸の前で両手を握りしめ、思いの丈を告げる。
「私は前世で罪を犯しました。私の死によって未来を狂わせられた人達は多くいたことでしょう。けれど今の私ではその人たちに直接償うことはできないから。……再び大王にお会いすることは覚悟していました。ならば相まみえた時、大王が下す罰をそのまま受け入れる事こそが、私ができる唯一の償いだと思っています。」
「……。」
私の答えを聞いて、閻魔大王は口を閉じた。傍らの補佐官も私を見つめるだけで口を開くことは無い。
数拍の静寂。
自分の気持ちは告げた。後は大王次第だ。私は未だに震える体で佇まいを正し、頭を深く垂れて跪いた。大王の判決を待つために。
「ならば選べ。」
大王は静寂を打ち切った。
「限られた時で苦難を生きるか、輪廻へ還るべく刑罰を受けるか。」
予想しなかった言葉に驚く。思わず顔を上げた私に、大王は四つ指を立てて示した。
「四年やろう。」
「えっ……?」
「お前に再び仮の肉体を与える。四年もたせよう。その猶予で我が使命を果たしてもらう。」
ばくん、と心臓が嫌な音を立てて鳴る。湧き上がる重圧に身体が潰されそうだ。一度は引いていた汗が再び滲み出し、私は息を呑んで大王の次の言葉を待った。
「行命が死んだ事で”倭郷”(わごう)は崩壊の運命が待ち受けている。”天変”によってだ。」
まさか。
「お前が倭郷を運命から救え。天変の原因を突き止め、崩壊を止めるのだ!」
そんな──!!
「出来るわけがありませんッ!!!」
己が罪人の立場であるのを忘れて私は悲痛に叫んだ。
「行命様の先祖達が、倭郷に生きる全ての人達が!八百年止められなかった災害なのですよ!!!私などが──その一抹にも満たないちっぽけな人間が!国を揺るがす災害を止められる筈がない!!!」
「ならば刑罰を続行するまで。」
「──っ!」
淡々と述べる大王に私は怯んだ。
刑罰を受ける事が怖くないと言ったら嘘になる。けれどそれはとっくの前から覚悟していたことだ。だが天変は違う。
行命様の苦悩を考えれば天変を恨む気持ちはある。けれど一度に何千人もの人間を襲う災害に、私一人でどうやって立ち向かえというのだろう。
いったいどうしたら……!!
『胸を張れ。お前ならばこの先何があったとしても乗り越えられる。儂はそう、信じている。』
ふと、かつての声が脳裏に蘇った。蹲る背中を支えて励ますかのように、動揺に揺らいだ心に染み込んでいく。
お父さん……。
それを皮切りに今まで掛けられた言葉が蘇る。
『今は未熟であろうとも、貴女ならば法師の教えを正しく繋いでくれるでしょう。』
徳本様……何処までも真摯に私達の事を慮ってくれた。
『自分の気持ちを何でもかんでも押し込んだら、のっぺらぼうのお人形になっちゃう。』
美紗紀……いつでも優しくて去り際でも私を元気づけてくれた。
『先人が高い壁として目の前に立ち塞がってこそ、下の者は奮起するものさ!!』
耀日様……お茶目で自信に満ち溢れてて、女性の憧れのような人だった。
今までに出会った人々の記憶が走馬灯として脳裏を駆けていく。そして最後に浮かび上がったのは彼の言葉だった。
『俺はもう行く。お前はどうすんだ。』
蒼波……私は、私は──!
こんな事を願うのは分不相応だと分かっている。けれどあふれ出した気持ちは抑えられなかった。
会いたいんだ。また君に……みんなに会いたいよ!!
「選択は。」
閻魔大王が再び問うた。私は渦巻く感情を胸に抱え大王を見上げて口を開く。
「この一年の中で私を信じてくれた人、励ましてくれた人、憧れとなってくれた人、様々な尊敬できる人達に会えました。私は皆に報いたい。それが私の罪への償いとなるならば、足掻いてみましょう。貴方が与えて下さった時を──!!!」
大王は大きく頷くと手に持った勺で私の背後を指し示した。
「ならば行け!我らが一手として!!」
裁判の間の扉が大きく開かれる。振り返った私に強い白い光が差し込み、やがて視界は真っ白に塗りつぶされて──
「──っ!!」
気が付くと、視界は満天の星空で埋め尽くされていた。
吹雪は収まったらしい。視界は何処までも澄んでいて、辺りは静寂に包まれ、正しく鼓動を刻む己の心音が耳に心地いい。
ほぅと吐息が口から零れると、美しい夜空に白い霞がかかった。
どうやら蓉山で滑落して落ち切った場所で横たわっているらしい。雪に埋もれて冷えた体を動かすのが酷く億劫だった。
それでも──生きている。
指先に意識を向けて力を入れると、雪を巻き込みながら握り込んだ。染みるように肌を刺す感覚。
「冷たい……。」
ぽつりと呟いた声は掠れていた。
そのまま拳を顔の前に持ってくると、そこには健常なままの腕があった。緩んだ拳から乾き雪が砂の様に零れ落ちて顔に降りかかる。
冷たい。あぁそうか、これが冷たいだったな。
両手どころか全身に感じる鮮烈な感覚に、滑落の前は体の感覚も曖昧になっていたのだと自覚した。
顔に掛かった雪が体温で溶けて涙の様に頬を滑り落ちていく。
私はそれを拭い、気だるい身体を叱咤して起き上がった。裸足の両足は霜焼けで赤く染まっていたが、確かに生身の肉体がある。
緩々とした動きで足に力を入れれば、素足はそれに応えて雪面を踏み締め、私は真っ白な世界の中で一人立ち上がった。
「四年……。」
この感覚を享受できるのも、あと四年。私は雪に埋もれかけながら転がる義足に気付いて拾い上げると、それを抱きしめるように両手で抱えた。
これが必要な時がまた来るだろうから。
いつか迫るであろう終わりの時を思い、夜空を見上げた。
そこには宝石のように星々が輝く天空の中で、優しく光を落とす満月が道標の如く輝いている。
私は、その光を目指して一歩一歩とゆっくり、それでもしっかりと地面を踏み締めながら歩き出す。
夜の世界を照らす月の光は、雪原に線を引くように描かれた私の足跡をただ淡く照らしていた。
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