第29話 仁愛

暫くして、私が落ち着いてきた頃合いを見計らい老人は”徳本”と名乗った。


「私は医療で衆生を救う事を目指して医者になりましたが、以前は僧として仏徒に名を連ねておりました。その経歴上法師の事を存じ上げておりましたが、光栄なことに法師も私の事をご存じで有らっしゃった。」


「行命様は徳本様と面識が?」


「いいえ、私は昨年までは諸国を旅しながら医療奉仕に努めて参りましたが、そのうち”十六文先生”と呼ばれるようになっておりましてね。その名をお耳にして頂いていたようです。」


「十六文先生……。」


「私が十六文以上金を取らぬからだそうです。治療費を払えぬ者からは気持ちだけ貰っていただけであるのに、随分と誇張されて伝わったものです。気恥ずかしいですが、人々からそう思って貰えるのは嬉しいものですね。」



そう言って眦を柔らかく細める徳本様の顔つきはとても優しいもので、異名が付くのも納得させられる人柄の良さが伺える。


そう思うと、安堵からか不格好に口元が緩んでいた。



「では、お願いしてもよろしいでしょうか?」


彼は私の顔つきに安堵したように頷く。


「はい、お任せください。」


私は足に巻き付けたさらしを解いていった。かなり厚く巻いたので解くのに時間が掛かったが、徳本様にも手伝っていただいて両足が露わになる。


そしてそれを目にし、私は息を呑んだ。


足先が消失した瞬間は膝下までの透化であったのに、今は膝関節まで透化が進んでいる。


明らかに今までより透化の進行が早くなっていた。


言葉を詰まらせる私だが、徳本様の衝撃は更に大きいもので、彼は目を丸くして私の脚を凝視し固まっている。


「これは……この症状は、見たことがありませんね。」


数拍の間の後に何とか絞り出した言葉も、戸惑いが隠せない様子だった。


「病や怪我の類ではない事はお分かりだと思います。お断り頂いても……。」

「いや、取り敢えず診るだけ診てみましょう。」


申し訳なくなって辞退しようとすると、彼は我に返ったように首を振る。


手元の筐から器具をいくつも取り出し、最後に取り出した年季の入った眼鏡を掛けると彼は診察を始めた。


徳本様は私の脚を組ませて膝を小さな金槌でコツコツと叩いたり、先の丸まった針を一寸毎にずらして足に当てていき、その都度感覚の有無を確認する。


私はそれに答えながら彼の様子を伺って問い掛けた。


「あの、徳本様。」

「何でしょう。」

「徳本様は行命様の事をご存じだったとおっしゃいました。でしたら行命様が何故”三蔵法師”と呼ばれるのかもご存じでいらっしゃるのですね?」


私の問いかけに徳本様の手が止まる。掛けているのは老眼鏡なのか、彼は眼鏡を少しずらして裸眼で私を見上げた。


「ご存じではなかったのですか。」

「行命様はご自分の事を全く話されないのです。」

「……成程。徳の高い僧ほどひけらかす事を良しとせず口を噤む傾向にありますが、法師はそれが顕著であるようですね。」


徳本様は少し呆れた様子で手に持った器具を畳に下した。


「“三蔵”とは経蔵・律蔵・論蔵の三つの構成を指し示す言葉です。経蔵は釈迦の教えを書き残した経典、律蔵は釈迦が説かれた戒律、論蔵は釈迦の教えの解釈を表します。これらに精通した僧を“三蔵法師”とお呼びするのです。

そしてこの称号を与えられるのはこの国の頂点に坐する天皇のみです。現王、功皇様は行命法師の解釈、即ち論蔵に特に感銘を受けられてこの位を授けたそうです。当時、私より年若い僧がこの位を頂いた事に大変驚いたものです。」


「仏の解釈……。」


「行命法師は“仏教はあらゆる宗教と矛盾しない”と申されました。それを踏まえ、法師は【神仏習合】を説かれたのです。

神道は神のお力をお借りして現実の世界に奇跡を起こします。しかし朝廷の認識は、仏教は宗教の形を取った”学問“であるという考えが強かった。彼の言葉は当時の上層部の常識に一石を投じた考えであったのです。」


仏教は学問か。この世界と前世との認識のずれに違和感を覚えたが、よく考えてみれば、この世界では神道は目に見えて結果が現れる。神道の方が特別視されてもおかしくはない。


「神道の奇跡、【神降ろし】は、真に神に認められた神官でしか起せません。そして神に認められるには人間として成長しなければならない。行命法師はその過程に釈迦が説かれた真理があるのだと言われたのです。」


「……そうですね。釈迦は元は人間だった御方。仏教は仏に成るに至った釈迦の教えを元に、仏の境地を目指す宗教です。釈迦の教えには人との関わりや物事の捉え方を説いた言葉が多くある。それを実践し努力する事は、総じて人間として成長するということでしょう。」


私の言葉を聞いて、徳本様は眩しそうに眼を細めた。


「……貴女はやはり行命法師の弟子だ。三蔵の言葉は知らなくとも、彼がそれを説かれた真意をきちんと理解していらっしゃる。」

「とんでもありません。私など……ただ現在を足掻く事しかできていない。行命様の教えをまるで体現できていないのです。」


それはさながら濁流に浮かぶ枯れ葉のようで。脆く、汚く、いつ流れに呑まれて崩れ去ってもおかしくない。


そんな情けない自分が悔しくて、感情に任せて袴の裾を握りしめた。しかしその拳に、皺だらけの掌がそっとかぶさる。


「今は未熟であろうとも、貴女ならば法師の教えを正しく繋いでくれるでしょう。」

「……そんな大層な人間になれるでしょうか。」

「自信を持って。私から見ても貴女は人間として好感の持てる人物ですよ。」


徳本様は穏やかに微笑むと励ますようにポンポンと手を叩き、それに同調して私の拳はゆっくりとほぐれていった。


しかし、彼はすぐに表情を改めて場の雰囲気を切り替える。


「さて、診察の内容ですが──」


彼の切り出しに私も佇まいを正した。


「貴女の透過した足は皮膚感覚を失っていますが、脊髄反射は健常です。身体を動かす機能が失われた訳ではないので義足を作れば歩けるでしょう。」


「そうですか、よかった……。」


「ただし、今の状態も危険です。痛覚が無いと怪我に気付くのが遅くなります。最悪骨折したまま歩き回り、手当が遅れて壊死する可能性も十分ありうる。」


「そうですね……こまめに様子を確認するようにします。」


「それから今は感覚の消失で済んでいますが、いずれ中枢神経まで影響を及ぼすかもしれません。そうなれば歩くどころか動く事すらままならない。」



彼は説明の最中、触診していた針で膝頭を二回叩き、そして太股辺りをもう二回叩いた。それに対する感触は無い。


「透けているのは膝までですが、既に両足の殆どが感覚を失っている。膝上まで消失してしまったら、途端に義足の可動範囲は限られてしまいますし、そこまでいってしまえば、浸食度から考えて腰の辺りまで感覚が消失しているでしょう。

脊髄が影響を受ければ半身不随は免れません。山場を申し上げるならばそこが境界線です。そして──」


流れるように話していた徳本様の言葉がプツンと途切れる。彼は続きを言いにくそうに眉間に皺を寄せたが、意を決して再び口を開いた。


「私にはその侵食を止める術が見つかりません。」


そうだろうなぁ……。


私は失われていくだろう感覚にもの悲しさを覚えたが、心は決まっている。


「覚悟しています。」

「……そうですか。私の診察は以上です。」


彼は今まで詰まっていた息を吐き出すようにため息をつき、診察の器具を仕舞い始めた。


彼の経歴を考えれば、手の施しようのない患者を診たのは数え切れない程あっただろう。それでも患者を思って悲しみ、苦しんでくれる。不謹慎かもしれないが、彼がそう思ってくれる事で患者は救われているのではないか。


私達を診てくれたのがこの人で良かった。


結果は胸が締め付けられる程辛かったが、次第に心が落ち着いていく自分がいる。そうなれたのは、真摯に患者に向き合ってくれる彼が出した結論であるから。


「徳本様はどうして旅を辞めてこの町に?」


ふとこの質問が口を付いて出た。それに彼は微苦笑する。


「寄る年波には勝てなくてですね、旅の生活に限界を感じました。何処かに腰を落ち着けようかと考えた時、成るべく都会の町にしようと思いまして。」


一瞬怪訝に思ったが、すぐに理由が思い当たる。


「ここのような界隈があるからですか?」

「そう。豊かになればなるほどそれにあぶれる人もいるのです。一番の都会となれば首都の“邦都”ですが、あそこは上流階級の人間しか立ち入りが許されていません。ですから邦都に程近い黄弦に居付いた訳です。」


私は自分が泣きそうになっているのに気付いた。


彼の発言。それは最後まで奉仕に生きる覚悟をしている者の言葉だ。己の我欲を全て捨てた人間が行える行動だ。


「それは……その生き方は、辛くは無いのですか?」


私の問いかけに彼はにこりと笑った。


「人を助けて感謝される。それがとても嬉しい。私を突き動かしているのはただそれだけの感情ですよ。」


目頭を熱くしている感情が何なのか、言葉に表すことができない。ただ、泣くのは違う気がして、私は口を引き結び、溢れだしそうな感情を乗せて笑顔を浮かべた。


「徳本様に会えて良かった。」

「私もあなた方に会えて嬉しく思っていますよ。貴女にそう言って頂けましたからね。」


徳本様は本当に嬉しそうに笑みを深めると、器具を仕舞った筐を脇に置く。


「さて、次の診察は何時伺いましょう?」

「え?」


目を丸くする私の様子を見て、彼は怪訝そうに眉を寄せる。


「何かご都合が悪うございましたかな?あなた方はこの地に療養に参られたのでしょう?」


あぁそうだ、徳本様が言ったじゃないか。行命様は動ける事すら驚異にあたる状態だって。


私達がこの地に留まるつもりだと考えるのは当たり前じゃないか。


どんどん顔色が悪くなる私の様子を見て彼は気まずそうに謝った。


「申し訳ありません。差し出がましい真似をしてしまった様で。」

「違います!!そうじゃありません!!私はこれからも徳本様に診て貰いたいと思っていますし、行命様もそう思っていらっしゃる筈です!!」


けれど……と私は苦渋に顔を歪めた。


「行命様が、一所に留まれぬと、それはならぬと申されるのです……。」

「まさか、まだ旅をするおつもりで?!いけません、寿命をいたずらに縮めるだけですよ!!」

「私も療養に専念された方がよろしいと申し上げたのですが……あのご様子では聞き入れて下さらないでしょう。」


あんぐりと口を広げて固まる彼の前で、私は自分の力不足に項垂れる。


「行命様の申される事ですから、何か理由はあるのでしょうが……。」


徳本様は何か言いかけてから口を噤み、また開いて閉じるといった事を何度も繰り返し、暫くして脱力したように長いため息を付いた。


「本人が承知の上での望みならば、私がとやかく言えることではないのかもしれませんが……。」

「折角のお心遣い、無下にしてしまい申し訳ありません。」


頭を下げる私の前で、彼は悩まし気に眉間の皺を揉んでいたが、やがて意を決した様に口を開く。


「せめて……そうですね、三日。三日待っていて頂けますか?」

「三日、ですか?」

「流石に奉納祭まではいらっしゃるつもりでしょう?儀式は二日行われます。それに加えてあと一日待ってください。腕の良い木工職人を知っているのです。貴女の義足を用意しましょう。それから法師にも旅の生活に耐えられるよう強めの薬を処方します。

あぁそうだ、貴女に看護の仕方も教えなくてはね。三日では……ぎりぎりですが、これが私ができる譲歩です。」

「よろしいのですか?その提案は大変助かりますが、それは徳本様に多大な負担を強いれてしまうのでは。」

「私も医者でありながら何もできない状況は心苦しいのです。ここは助けると思って受け取ってください。」


優しく諭すように告げる徳本様の言葉に、私はこれ以上反論が浮かばず、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」

「はい、それでは忙しくはなりますが、それは明日からで。一先ずは奉納祭に向けて早くお休みになってください。療養でなければそれが目的でいらしたのでしょう?儀式が終わってからまた伺いましょう。」

「何から何まで……本当にありがとうございます。」

「いえいえ、それでは私はこれで失礼します。」


彼はそう告げるとそそくさと身支度を整えて、宿を出ていった。行命様に処方する薬の用意をする為だろう、早足で去っていく姿に益々頭が上がらなかった。


私は徳本様の姿が見えなくなるまで見送ると、行命様の部屋に向かった。部屋の襖を細く開いて中を伺うと、部屋の主は布団の中で眠っている様子だった。


音を立てないようにゆっくり、そうっと戸を開いて部屋の中に滑り込む。そして、これまた音を立てないように優しく襖を閉めると、布団に横たわる行命様の側ににじり寄り、近くで様子を伺った。


徳本様から薬を処方してもらったのか、顔色は良く、いつもより深く寝入っているような気がする。


安定した呼吸音を耳にして、安堵のため息が細く零れ出た。


私はそのまま気を緩めてしまったのだろう。


その夜は、それ以降の記憶がとんと思い出せなかった。

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