第27話 縁故

“逸見”。その単語を耳にして、行命様が驚いた気配がした。


しかし、傍らの彼の顔を見上げても平時と変わった様子はない。


気のせいかな……。何となくそんな気がしたんだけれど。


一人怪訝に思って首を傾げていると、美紗紀と名乗った彼女は近寄り私よりある上背を屈めて顔を覗き込んだ。


「あんたの名前は?」

「あ、申し訳ありません。伊織と申します。」


私が慌てて名乗ると、彼女は再び晴天のように明るい笑顔を返す。


「そっか、伊織。かっこいい名前だね!」

「そう、ですかね?」


きょとんと首を傾げる私を他所に、彼女は続けて行命様に向き直る。


「お坊様のお名前は伺っても?」

「行命と。」

「そう、行命法師様。仏と神のお導きに感謝を。」


そう言うと彼女は上品に両手を合わせ目礼する。


行命様普通に名乗ったけれど良いのかな。彼女の反応からは目立ったところは無いから、良かったんだろうな。


と思った瞬間、美紗紀さんが私を振り返る。不意の事に思わずびくりと肩が跳ねた。


「ねぇ、伊織。良かったらうちの琥珀に乗ってく?その足でこの人混みは大変じゃない。」

「え、いやそんな!これから神事に向かう神官様に迷惑は掛けられません。」

「迷惑なんかじゃないよ!ほら、仏教の教えにもあるだろ?『因果応報』自分の行いは必ず戻ってくるってね。これから神事に向かう私には良い縁起担ぎさ。」


そう言うと彼女は隣の連れ馬の首を軽く叩く。琥珀と呼ばれた馬はそれに応えるように鼻を鳴らした。


「そうは言われましても……。」


私は尚も渋る。足が無いといってもそれ以外は健康体だ。本当に体を休めるべきなのは行命様の方なのだ。


困って彼の方を見遣ると、彼もそれに視線で返した。


『気にするな。』


そんな事言われても……。内心むくれている隙に行命様は美紗紀さんに視線を向ける。


「お願いできますかな。」

「決まりだね!」


あ、と思うと美紗紀さんは私の松葉杖に手を添えた。


「鞍に載せるから頂戴よ。」

「でも私これが無いと立てなくて。」

「あぁ大丈夫、大丈夫!」


彼女はそう言うと私の腰を抱き抱える。


「よいしょおっ!」

「うわぁっ!」


そのまま一声で馬の高さまで私を持ち上げ、鞍にすとんと下ろされてしまった。そのまま彼女は、驚いてポカンと呆ける私から松葉杖を取り上げて鞍に手早く括り付ける。


抱えられた際に触れた腕が、よく鍛えられた武芸者の肉体だった。それでも馬の高さまで人ひとりを軽々と持ち上げてしまうなんて。


そう思っている内に彼女はひらりと私の後ろに跨った。


「そんじゃ行きましょ。」


美紗紀さんが言うと琥珀はその言葉が理解できたのか、人が歩く程度の速さでゆっくりと歩み始めた。


賢いな、この馬。


機嫌よさそうにピコピコ耳を動かす栗毛の馬を見つめて私は感心した。


「どうだい?気分悪くなったりしない?」


美紗紀さんに声をかけられて、初めて面を上げる。視点が高くなったことで途端に広がる視界。今まで足元を気にして下ばかり見ていた事と、人混みに遮られて気付かなかったが、今日はとても良く晴れた空だった。


秋晴れの空に鱗雲が風に流されてゆっくりと流れていき、その虚空を一羽の鳶が一声鳴いて飛んで行った。


喧騒のその先を眺めると、黄弦に向かう人が連なる道の姿を捉える。身にまとった着物や荷物の彩りが目に楽しい。


ほぅとため息が零れ落ちた。


「とても気持ちが良いです。」

「そ!それは良かった。あんた顔色悪かったからね。」


嬉しそうに言う彼女の言葉に驚いて思わず頬を押さえる。


「そう、でしたか?自分では悪いとは思っていなかったんですけれど。」

「まぁあたしの勘違いだったらそれでいいさ。このままお喋りしながら旅をするのも楽しいじゃない。ちょいと付き合っておくれよ。」


彼女の優しい気遣いに私は自然と口元が綻ぶのを感じた。


「私で良ければ。」

「うんうん。その調子だ。女の子は笑顔でなきゃね。」


すると美紗紀さんは人差し指で私の頬を軽く突いた。ぷすっと口から空気が漏れる。


「なっ何するんですか!」


いきなりの事に赤面する私に、彼女は声を上げて笑った。


「いやあ、ごめんごめん。伊織は肌白くて綺麗だからさ。思わずどんな触り心地かなって。歳も近いだろうから構いたくなるんだよ。そういえばあんたいくつ?」

「一五歳です……。」


たぶん。と語尾に付けそうになったがそれは飲み込む。地獄で刑罰を受けている内にどの位の年数が経過したのか、私には分からないのだ。


あそこでは日の浮き沈みが無いから時間感覚が狂う。肉体も地獄では変化しなかったし、精神も変わってない。一五歳という事にしておこう。


「あたしは十八だよ。あたしの方がお姉さんだね!」


また美紗紀さんはにっこりと笑う。とにかく笑顔が多い人だ。スキンシップも多い。先程の子供達への接し方を考えても、普段からそうなんだろう。彼女と話していると、釣られて自分の心も浮き上がっていく気がした。


「あの、それじゃあお姉さんに聞いてもいいですか。」

「どんとこい!」

「美紗紀さんは神事に参加されるんですよね?矢馳の神事って何をするんですか?」

「あら、知らない?」


きょとんと首を傾げる彼女の様子を見て、私はまた突拍子もない事を聞いてしまったのかと少しきまずくなる。


「遠方から来たもので……。」

「へぇ……ま、いっか。これから向かう黄弦で行われるのはね、“鏑流馬”(やぶさめ)と呼ばれる神事さ。」

「鏑流馬……。」


前世でも聞いた名称に目を見開く。


「そ。矢馳の語源となった、馬を馳せながら弓矢で的を狙う競技だよ。元々はこの神事を指して矢馳と呼んでいたんだ。」

「……それだけ矢馳流にとって重要な神事なんですね。」

「だねぇ。黄弦には矢馳流の正殿がある。矢馳雷ノ神にご覧頂きながら雌雄を決するんだ。決して無様な事は出来ないし、その中でしのぎを削って頂点に立つからこそ、黄湖への奉納が許される。」

「奉納ですか?」

「黄湖に矢を射るんだ。綺麗だよ、湖に矢が吸い込まれた瞬間に湖面が黄金色に輝くんだ。」


そうか、だから“黄湖”。


「あ、丁度見えてきたね!」

「わぁ……!」


美紗紀さんが不意に前方斜め先を指差す。それを辿って目にした景色に私は歓声を上げた。


広がっていたのは海と見間違うばかりに広大な湖だった。水質は透き通っており、薄水から蒼、水浅葱色と変化していく様がまるで宝石のように美しくありながらも、その濃淡が湛える水の深さを表していた。風に波打つ水面は太陽の光に照らされて煌めき、漁をする船が進むとその波に新たな曲線を描いていく。


「これが黄湖さ。」

「きれい……。」

「明後日、選ばれた矢馳がこの湖に奉納するんだ。」


少し硬い口調に後ろを振り返ると、彼女は常に浮かべていた笑顔を潜め、湖をじっと見つめていた。


いつの間にか琥珀も足を止めている。私達はそのまま数拍の間口を噤み、湖を眺めていた。


暫くして美紗紀さんが琥珀の首を軽く二回叩く。それに応えて琥珀は再びゆっくりと歩き始めた。


「悪いね、付き合せて。あたしは今年が初めての参加だからさ。色々と思うところがあるんだよ。」

「いいえ、とんでもない。私は乗せてもらってる身分ですから。」


美紗紀さんはふぅと一息付くと再び笑みを浮かべた。


「正殿の黄弦、東の戸羽瀬(とわせ)、西の逸見、中の芦和戸(あしわど)、南の宇流賀(うるが)。それぞれの神社の精鋭が集まる儀式となれば勝ち残るのは容易じゃないだろうけどさ、矢馳ノ神に恥ずかしくないよう精一杯やるつもりだよ。」


そう静かに決意を滲ませる彼女は、私にはとても眩しく見える。


「美紗紀さんが弓を引く姿を見るのが楽しみです。」

「おう、いい所見せてやんよ!」


彼女は歯を見せて得意げに笑ったが、何故かすぐにしょんぼりと眉尻を下げた。


「でもごめんよ。黄湖が見えたってことは、黄弦も間近だ。もう少ししたら仲間と合流しなきゃいけない。ほんとは町中まで一緒に行ってやりたかったけど……。」

「いえ!ここまで乗せて頂いただけでも助かりました。ありがとうございます。」

「こっちこそ。道中楽しかったよ。」


美紗紀さんはもう一度にっこりと笑うと私の松葉杖を鞍から解く。それを受取ろうとした私をスルーして、彼女は傍らにいた行命様に手渡した。


「こら、無茶するんじゃないの。怪我してる時ぐらい“お師匠様”に甘えたっていいんだよ。そんじゃ下ろすよ。」

「え?あ、はい。」


戸惑う私を他所に美紗紀さんはそう言うと、乗る時と同じ様に軽々と私を抱えて滑り落とすように馬上から下ろす。


何かこれ子供みたいで情けないな……。いや、しょうがないんだけれども。


って、そうじゃない!


行命様から杖を受け取って立つと、私は美紗紀さんを振り返った。私の視線に彼女はいたずらっぽく目を細めて見返す。


「それでは、“行命三蔵法師様”、伊織。また神事でお会いしましょうね。」


ぱちりと片目を閉じて目配せすると、彼女は琥珀を歩かせてその場を離れていった。


この世界にもウィンクの文化あったんだ。


いや、それよりも“三蔵”?


まだ教わっていない単語だ。


首を傾げて隣の行命様を見上げる。立ち去る美紗紀さんの背中を見つめる彼の顔は何とも言えない微妙な表情をしていた。


「三蔵ってなんですか?」

「まぁ……役職のようなものだ。」

「え、それってどういう──」

「また教える。」


私の質問を遮ってきっぱりという彼に眉をひそめる。


怪しい……。


「ちゃんと後で教えて下さいよ。というか、美紗紀さんの素振りだと行命様の事始めから知っていた風でしたけれど。」

「逸見となれば恐らく“奴”から聞いて知っていたのだろうな。」

「奴?」


私がまた問い返すと、彼は今度ははっきりと渋面を作った。


「昔の腐れ縁だ。」

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