第36話 苦行

「とても賑やかな師弟の二人でしたね。私、沢山彼女達に元気を分けて貰った気分です。」

「お前にとって良い出会いとなったならば良かった。いつの間にか子弟の彼女とは気軽に呼べる仲になっていたようだの。」


黄弦を出て行命様と共に歩いている最中、私は彼に話しかけた。行命様もはしゃぐ私の様子を見て微笑ましそうに相貌を細める。


「尊敬語は使わないでくれって言ってくれたんです。距離を感じてしまうからって。」

「そうか、奴の弟子らしい言葉だの。」


彼は何処か懐かしむかのようにふっと口元に笑みを浮かべて前を向いた。その視線がここではない景色を思い返してる様で。


もしかして、耀日様にも同じこと言われたことあるんじゃないかな。そう思うと、徳本様に言われた言葉が蘇った。


『冬は……越せないでしょう。』


ぎゅうと胸が締め付けられて私はそれを押さえ着物の合わせを握り込む。逸見は冬まで辿り着くには遠すぎる。今回が二人の今生の別れになると彼女は知っていたのだろうか。


「義足の調子はどうだ?」


その時、行命様から声を掛けられて私は我に返った。


「はい、良い義足を作って頂いたお陰で明日には杖を外せそうです。」


私はまだ松葉杖を付いて歩いていたが、既に杖が若干邪魔に感じてきている。

杖を外した歩行練習も義足を付けてからずっと練習していた。今日は試しに杖を取って、ある程度の距離を歩いてみても良いだろう。


「そうか。それは……驚いたな。」


行命様がそう言って目を見開いた。徳本様と似たような反応に、やはり驚かれるようなことなのだなと実感した。まぁ歩けるに越したことは無い。


そうしたらですね、と私は話の流れを使って美紗紀に言われた事を実践してみる事にした。


「私が杖を取って問題なく歩けるようでしたらなんですけど……私、奥拉の扱い方の修業に移りたいです。勿論他の勉強も大事なんですけど……。」


少し照れながら、逸る気持ちでそわそわしながら、続きを紡いだ私の言葉に彼は拍子抜けとでも言うかのようにため息を付いた。


「そこは着物の一つでも欲しいとかではないのか。」

「だって私着物とか興味ないですもん。」

「──女子らしい格好をさせてやれなんだと気を揉んでいたのは何だったのか……。」

「へ?何です?」


ぼそりと呟いた彼の言葉が聞き取れなくて聞き返すが、彼は首を振った。


「元よりそのつもりだ。近隣の山間に入ったら修業に移る。」

「本当ですか?!ありがとうございます!!私、精一杯頑張ります!」


浮き上がる心に合わせて声の調子を上げて張り切る私に向かい、行命様はニヤリと口端を釣り上げた。


「言ったな?」

「言いましたとも。行命様も今更やめだとか言わないでくださいね!」


彼の不穏な気配に気付かずに調子に乗っていた私の心情は、続く行命様の言葉で地に落ちた。


「明後日には目的の山間部に入るだろう。それより三日間は絶食だ。塩と白湯以外口にしてはならん。」

「え゛」


びしりと固まって足を止める私を行命様が振り返る。意地悪そうな表情をしているが、目の真剣味が冗談ではないと証明していた。それを理解すると一気に血の気が引いていく。


「今までと比べ物にならないと言っただろう。」


そう言って彼は踵を返して再び歩き出した。



*****



轟轟と高所から落ちる水が滝つぼに注ぎ込んで、細かい飛沫が霧となっている。


滝面から飛び出している岩肌にはびっしりと苔や水草がこびりついているが、それも寒気で枯れて茶色を帯び、更には降りかかった雫を垂らした状態で凍り付き連なっている。落ちた水が作った河の端には薄っすらと雪が降り積もっていた。


暦では晩秋であるが、山中は既に冬の季節に突入している。


そんな美しくも自然の厳しさを感じられる景色の中で、


無理無理無理無理ッッ!!!!死んじゃう、死んじゃうッッ!!!!


私は膨大な質量の水に打たれて溺れかけながら心の中で絶叫していた。


滝の中腹に飛び出した岩場で座禅を組み、般若心経を唱えながら滝に打たれる事で精神と魂と清める、というのがこの修業の目的だが、清めるどころか半ば精神崩壊しかけている。


幅6間(約10.6m)程の渓流から流れ落ちる、凍る寸前の水流が容赦ない水量で叩き付けられる状況を想像してみてほしい。


既に滝行に入って四半時(三十分)程経っている。私の透過とは関係なく手先の感覚が消失し、体中の筋肉が凍ったかのように固まってまともに身動ぎすらできない。


口を慣性で動かして叩き込まれた経文を唱えるのが精一杯だ。それも歯がかみ合わず、傍から聞いてみれば何を言っているのか分からない有様だ。


今まで行命様のしごきでキツイと思った事は多々ある。けれどこれは本当に今までの比じゃない。


十日前、行命様に改めて師事をお願いした時からこの苦行は始まった。


先ずは三日間の断食。本当に岩塩と白湯しか与えられなかった。その間、複数の経典をそらで唱えられるよう徹底的に叩き込まれる。


あらかじめ教わっていたとはいえ、暗唱できるレベルとなればそれは段違いに難しく、三日間声が枯れる程経文を読む事となった。しかもその間絶食となれば頭に栄養が行かず朦朧とするし、胃が痛くなる程お腹が空いてしょうがない。


三日が過ぎて朝日が昇る景色を目にし、その美しさではなくごはん!という感激に私は涙ぐんだ。


しかしその直後に水垢離(みずごり)を命ぜられる。夜間に冷え切った河川の水に浸かれというのである。この人実は私を殺す気なんじゃないかと本気で疑った。


しかも河川で水垢離となれば水温の他に川の流れもある。比較的流れが緩やかであったとはいえ、胸まで水に浸かった状態で流れに逆らいながら姿勢を長時間保つのは容易ではない。


勿論その間経文を暗唱し続ける。その間行命様の監視があるので、間違えれば最初から唱えさせられ、最初はいつまでも水から出られず途中で気絶して引き上げられる羽目となった。


起きた私は未だに自分が生きている事にまたもや感激し、やっとありつけた食事は彼に初めて会った時よりよっぽど美味に感じられた。


ただその間に、行命様が明らかに食事で使う量ではない蓼(たで)や唐辛子を荷物から取り出して何処かに運んでいるのが心胆寒からしめたが。どこであんな量集めてきたんだろう……。


水垢離開始から四日。やっと気絶しなくなった私だが、何とか自力で浅瀬に上がってぶっ倒れた所に、今度は水垢離に加え”忍苦の行”を行うと告げられた。ここで彼が持っていた香辛料の数々が活用されることになる。


忍苦の行とは字面のとおり苦しみに耐え忍ぶ行だ。具体的には唐辛子を燻した煙が充満する室内で、座禅を組みながらひたすら耐えるのである。


今まで低温に晒されていた体温が一気に上昇し汗が止まらない。更には唐辛子の刺激で眼を開ければ涙が、息を吸えば咳と鼻水が止まらないので、それはもう乙女としての貞操観念が吹き飛ぶほどのひどい有様だった。


このために借りた山小屋を出た瞬間、またぶっ倒れた私に浴びせられた冷水に助かったと思ったのは何という皮肉だろうか。


この忍苦の行、回数を重ねれば比較的慣れてくるのだが、そうすれば容赦なく唐辛子の量を追加してくる。結果どれだけ慣れても辛い。苦行の中で、わざわざ苦しいという文字を付ける修行な事だけある。


そして三日が経過。水垢離が無くなった代わりに滝行が追加されて現在に至るのだ。


もう本当に辛い。そろそろ気絶してもおかしくない。というか気絶する状態が分かるようになってる時点で末期だ。


「そこまで。」


行命様の言葉が聞こえた瞬間、体が弛緩してそのまま後ろにバターンと倒れる。滝の裏側は数人が優に座れる空間があり、そこで彼は火を焚いて待っていた。


私はガチガチに固まった両手を何とか動かし、匍匐前進で焚火までやっとのことでたどり着く。行命様はそんな私に白湯を差し出した。


行儀が悪いとは思いながらも、起き上がる余力もないので寝転がったままそれを受け取り椀の中身を啜る。この時ばかりは行命様も何も言わず、代わりに乾いた布を沢山被せてくれた。


「動けるようになったら直ぐに着替えなさい。」

「……っ」


返事をしようにもまだガチガチと歯の根が合わない。私は暫くそのまま火に当りながら、食事を作る行命様の姿を朦朧とした意識で眺めていた。


しかし暫くすると硬直していた体も動かせる程度まで回復し、私は大量の布を被った状態でもそもそと着替える。まるで巨大な芋虫がうごめいてるかのような光景だ。


その間食事が用意できたようで、行命様は鍋の前でじっと待っていた。


着替え終わって彼の前に座ると食事が盛られた椀を差し出される。その香りを嗅ぐと吐き気が襲ってきて反射的にえずくが、それをどうにか押しとどめて受け取る。


少しでも食べなければ死んでしまう。その一心で椀の中身を掻き込むと一息ついた。


「まだいるか?」

「……。」


行命様の問いに首を振る。まだしゃべるのが億劫に思える程全身がだるいのだ。ここ数日は食欲が一気に落ちたことでやせ細り、あばら骨が浮いてしまっている。


折角身体を鍛えて逞しくなったと思ったのに、振り出しどころかマイナスまで衰えてしまった。今まで見たことが無い体付きを見ると否応もなく落ち込む。


「辛いか?」


それに私はこくりと頷いた。


「殺される、とか思ったか?」

「……。」


思わず躊躇したが首を横に振る。


「今の間を考える限り、思ったより儂は信頼がなかったらしい。」


行命様はくっと小さく笑った。


「今まで儂がお前を肉体的に鍛えていたのは、この修行に耐える体力を付けさせるためだ。奥拉を使いこなすためには必要な過程だからな。」


それは理解できる。昔の私だったら断食の段階で音を上げているだろうから。


「いずれそれが報われる時が来る。それまでの辛抱だ。」

「そうしたら……食べる事も出来ますか?」


私はやっと声を出す事が出来た。それも喉が痛くて掠れた声であったが。


食べるという事は最も身近な生命活動だ。それが出来ないのは一番辛い。


「出来るとも。」

「……頑張ります。」


私はそう答えると布を引き寄せて蹲った。

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