第28話 悲嘆

何やら気になる単語をいくつも聞いたやり取りだったが、歩みを進めていると美紗紀さんが言っていた様に人混みの終点も間近に迫っていた。


黄弦には、今まで見てきた村落には存在しなかった、町への境界線を象徴する建築物があったのである。


それは高さ40尺以上(12m以上)もの大きな門扉だった。


年数を経過した木目の色合いの重厚さと、高い技術を推し量れる繊細な意匠がこの町の豊かさを表している。


今まで県境を超える際に納税の検問はあったが、町に入るためだけにここまで立派な門扉を備えた所は見たことが無い。力を示すには良い宣伝棟だ。上手く考えたものだなと、それを見上げながら一人感心した。


入り口が近づき更に密集する人混みに四苦八苦しながらようやく門扉を潜ると、途端にわっと鮮やかな色彩と喧騒が一気に飛び込んでくる。


町に入って直ぐの大通りに連なる屋台には、青、赤、黄、白、黒の五色が飾られている。客寄せに励む屋台の町人も、それを冷やかしに覗く旅人も、五色の紙風船を突きながら遊ぶ幼子達も、皆が祭りの熱気に満ちあふれていた。


この世界に来て初めての都会らしい賑やかさに私はただただ圧倒される。


「さて、先ずは今夜の宿の事だが。」


行命様が不意に口を開き、呆けていた私は我に返った。


「あぁ、この人の多さですものね。急がなければ空きが埋まってしまう。」

「いや、常宿がある。ただ人気が少ない所にある宿なのでここから少し歩く。もう少し辛抱できるか?」

「人の心配するより自分の事考えて下さいよ。いいですか、約束したんですから宿に着いたら必ず休んで下さいね。お医者様は私が探してきますから。」


行命様は極まりが悪そうに眉を寄せる。


「そうは言っても、お前のその足だとこの広い町を歩き回るのは苦労ではないのか。」

「行命様に比べれば健康そのものですよ。良いからここは素直にうんと言ってください。」

「む……。」


彼は何とも言えない表情で顎を撫でた。



*****



行命様の案内によって辿り着いた宿は、彼が言うように物寂しい雰囲気が漂う通りの先にあった。


町に踏み入った時の賑やかさが嘘のように人通りが少なく、家屋は古びていて崩れそうだ。


目的の宿も周囲の例に漏れず寂れた様子で、ここで本当に合っているのか少し心配になった。


「あの……ここ、ですか。」

「うむ。ここならあまり人も来ないからな。」


人との接触を避けるかのような発言に違和感を覚える。


考えてみれば、彼は旅をする中で、長く宿に泊まろうとはしなかったし、人との携わりも最小限にしている節があった。


『ならぬ。ならぬのだ、それは。』


行命様が口にした言葉が蘇る。


……いつか、その理由を話してくれるのだろうか。


「たのもう。」


私が不安に思っている内に、行命様は宿の中へ声を掛けて踏み入った。すると奥から出てきた、宿の主人らしき老人が行命様の姿を認めて、皺だらけの顔を更にくしゃりと緩めて笑う。


それだけで彼との付き合いを伺い知れる事が出来た。


行命様は主人といくつか言葉を交わして私と向き合う。


「空いているそうだ。二部屋取ったので一部屋使うといい。」


そう言うと彼は盛大なため息を付いた。


「何度もお前に怒られるのは面倒だ。儂は先に部屋で休んでいるとしよう。」

「はい、是非そうしてください。」


きっぱりと言い放つ私に彼はまたため息を付く。


「くれぐれも無茶はするなよ。」

「大丈夫ですよ。心配しないでください。」


私はにっこりと笑みを返すと、主人に案内されて部屋に向かう行命様を見送って宿を出た。


外に出ると改めて周囲を見渡す。やはり人気は殆どなく、何故こんな所に宿屋があったのか不思議なくらいだ。


しかし、通りに立つ建物を眺めているとあることに気付き認識を改める。

宿屋だけが残ったんだ。


朽ちた桶が大量に積み重なった軒先。空っぽの商品棚の濁った水溜り。かつてはここも栄えた商店街の一つだったのだろう。現世でのシャッター街を思い出した。


……この廃れ具合ではお医者様は居ないかな。


少し落胆し、私は元来た道を戻ることにした。


そうして一人で歩き出すと、自分の現状が何とももどかしい。杖で支え全身を使って歩く今は倍体力を使う。けれど進む距離は半分なのである。


ここに来るまで隣に行命様がいてくれたので平静でいれたが、一人の状態でいると徐々に苛立ちが募る。額や背中を濡らした汗が、秋風に吹かれて肌寒いくらい体を冷やしていった。


さっきと同じペースで戻れたとして、そこからお医者様を見付けるのにどの位時間がかかるだろう。早く診て貰いたいのに……。


更に焦りが増してきた時だった。


古びた建物の中でいくらか手入れされている家屋から、立て付けの悪い引き戸を開いて一人の若い女性が出てくる。


派手な柄でありながらも古びて擦り切れた着物に身を包んだ彼女は、痩せこけて顔色が悪かった。何処か体調が優れないのだろうか。背を丸めながら薬包を両手で大事そうに抱える様子は哀れみを誘った。


彼女が出てきた戸口を振り返ると、もう一人の人物が家屋から出てくる。剃髪で真っ白な髭を蓄えた老人だった。刻まれた皺で相当のお歳と伺えるのに背筋は真っ直ぐ伸びており、しきりに頭を下げる女性に対して気遣う仕草は品があった。


気になってなるべく静かに近づいてみると、二人の会話が耳に届く。


「先生、本当にありがとうございます。お代は必ず……。」

「いいえ、気にしないでください。余裕があったらで構いませんから。それよりも寒くなってきましたから、なるべく滋養のあるものを食べて体力を付けてください。」

「え、えぇ……そうします。」


老人の言葉に一瞬返事に窮した彼女に彼は何かを察して、一度中に戻ると笹の葉の包みを持ってきた。


「今はこれしかありませんが、持っていきなさい。」

「そんな!いただけません!」


恐縮して首を振る彼女に老人は包みを無理やり握らせる。


「子供もいるのでしょう?腹を空かせて待っているのでは?」


その言葉に彼女は感極まって言葉が出せず、ただ深く深く頭を下げると名残惜し気にその場を立ち去っていった。


それを見送る老人の優し気な眼差しを目にして、私はこの人なら、と思った。

この人なら真摯に診てくれるのではないか。


「あのっ!」


そう考えると自然と声を掛けていた。


「貴方はお医者様でしょうか?」


彼の背後から声を掛ける形になってしまったので、老人は不意を突かれた様子で振り返ったが、私の姿を目にすると更に驚いた様子で細い眼差しを丸くする。


「はい、そうですが……足を怪我されたのですか?」

「いえ、診てもらいたいのは私ではないんです。」


私は慌てて両手を振って否定すると、口を引き結んで頭を下げた。


「私の師を診ていただきたいのです。お願いします……!」


老人は真顔になりそれに頷いて応える。


「私で宜しければ。案内していただけますか?」



*****



それから四半時後、私は宿の廊下で一人蹲っていた。


すぐ側の襖の向こうでは、行命様が診察を受けている。私はそれに同席する勇気が湧かなかった。


『儂は死ぬのだ。』


嘘だと思いたい。まだ彼が治る余地はあると思いたい。


けれどそう言った行命様の表情があまりにも穏やかだったから。


それがどうしようもなく悲痛を呼び起こすのだ。


だからこうして逃げている。医者が見切りをつける瞬間を目にしたくないがために。


しかし、医者の老人が部屋に入ってからこれだけの時間が経っている。そろそろ出てくる頃合いだ。どんな結論だろうと受け止めなければ。


私は震える手で抱える腕を強く握った。


その時、静かに襖が開けられる。部屋から出てきた老人は中の行命様に一礼すると襖を閉めて私に向き直った。


その表情が悲し気であった事が、私の心情に更に絶望が圧し掛かる。


「……ここでは。場所を移しましょうか。」

「そう、ですね。」


彼の促しに従ってよろよろと立ち上がった私は、自分に宛がわれた部屋の襖を開ける。


招かれた彼は私が襖を閉めたのを確認すると、沈痛な面持ちで向き直る。


「至る箇所に特徴的なしこりがございました。”岩”(癌)です。特に肺の状態が酷い。」

「──!」


息が止まった私に彼は続けて言った。


「かの”行命三蔵法師”を診させて頂いたのは光栄ではございますが……それだけに残念です。」

「……どうしようもないのですか。」


私の問いかけに、彼は一瞬言葉に詰まったが絞り出すように告げた。


「あの状態ではもう……冬は越せないでしょう。身動き出来ておられるのが驚異に当たる程なのです。」


冬は越せない?


もう秋じゃないか。


あとどれだけの月日が残っているというんだ。


視界が歪む。頬を伝う感覚で自分が泣いているのを自覚した。


しかしそれを拭う気が起きない。ただ茫然と涙を流す私を気遣うように、老人は肩に手を置いた。


「他言無用ということで貴女の脚を診るように法師から頼まれております。さ、そちらに座って。」


老人は部屋に備え付けられた文机を指し示し、私は肩に乗せられた手に押されるがままそれに座った。


「私は……私は問題ありません。それより行命様を。行命様を助けてください。」


うわ言の様に嘆願する私に、彼は苦し気に顔を歪めた。


分かってる。彼を困らせているだけだというのは。それでも口がいう事を聞いてくれなかったのだ。


「お気持ちは分かります。けれど貴女も平常の状態ではないのです。彼の気持ちを汲んでおやりなさい。」

「っふ、うぅ……。」


堪え切れずに嗚咽が漏れた。流れる涙を乱暴に拭って、それでも次々と溢れる雫を両手で覆い隠す私に、老人は詫びるように面を伏せた。

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