第30話 女傑

花火の音が微かに耳に届く。障子から差し込む光が眩しくて薄っすら目を開けると、使い古した布団と畳の床が視界に映った。


寝返りを打って視界を反転させると、すっかり明るい室内。暫くぼぅと天井を見上げていたが


「──っ!!」


ぼやけていた思考が覚醒した途端、私は物理的に飛び跳ねた。


「やばい、やばい!寝ちゃってた!!今何時よ!!」


私が寝ていたのは行命様の部屋だ。という事はあのまま寝落ちしてしまったのだろう。私は急いで自分の部屋に戻ると、慌てて身支度を整えて杖を引っ掴む。


多分行命様は一階で待ってる。急がなきゃ!


慌てて階段に向かうが、段差に差し掛かった所で足を踏み外した。


「わっ、わっ、おちっ──」


宿全体が軋むような派手な音を鳴らして階段から転がり落ちる。いつものドジっぷりをここで発揮してしまった。


「いった~……。」


荷物をかばって腰をしこたま打ち付け、私は痛みに呻く。患部をさすりながら杖を使って立ち上がると、予想通り一階でくつろいでいた様子の行命様が呆れた顔でその様子を見ていた。


「随分騒がしい起床だな。」

「うぅ……すみません。」


よろよろと近寄る私の姿を見て、彼はくっと笑いを堪える。


「寝癖が凄いぞ。」

「もう髪を纏めるのは下でやればいっかな、と思いまして。」


髪型を指摘されて慌てて手櫛で纏めようとする私に、彼は仕方ないと鼻息を付いた。


「座れ。やってやる。」


行命様は自分が座る縁台の隣を指先でコツコツと叩く。


「はぇ?!そんな、自分でできますから!」

「良いから座れ。」


ちょっとイラついた様子で縁台を叩く調子が速まったので、私は慌てて指し示す場所に座った。彼は背中を向けた私の髪を手櫛で整えると、丁寧にまとめ上げて髪紐で縛っていく。何だかこのやり取りは──


「お母さんみたい。」

「誰がお母さんだ。」


ぼそりと呟いた言葉を聞かれていて、出来上がった頭をぺしりと叩かれた。


このノリも随分久しぶりな気がする。そう思うと口元がニヤつきそうになり、私がそれを抑えてもにゅもにゅと顔を動かしているのを見て、気持ち悪い顔するなとまた叩かれた。



*****



今朝、遠くで耳にしていた花火の音が、今度は頭上で弾ける。人混みの中で空を見上げれば、真っ青な晴天に花火の白い煙が花開いた。それが合図だったのか、周囲の人混みは一斉に一定の方向に動き始める。これから”鏑流馬”が始まるのだ。


私達は今、矢馳流本殿に向かって歩いていた。だが人の流れが向かう先は少し違うようだ。


「皆、神社には向かわないのでしょうか?」

「鏑流馬の会場は別の場所だからな。」

「え、それじゃあ早く行かなければ良い場所は埋まってしまうのでは。」


不安に思った私の反応に対して、彼は少し得意げに眉宇を上げる。


「そこは伝手がある。それより先に行われる儀式があるからな。それを見に行くのだ。」

「儀式?」

「”天長地久の儀”(てんちょうちきゅうのぎ)という。着いたぞ。」


彼がそう言って指し示す先で、真っ先に目に入ったのは美しい朱色の鳥居だった。前世でも神社へ向かえばまず先に目にしたのは鳥居の姿だったが、この神社ではとりわけ映えて目に付く。


その理由は社殿の色彩にあった。


それは純白で彩られた社だった。鳥居に向かって伸びる参道の石畳も、周囲に敷き詰められた砂利も、社を囲う塀の漆喰も、すべて自然にある白をかき集めて社内がその色に染め上げられていた。


その美しさが社の神格を表しているようで、私は醸し出される荘厳さに一瞬気圧される。


「行くぞ。」

「あ、はい。」


しかし行命様に促されて我に返ると、先を歩く彼に続いて鳥居をくぐった。


途端、先程とはまた違った緊迫感に襲われる。鳥居の先に坐していた社もまた白に統一されており、境内には今は懐かしい白樺の木が植えてあった。


その中で社に飾られた黄色の飾り布をあしらったしめ縄と、己の騎馬と共に儀式の衣装を身に纏った、全国から集められた矢馳流の神官たちが異彩を放っていた。


彼らの表情は清廉でありながらも、どこかを見据えた瞳は静かな熱意に燃えている。側に従える馬達も老熟した玄人を思わせる精悍な顔つきで、周囲にはそんな騎馬達の息づかいが静かに響いていた。


張り詰めた弦の様に緊迫した光景に、私は自分の佇まいが失礼な気がして、背筋を伸ばし口元を引き結ぶ。


周囲を見渡すと、自分たちと同じ様に儀式を見物に来た集団を見付け、私達はそれに加わってこれから行われる儀式を待つことにした。


その間に神官達も動き出す。馬に跨い石畳の参道に沿って整然と並んでいった。


「あ!美紗紀さ──」


その中に美紗紀さんの姿を見付け、小さく名前を呼ぼうとしたが、その表情を目にして私はぎくりと身動ぎする。


彼女の顔つきには昨日までの親しげな様はなりを潜め、そこには戦に向かう武者のような気迫がにじみ出ていた。彼女が跨がる琥珀も、道中感情豊かに動いていた仕草が消え失せて、他の馬と同じように並ぶと微動だにしなくなる。


それを見計らったかのように儀式の合図の太鼓が何度も打ち鳴らされる。


そして最後に大きく一音を鳴らしたと同時に、力強く打ち鳴らされた一歩。余韻を残すように響いた蹄の音は、その場のすべての視線をかっさらっていった。


「奴め……また無理を申したな。」


行命様が小さく呟く。しかし私は、その言葉が遠くに聞こえる程目の前の光景に引き付けられていた。


現れたのは、白の空間を切り取るかのごとく目に鮮烈な漆黒の馬。かの黒馬が動く度にしなやかな筋肉が流動し、絹のような鬣が舞い、鳴らされる蹄は楽を奏でているかのようで。まるで芸術作品の様に美しく雄々しい馬だった。


そして黒馬に跨る神官は、壮年の女性。腰まで伸びた柔らかく癖のある髪には、重ねた歳の象徴である白髪が混じっている。しかし、本来なら誰もが忌避するであろうそれが彩りのように細やかく輝き、黄湖の湖面の様に波打つ髪が反射する陽光も相まって、まるで輝きを纏っているかのようだった。


そして身を包んだ儀式衣装。極彩色の鎧直垂(よろいひたたれ)、鹿皮の行縢(むかばき)、黒漆の物射沓(ものいぐつ)。全て彼女を彩るために存在しているかのように、恐ろしく様になっていた。綾藺笠(あやいがさ)から覗く琥珀色の瞳に射竦められれば、誰もが心を囚われてしまうかのような風格。


“女傑”という言葉が観客の中からぽつりと浮かび上がった。「あれは”逸見の女傑”ではないか」と。


事情を知るらしき観客の誰かは何故?と疑問の声を上げていたが、私がそれを怪訝に思っている隙に、現れた彼女と騎馬は参道の半ばまで来ていた。


彼女達はそこで一度足を止めると、その場で左に三回、次に右に二回円を描いて回った。そして彼女が背に抱えていた弓を両手に持った瞬間。


第六感とも言うべきものであろうか。私の根源に備わる感覚が、一斉に歓声を上げた。高揚に粟立つ肌を反射的に押さえ、覚えのない感覚に戸惑っている内に驚きの光景が作り出される。


彼女が天に向かって弓を構えた瞬間、ポツンと一つの燐光が足元から浮かび上がった。それを皮切りにして、泉が湧き出たかのように次々と光が溢れ渦を為す。やがてそれは集まり、凝縮され、黄金色の燐光を放つ一本の矢となった。


彼女はそれが放つ光を浴びながらゆっくりと弦を引いていき、それがいっぱいまで引き延ばされると、一息に右手を放した。


びぃんと弦が鳴ると、まるで矢が鳴らすようではない澄んだ音を残して黄金色の矢は虚空を貫いていき、やがてそれは天で弾けて燐光の雨を降らした。


空から降りしきる鱗粉の幻想的な光景に感歎のため息が零れる。


これが、神道の奇跡。ここまで神秘的な光景を見せられたら、多くの人々が信仰するのも当たり前だ。この世界に来て初めて目にした超常現象に私はただただ感動した。


「綺麗ですね……。」

「──何?」


隣の行命様に感動の余韻を残して語り掛ける。しかし彼はその言葉に驚愕した様子で、私を見下ろした状態で固まった。


え、どういう事?


予想外の反応に戸惑っていると、びぃんとまた弓が鳴った。今度は地面に向けて矢を放ったのだ。


放たれた矢は地面に消えるように吸い込まれたかと思うと、そこから一気に黄金色の光が溢れ出す。噴水のように噴き出た光は波となって地表を駆けていき、それは私達の所まで打ち寄せて広がっていった。


足元に光が来ると踏んではならないような気がして、思わず隣の行命様の袖を握って飛び退く。それを見た行命様は益々大きく目を見開く。


「伊織。お前はあの矢が見えたのか?」

「見えたのかって……皆見えているんじゃないんですか?」


慌てて周囲の観客を伺えば、皆が儀式を行った彼女に視線が釘付けになっている。下を見ていた様子はない。


「え?えぇ?!」


訳が分からず視線を右往左往する私の頭にぽんと掌が乗る。そのまま今世紀最大とばかりにわしゃわしゃと頭を撫でられる。


「ふぇっあの、ちょっと!」

「そうか……そうか!めでたい、実にめでたい!奴も偶には良い事をする!」


折角整えて貰った髪がぼさぼさになるし、頭をぐわんぐわん揺さぶられて散々な状態になったが、行命様が今まで見たことが無い程喜んでいる様子に私の胸にも歓喜が沸き上がった。


「えへへ……どんなもんです?」


一先ずそう言って得意げに彼を見上げると、行命様の表情から途端に笑みが鳴りを潜める。


「まだ調子に乗るには早いわ。」

「あいたっ!」


ぺしんと頭を叩かれ私は小さく悲鳴をあげた。

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