第24話 恐慌

ここから黄弦まで八里の距離、それは直線上の話である。実際には小さな山が一つその直線を遮っていた。


行程としては、少し遠くなるが山を迂回する道、山を越えなければならないが早く着く道とある。


「山を越える。」


行命様の言葉で私達は山道へと踏み入った。


山といってもそこまで険しい訳ではない。精々が六町(約654メートル)の山だ。前の世界では日帰りで登れるような標高である。


比較的利用する人が多いためか、山道は整備されており景色を楽しむ余裕さえ持てた。今の山は秋の盛りであり、紫の果皮が割れて実が覗くアケビも、倒木に生えるヒラタケも、どこを見ても多くの実りが溢れていた。


「どれも美味しそうですね。」

「全くお前は食べ物の事ばかりか。」

「良いじゃないですか。食糧調達の為の確認ですよ。」


おどけて首をすくめる私に行命様は呆れたようにため息を付くが、不意に痰が絡むような咳をする。


「え、行命様風邪ですか?」

「……喉の調子が優れんだけだ。」

「駄目じゃないですか、無理したら。山道じゃなくて下道を行った方が良かったんじゃないですか?」

「無理などしておらん。」

「分かってますよ、行命様のそういう頑固な所。下山したら一日宿で休みましょう。何事も安全が第一です。体調を戻してから出発しましょう?いつも節制して溜め込んでる金銭をこんな時に使わないでどうするんです。」

「いや、しかし──」

「つべこべ言わない!はい、決定!行命様が嫌がっても私が宿から動きませんからね!私だってたまには屋根の下で寝たいんですから!」

「む……。」


彼は私の勢いに押されて仕方なく頷いた。


そんなやり取りをしながら登山も中盤に差し掛かり、もうすぐ山頂である位置まで進む。


この高さまで来ると少し傾斜がきつくなり、誰かが気を利かせて坂に丸太を打ち付けてあるのを目にして、私は冷や汗が伝うのを感じた。


階段は拙い。


両足の感覚が無い私では足を引っ掛けても気付くのが遅くなる。転んでしまう。

そう思うと自然と階段を登る私の足取りは慎重になり、行命様に遅れて歩くようになってしまった。


それを不審に思ったのか、先を行く行命様が振り返る。


「どうした?今更この程度で音を上げるお前では無いだろう?」

「え、あぁそうですね。やっぱ茸とか持っていけば宿代安くできるかなぁと。」

「……せめて下山する時にしなさい。まだ昼前だぞ。」


彼は益々呆れかえったようにため息を付くと踵を返した。


危なかった。


何とか誤魔化せたが、登る速度を上げないと今度こそ気付かれる。


しかし……前とは別の意味で道化が上手くなったものだな。行命様に会った当初は顔に出るから分かりやすいと言われていたのに。


一人自嘲すると、私は意を決して一歩踏み出した。


途端


私はどしゃりとその場に転がる。


「え。」


驚きのあまり思考が停止した。


しかし直ぐに我に返る。


馬鹿!気をつけなきゃと思った矢先に足を引っかけて転ぶなんて!


私は慌てて立ち上がろうと足元を確認する。刹那、ザァと耳鳴りを残して血の気が引いていき、体が恐怖に震え出した。


草鞋の紐が巻き付いた足袋が、ぺしゃんこになって転がっている。


恐れていた事が──!


「どうした?!」


行命様が駆け寄る気配を感じた。


「な、何でもありません!!よそ見をしていたら転んでしまって!」


私は反射的にその言葉を返す。


近づかないで!見ては駄目!!


私はその一心で両手に力を入れ、上半身を起こす。


「大丈夫です、今行きますから!」

「大丈夫な訳あるか!!いったい──」


怒鳴り掛けていた彼の言葉が半ばで切れる。動きを止めた行命様の視線は私の足元を凝視していた。


「伊織……。」

「ち、違うんです!これは……そう、ドッキリって奴です!!ドッキリ知らないですか?!これには仕掛けが──」

「伊織ッ!!」


鋭い怒声に、矢継ぎ早に言い訳を連ねようとした私をビクッと固まらせた。


「足を見せなさい。」

「嫌です、見せたくありません。」

「いいから見せなさい!!」


足を抑える私の手を無理やり退けて、彼は袴の裾を捲りあげる。


途端、露わになった私の両足を目のあたりにし、彼は顔色を青ざめて息を呑んだ。


私の足は膝下から透過し、足首から先が消失していた。


だから……見せたくなかったのに。


これ以上彼の顔を見ることができなくて、私は震える両手で顔を覆う。


「……いつからだ。」

「……っ!」

「答えなさい。」

「夏から……。」

「人の心配している場合では無いであろうが、この大馬鹿者。」

「申し訳ありません……。」


行命様の声が微かに震えているのを聞き取り、抉られたように痛む心を隠すかの如く蹲った。


「伊織、顔を上げなさい。」

「無理です。」

「無理ではない、顔を上げて儂の顔を見なさい。」

「嫌です!」

「伊織!」


子供のように首を振る私の顔を挟んで、行命様は無理やり私の顔を持ち上げる。見上げた彼の顔は以前として青ざめていたけれど、その瞳は確固たる意思が見受けられた。


「まだ何とかなるかもしれぬ。」

「……え?」


予想しなかった言葉に私は目を見開く。


「地蔵菩薩に掛け合うのだ。六道を渡るあの方ならば、境界を越えられる。」


一瞬呆ける私だが、ある思考に至り我に返る。


まさか──?!


「冥府に渡れ!閻魔大王に会うのだ、伊織!!」


彼の言葉ですとんと腑に落ちる。


「行命様……。貴方はどこまでご存じなのですか。」


私の問いかけに一瞬たじろぐが、彼は苦し気に顔を歪めながら答える。


「詳しくは知らぬ。だが、お前が閻魔大王と地蔵菩薩の意志によってこの世界に来たことは知っている。」

「閻魔大王と、地蔵菩薩の……。」

「黙っていた事は謝る。だがお前を混乱させると思ったのだ。当初の不安定なお前であれば疑心暗鬼に駆られただろうから。」


そうだろうな。それを聞いたら私は行命様から逃げただろう。


「しかし、今のお前ならば──」

「無理です。」


私は彼の手をそっと外して首を振った。


「何が無理なのだ!お前は変わった筈だ!」

「違う!根本的な所は変わってないんです!」


そう、そうなんだ。思考が過去の記憶を巡る。肌が焼け攣る熱さ、鉄錆の匂い、肉体に刻まれた痛み。閻魔大王に再びまみえる事を考えると、如実に蘇る感覚。


「私は戻りたくありません。」

「──!」


震える体から、心から、押し出されるかのように涙が滲んできて滂沱の如く雫を零す。


「私はある人を陥れて地獄で刑罰を受けていました。馬鹿な事をした。今なら分かるんです。あの子は優秀だった。世間の評価だけの事じゃなく、内面までも!それに嫉妬して、勝手に見下されてるって被害妄想を膨らませて!私があの子の将来を滅茶苦茶にした!!きっと、皆から羨まれる人生が送れただろうに、私が壊した!!許されることじゃない。それは分かっているんです。けれど、どうしても駄目なんです……。」


私はこの時になって自覚した自分の浅ましさに愕然と頭を垂れた。


「私には罪を償う勇気が無い!!」


未だに握っていた、彼の手を掴む両手に力が入る。


「きっとあそこに戻ったら刑罰の続きを支払うことになる。そう思うと心が壊れそうになるんです。あの苦しみは、痛みはもう嫌だ!!償なわなければならない、そう思っていてもそれを受け入れる勇気が私には無いんです!今も罪から逃れる方法を考えている。私は──汚い人間です。」


その言葉で独白を終えると、力が抜けて彼の手からするりと両手が落ちた。


あぁ……言ってしまった。行命様は失望しただろうか。私がこんなにも卑劣な人間であることに。絶望に暗く押しつぶされた心で、私は呆然と涙を流すしかなかった。


「……よく聞け、伊織。」

「──!」


その時、今まで黙って私の話を聞いていた行命様が私に話しかける。その声があまりにも優しくて、私は驚きで面を上げた。


見つめたその顔色は依然として悪いままであったが、表情は穏やかで。私の心が浮上しだすのを感じた。


「お前がここに来たのは閻魔大王の意志なのだ。かのお方はお前に成して欲しい事があるからこそお前を寄越した。だから今、儂がお前の側にいる。信じろ。閻魔大王はお前を刑罰にかけようと考えてはおられない。だからその意志を確かめに行くのだ。」


私は驚きに目を見開く。


「成して欲しい事?」

「おそらく、それは──」


言葉を紡ごうとした行命様の声がプツンと途切れた。血色の悪かった顔に脂汗が浮かぶ。瞬く間に急変した彼の様子に、私の心情は戦慄した。


刹那、彼は隠すかのように顔を背けて口元を両手で覆う。


「……っぐ、がはっ!」

「──行命様? 一体どうされたのですか?!」


彼は口を押えたまま、溺れたかのように噎せた。そのまま何度も激しい咳を繰り返す。


浮上した心情から一転、今度は掻きむしられるかのような焦燥に落とされた私は、歩けない足を引きずって彼ににじり寄った。


すると口元を押さえた彼の手から赤い血がこぼれ落ちる。


「──え?」


ばたばたと地面に落ちる赤い染みを見て頭が真っ白になった。


血を吐き出し咳が収まった彼は荒い息を付きながら赤に染まった自分の手を驚いたように見つめる。


そして口惜しげに顔を歪めた。


その表情で悟る。


この人は分かっていた。こうなる事を。


ぐらりと行命様の体が傾いた。私はしがみ付くかのように彼の体を支える。


今までどうやって耐えていたのだろうか、触れていた手の冷たさに対してその体は高熱に侵されて火のようだった。


「やだ。嫌だ!!死んじゃ嫌です行命様ァ!!」


意識を無くした彼を抱え、私は恐慌にかられて叫んだ。

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