第40話 邂逅

獣の足跡が曲線を描いて刻まれた堅雪を踏み砕いて、新たな足跡が刻まれる。昼間の穏やかな陽気で溶けかかっているそれに両足が深く沈みこむが、背丈が六尺近く(約180㎝)ある少年にはあまり気になることではないようだった。


雪であらゆる音が吸い込まれた静寂の中で、彼が雪を踏みしめる足音と、一定の調子で紡がれる息遣い、そして隻腕に抱えた錫杖に連なる遊環が擦れ合う音だけが響いていた。


しかし、彼が歩みを進めるにつれ新たな音が少年の耳に届く。


少年か、少女か、まだ若い人間の声。始めは歌っているように聞こえる声は、近付いて鮮明になっていくにつれ、それが経文であると分かる。


少年は雪で消えかかっていた山道の角を曲がり、その先の開けた土地に建つ山小屋とその脇で両手を合わせて雪面に屈む人物を見た。


短く髪が切り揃えられた頭を垂れ、経文の最後の一音を唱えると白魚の指先で持った鈴棒が振られ、高い澄んだ音が虚空に響いていく。


少年は足を止めてただそれをじっと見つめていた。目の前の光景を重んじるように。


その者が徐に立ち上がった。屈んでいた体で少年からは見えなかった義足の両足、その向こうの墓石が露わになる。細く煙を上げる線香は既に殆どが燃え尽きて消えかかっていた。


義足の人物は振り返り、その瞳に少年の姿を捉えると、まるで来ることが分かっていたかのように落ち着いた様子で微笑んだ。


「久し振り、蒼波。背……伸びたね。」

「お前は……色々と変わり過ぎだ。」


彼は目の前の人物の義足を見遣り、次いで雪に紛れて分りづらかった透けた両腕を見て呟く。


「うん、まぁね。驚いた?」


そう言って何処か影をちらつかせて微笑む伊織に、少年、蒼波は隻眼を細めた。


彼はそのまま伊織の脇をすり抜けると、真新しい墓石の前に跪き顔の前に掌を立てた。伊織も、その蒼波の隣にもう一度跪き、手を合わせた。


暫くそのまま二人で黙祷を捧げていたが、不意に蒼波が立ち上がって口を開いた。


「俺が来たこと……驚かねぇんだな。」

「うん、君は来るんじゃないかなって思ってた。」


伊織も立ち上がって蒼波と向き合うと、人差し指を立てて天を指す。


「君の奥拉の存在を知るようになってからは。」


猛禽類の鳴き声が一つ、笛を吹き鳴らすように空を通っていった。次いでばさりと羽根音を響かせて天から一羽の鳶が降りてくる。それは蒼波が抱える錫杖を止まり木にして降り立つと、途端にその輪郭が歪み霞となって消えた。


「いつから気付いてた。」


蒼波はそれを見遣る事もなく伊織を見据えて問う。


「行命様の修業を得て奥拉を感じ取れるようになってから。最初は君のだって事は分からなかったけれど、誰かの奥拉が常に近くにある事は分かってた。」

「俺のだという確信は?」

「確信したのはほんの数日前の事だよ。行命様の生い立ちを聞いて。だけど君じゃないかなとは何と無くは思ってた。君……前会った時の別れ際に私を試したでしょ?」

「何のことだ?」

「【村上将仕郎蒼波真良】。」

「……!」


かつて聞いた蒼波の名前を伊織が口にして、少年は目を軽く見開いた。


「当時の私には意味が分からなかったけれど、この国においてその名前は官職の位を表す。そしてこの名前は自己紹介で気軽に口にするべき名じゃない。君は行命様と一緒にいる私が世間知らずな事を察して、逆に何処まで物を知らないか試したんだ。少なくとも普通の平民でも長い名前なら偉い人だっていうのは分かるからね。」

「……。」

「君は朝廷の人間だ。考えてみれば朝廷が行命様の行動を監視しようとするのは当然のことなんだよ。例え呪詛があるとしても、国を揺るがす天変に関わる一族となればね。」


そこまで言うと、蒼波は極まりが悪そうに後頭部を掻いた。


「覚えてないと思ってたんだが。」

「そんなこと無いよ、って私は言ったよ?」


伊織はお道化た様子で笑みを浮かべるが、不意に真顔になって蒼波の顔を見つめた。


「朝廷は私の事を知っているのかな?」

「……報告はしていない。法師との約束だからな。だが──」


蒼波は一瞬躊躇った素振りを見せたが、猜疑心を含んだ眼差しで伊織を睨み付けた。


「お前の事をどう報告したら良いのか、にも迷った。お前は一体何なんだ。」


彼はそう言って伊織の義足の両足と透けた両腕を見遣った。


「……そうだよね。ずっと外側から見てきた蒼波にはそう思えても仕方がないよね。」


伊織は寂しそうに微笑むが、直ぐに真剣な眼差しを向けた。


「もう少し、私の事は隠してくれる?」

「どっちにしろ今更報告しても首を切られるだけだ。物理的にな。そもそも官職とはいっても末端の末端。朝廷にとってはすぐに切り捨てられる程度の人間だよ、俺は。」


首をすくめて冗談の様に彼は言うが、それは笑っても良いものかと伊織は苦笑する。だが不意に蒼波は口調を固くして呟いた。


「天変が起きた。法師が亡くなった日にだ。」

「──!」

「これは隠せねぇぞ。天変に関わる報告は俺が本来負うべき責務だし、そもそも隠せるもんでもない。」


息を呑んだ伊織に彼は続けて言った。


「場所は黄弦だ。現状はお前の目で確かめな。」

「そんな、黄弦が?!」


伊織の脳裏に徳本の姿が過る。彼女の顔色は見る見るうちに青ざめた。


「もう天変を押さえていた血脈は途絶えた。これからこの国は荒れる。どこもかしこも黄弦のようになるだろう。」

「……。」


考え込む様に俯く伊織を見据えて蒼波は隻眼を細めた。


「俺はもう行く。お前はどうすんだ。」

「黄弦の事は気になる。けれど私には行かなければならない所があるから……そこに向かうよ。もしかしたら帰れないかもしれないけれど。」

「……そうか。じゃあお前とはこれきりだな。」

「ひどいなぁ……。そこは残念とかいう言葉はないの?」

「知るか。お前が何処へ行こうが俺が関与する事じゃねぇよ。何処となりとも行っちまえ。」


彼はぶっきらぼうにそう告げると錫杖をこつんと伊織の頭に落とした。


小さく悲鳴を上げて頭を押さえる伊織に、彼はそのまま彼女を見下ろして続けて言った。


「だが……お前のお陰で法師は救われた。その事には感謝してやらんでもない。」


きょとんと眼を丸くして蒼波を見上げる伊織だが、次第にその言葉が聞き間違いではない事を理解してくすりと笑う。


「君は正直じゃないね。」

「俺は何時でも正直だ。」

「どの口が言うんだか。」


心外だとばかりに眉間に皺を寄せると、彼は踵を返して雪道を歩き出した。


「蒼波!また会おうね!」


颯爽と立ち去っていく彼に、伊織は慌てて声を掛けた。返事は返ってこないものだと彼女は思っていたが、彼は手を振るように肩に担いだ錫杖を持ち上げる。


じゃらんと鳴った遊環が、彼の返事の様に感じられた。


「こっちこそありがとう……。お陰で少しだけ勇気が湧いたよ。」


そんな彼の背中を見送って小さく呟いた伊織の言葉は、少年には届かなった。

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