第22話 約束
「──そんな、また……。」
私は絶望に打ちひしがれて声を震わせる。窓枠から差し込む月明りに照らされて光を通す爪先。あの時の現象が今度は両足に表れていた。
声と同じように震える手を伸ばし、手で触って確かめると──感触はある。すり抜けるなんて事は無い。それでも間違いなく透けていた。
そのまま両手で足先を擦る。冬にかじかんだ足先を温めるかのような仕草だが、心情は全く違う。
「はやく、早く元に戻って!早く──!!」
摩れば透化が元に戻るなんて保障は無い。けれど何かせずにはいられなかったのだ。しかし荒っぽく擦っていたのが災いして、手の爪が肌に刺さる。
「痛っ!」
手を放すと足先を伝う一筋の血。けれど透化は治ってはなかった。
「戻らない……。」
どうしよう……。
もしこのまま透過が進んでいって足が無くなれば、いや、全身に及べば私は──。
ざぁと血の気が引いて目眩を覚え、視界はぐるぐると回った。強張った体は平衡感覚をなくし、崩れ落ちるように淵に寄り掛かる。
どうしよう。どうしたら良いの?こんなの……。
暫くそのままの状態で固まっていた私だけれど、いつまでもここにいる訳にはいかない。
小刻みに震える全身を叱咤して恐る恐る湯桶から上がる。片足を床に付けてみるとひたりと冷たい石の感触を感じて思わず長いため息が口をついて出た。もう片方の足も床に付くと、へなへなとそのまま床に座り込んでしまう。
「まだ、大丈夫。大丈夫だ、私。」
根拠は無い。
けれどそうでも言って自分を奮い立たせなければ立ち上がることすら出来なさそうだった。
「頑張れ。大丈夫、大丈夫だ。」
ぐっと腕に力を込めて立ち上がる。膝が笑っているけれど何とか両足は体を支えていた。
こんな状態で会っては行命様が心配する。そう思った私はバクバクと脈打つ心臓を落ち着かせる為に深く息を吸って吐いてを繰り返した。
*****
部屋へ戻ると、行命様の姿は無かった。何処か出掛けているのだろうか。ならばこの状況は都合がいい。
私は急いで荷物からさらしを取り出すと、足先に巻き付けた。怪我をしたと言えば不自然ではないはずだ。これからは裸足ではいられない。足袋を履いて隠さなければ。
その時、部屋の襖がすっと開かれる。びくりと肩を震わせて振り返ると、行命様が部屋へ戻ってきたところだった。
何か難しそうな表情をしていた彼であったが、ふと面を上げて私の顔を見ると怪訝そうな顔をする。
「伊織、風呂に入ってきたのではないのか?」
「え?そうですけど……。」
「顔に血の気がないぞ。」
ぎくりと心臓が跳ねた。
「そ、そうですか?あぁでも今日一日で結構疲れたから、そのせいでしょうか。」
「……そうか。」
行命様は疑わし気に顔を顰めたが、そこで私の足元に気が付く。
「お前、怪我をしたのか?布を巻いているではないか。」
「あ、えっとこれは──そう!多分坂道で転んだ時に怪我したんですよ!お風呂入った時に怪我してるのに気が付いて。」
「また転んだのか、お前は。待ってろ、今軟膏を……」
「大丈夫です!もう塗りましたので!」
荷物を探り始めた彼に慌てて両手を大きく振る。
「一晩寝れば顔色なんて元通りですよ!今日は早めに休ませてもらいますね。」
これ以上追及されないうちにと、私は慌てて自分の布団に潜り込んだ。
「おやすみなさい!」
そう告げて頭から布団を被る。
「……あぁ、おやすみ。」
布の向こうから彼のくぐもった声が聞こえた。布団から顔を出さない私を心配そうに見つめる気配がしたが、それも暫くすると消え失せる。
あぁ、私ってとことん隠し事ができない。何かあったのが丸わかりじゃないか。
それでも深く追求しない彼の気遣いが有難かった。行命様は自分から話してくれるのを待ってくれる人だ。その優しさは、頼りたい時にはきちんと話してくれるという、この三か月で培った信頼があってこそだ。
その信頼を裏切るような行為に心が重く沈むが、けれどどうしたらいいっていうんだろう。こんなの誰だってどうにかできるとは思えない。
そう思うと私は足を抱えたまま布団の中でうずくまった。両手は無意識に布で巻かれた足先を摩る。気付かない内に感覚が、存在が消失してしまいそうで怖かった。
布と肌が擦れてヒリヒリとした痛みが出るまで私はそのまま足を摩っていた。夜はどんどん更けていく。けれど私は微睡むことも出来ず、そのままうずくまっていた。
これは罰なんだろうか。
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。地獄から、自分の罪から逃げたことへの罰ではないだろうか、と。
以前の透化では、私が直ぐにこの世界にいられなくなるから、地獄からの追手は来ないのだと思った。けれどあれから三か月が経っている。いくら何でも遅すぎだ。
なら考えられるのはこれ自体が罰であるという事。消えていく己に脅えながら生きていけと、そういう事なのだろうか。
以前行命様が話してくれた六道を渡る輪廻転生の理屈では、人は人生を全うすると、別の世界へ新たな人格として生まれ変わり、また一生を終えて世界を渡る、という事を繰り返している。その世界のサイクルから零れ出た私は一体どうなるんだろう。
その結果が“透化”で、それが“罰”だとするならば、辿り着く結末はきっとろくなことじゃない。
私は抱えた両腕を折れそうなほどきつく握りしめた。
*****
障子から柔らかい光が差し込み、可愛らしい囀りが耳に届く。今となっては久方ぶりの、寝不足特有の鈍い頭痛を抱えながら私はのそりと起き上がった。
正直起き上がるのも億劫だ。けれど普通を装わなければ。その思いだけで私はふらつく体を叱咤し、身支度をした。
行命様の気配が無くなるのを待って動き出したので、部屋に彼の姿は無い。すでに旅立つばかりの状態で待っていることだろう。私は強張る顔を揉みしだいた。
笑顔、普通に、何てことないように。
そう念じて最後に両手で頬を張った。よし、と気合を入れて私は宿の出入口に繋がる階段を急いで駆け下りる。
「お待たせしました、行命様!!すみません寝坊しちゃって──」
宿から飛び出して入り口付近に設置された縁台を見遣る。そこに座る行命様を見付けて慌てて頭を下げようとするが、その傍らで呆れた表情で立つ蒼波の姿を認めて言葉が途切れた。
「師より遅く出てくるってどういう弟子だよ。頭すっとぼけてるのか?あぁ?」
そう言って私を睨み付ける彼の服装は、昨日の一般的な着物とは一風変わったものだったからだ。
頭に頭巾を被り、白衣に紫の袴下を履いて、その上から隻腕を隠すかのような長い袖の結袈裟(ゆいけさ)を羽織っている。右手に持つ錫杖で苛立たし気に己の肩を叩き、頭部に通された遊環(ゆかん)がその度に特徴的な音を鳴らした。
神道に連なる山伏の服装である。
「蒼波……君って神官だったの?」
「あん?あぁ……そういえばこっちの姿でも名乗るべきか。」
彼は私の問いかけに表情を改めると、錫杖を地面に突き立て向き合った。
「
「失礼な!そんなこと無いよ!」
「本当かぁ?」
蒼波の物言いに拗ねて言い返すが、彼は疑わしそうに顔を顰めた。
刹那、
「っひぃ!」
蒼波は遊環を鳴らして錫杖を振るうと私の眼前にそれを突き出す。思わず先端に押されるように仰け反る私に、彼は錫杖の陰から覗かせた隻眼を細めて再度私を睨み付ける。
「そもそも腑抜けてんだよ、お前は。お前の立場については教えてやったろ?そんなんじゃ誰も納得しないぜ。」
「ご、ごめん……。」
「そもそもな!!」
ぐいっと更に先端が突き出され、それに伴って私も更に仰け反りホールドアップ。
「お前が一番法師の側にいるんだから、お前にしっかりしてもらわなくちゃ困るんだよ!いいか、法師はな、説法以外の事となると途端に口下手になるんだ!口にするより自分で動いた方が早く済むって考える人だからな!」
「いや、いやいやいやいや……。蒼波、本人が目の前にいるのだが。」
珍しく戸惑った様子で行命様のツッコミが入るが、蒼波は構わず先端を突き付けたままだ。
「法師はそうやって人のあずかり知らない所で無茶ばっかすんだ!!師を助けるのも弟子の役目なんだからな!」
「いや、だから何故本人の前でそういう話をする。」
「法師にも聞かせる為です!」
蒼波はそう言って行命様を振り返ると、やっと錫杖を下ろした。それにこっそり安堵していると、今度は行命様への説教が始まる。
「いい加減自重してもらわなきゃ困りますよ。法師だっていいお歳でしょうに。」
「まだ四十代だ。」
「その言い方は自分が歳食っている事を薄々実感している人間の発言です。」
「……お前は会う度に儂に説教しておらんか?」
「法師が反省しないからですよ!」
私は怒号の勢いで重ねられる掛け合いに唖然とした。行命様が……あの行命様が怒られてる……。
「そういう訳だから!!」
「ひゃいっ!!」
いきなり振り返った蒼波から話を振られて私は飛び上がる。そんな私を他所に彼は途端に真面目な顔になった。
「法師を頼むぞ。」
「……!」
はっと息を呑んだ私を、彼は依然として真剣な表情で見つめた。それに応え、私も顔を引き締めて大きく頷く。
「うん、分かった。」
「おう、なら良し。」
蒼波は私の返事を聞くと、初めて歯を見せて笑った。
「だから本人の前だと言っておろうに……。」
それに行命様は頬杖を付きながら苦笑する。蒼波はそこで改めて彼に向き合った。
「法師。御活躍を祈念申し上げます。今後もご自愛くださいますよう。」
「一言余計だが、あい分かった。」
「ではまた。」
彼は最後に短いやり取りを交わして背中を向ける。去っていく彼の姿を見送っていると行命様は口を開いた。
「まぁ、蒼波とは友好を深められたようで良かった。」
「友好……なんですかね?終始怒られていたような気がします。」
「気兼ねなく言葉を交わせる相手は貴重だ。」
「まぁ、そうですね。そういった意味では友人とも言えなくもないのかな。」
友人、その言葉を口にしてふと気づく。今朝から重く沈んでいた心が、彼と話している内にずっと軽くなっていた事に。
その事実に気付くと何か正体の付かない感情が胸にせり上がるのが分かって、私はそれを堪えて口を引き結んだ。
「これからも行命様にはご苦労お掛けしますが、ご指導よろしくお願い致します。」
行命様は私のその言葉に何かを感じたのだろうか。蒼波の背中を見つめていた視線を外して私をじっと見つめるが、やがて綻ぶように微笑んだ。
「うむ。精進せよ。」
涙を堪える私の頭に行命様の手のひらがぽんと乗った。
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