第21話 側面

雨上がりの濃厚な土の匂いが鼻孔をくすぐる。茂みから動き出した虫達がその音を鳴らし、雲間から覗いた月の柔らかい光は露を伴った草木を美しく彩った。


一軒の宿の外、立ち寄る旅人が足を休めるようにと備えられた縁台で一人の僧侶が雨で冷やされた風で涼んでいる。行命だ。両の手を膝の上で組み、面を伏せて地面を見つめる様は何か思案しているようであるが、その表情は穏やかで感情は伺えない。


ざり、と彼の傍で土を踏みしめる音が鳴った。行命が面を上げるとそこにいたのは蒼波であった。行命の表情と打って変わって彼は複雑な心情を露わに彼を見つめている。


「何が聞きたい?」


行命は開口一番にそう言った。まるで蒼波が来るのが分かっていて待ち構えていたかのような発言だった。


「あり過ぎてまとまりません……。」


蒼波はそう言ってため息を付くと行命の隣にどかりと座り込んだ。


「聴収は成果無しか。」

「人聞きの悪い。忠告してやっただけですよ。」


蒼波は不機嫌な表情を隠すことなく、行命はそれを愉快そうに眺めた。


「お前の事だから根掘り葉掘り聞きそうなものだが。」

「いくつか言葉を交わしてあいつが何も知らないのは分かりました。だったら聞いても無駄でしょう。全く無駄骨ですよ。こんなことなら最初から貴方に聞けば良かった。」

「いや、大した情報がないと知っていてもお前は伊織と接触するだろう。“報告義務”があるからな?」


行命が隣の蒼波を見やると、彼はそれを見返し隻眼を鋭く細めた。


「教えていただけますか?」

「条件がある。」

「何を。」

「情報の制限を。」


それを聞いた少年は眉間に皺を寄せた。


「……俺の立場を知っていて酷な事を仰る。」

「すまぬ。」

「それほどにあれが大事ですか。」

「……。」


行命は答えず、それに蒼波は重いため息を付く。


「思えばあの時、貴方が【奥拉】(あうら)を乱される程動揺されるとは思わなかった。だから逃げ出したあいつをその場で捕まえる事が出来なかったのでしょう?その後ご体調の方はいかがですか?」

「問題ない。」

「“監視”の俺の目を通して迷子の捜索を頼まれるとは思っていませんでしたよ。どれだけ俺が仰天したことか。」


くっと行命は苦笑した。


「迷惑掛けたな。」

「全くだ。」


少年はくだけた様子で縁台の上で胡坐をかき、膝の上で肘を置いて頬杖をついた。その表情がふてくされているのが、行命にとっては申し訳なさと同時に微笑ましさを覚えた。


「俺が約束を反故にする事は考えないのですか。」

「お前は伊織の事はまだ報告していないだろう。あちらがまだ干渉してこないのが良い証拠だ。」

「あいつの存在を測りかねていたので、もう少し正確な情報を集めてから報告すべきと判断したからですよ。他意はありません。」

「そうか、では条件としてこれを渡すと言ったらどうだ?」


行命はそう言うと懐から一つの冊子を取り出した。何度も頁をめくった跡で端は擦り切れ、紙は歪んでいる。随分年季の入った冊子だった。


「これはまだ一部でしかないが。」


渡された冊子を受け取って蒼波は怪訝な顔をしたが、その頁をめくって中身を読み進めると顔色を変え、驚きを露わに行命を見上げた。


「こんなものが……。」

「買収には足りたかの?」

「俺でいいんですか……?」

「いずれ誰かに渡せねばなるまい。であらばお前でなくてはならない。蒼波、お前だからこそだ。」


少年はその隻眼を大きく見開くが、徐々にそれは苦し気に伏せられた。


「それじゃ俺が断っても結局渡してくれるんじゃあないですか。」

「そうだ。これは頼んでおるだけだ。従うも従わないもお前の自由よ。」


行命の返答を聞いて蒼波は己の中の感情を整理するかのように瞼を閉じるが、暫く思考すると再び眼を開いて行命を見つめた。その表情に先程までの苦渋は見受けられず、ただその眼差しには鋭い眼光が宿っているのみだった。


「承知しました。できるだけの事はしましょう。だが、いずれバレることですよ。」

「良い。時間が稼げれば。」

「そうですか。そう言っていただけるなら俺も助かります。」


それで……と蒼波は切り出した。


「聞かせてくれるんですね?」

「儂の分かる事は。」

「では教えてください。あいつは一体“何者”なんです?」


その問いに行命は続きを促すように視線を寄越す。


「あいつと貴方が会って三月以上が過ぎました。けれどその間、何も起きていない。貴方の“血筋の呪い”を受けていないのはどういうことです?」


行命の眼差しが思わし気に細められた。


「誰も貴方に一定以上接する事ができない。命に関わるから。だから俺も遠くから目を通して監視するしか無かったというのに、何故あいつには何も起きていないんです?あいつは本当に……人間か?」


問いかける蒼波の強い眼光を見つめ返し、行命はふっと笑みを浮かべた。


「儂にも分からん。」

「は──」


少年は彼の予想外の答えに口を半開きにして一瞬呆けるが、瞬時に表情を険しくして問い詰めようとしたその時、だが……と行命は続ける。


「ある程度察する事はできる。」


蒼波は浮き上がり掛けた腰を下ろした。


「地蔵菩薩の導きによって儂は伊織を見つけることができた。かの仏は多くを語らなかったが、何か思惑があって伊織を寄越したのだというのは分かる。」

「……。」


蒼波は目を見開き行命の顔を見つめたまま固まった。数拍の間静寂が下りるが、やがて硬直した思考が解け始めた蒼波が口を開く。


「……冗談で言ってます?」

「おや、今教えると言ったばかりだというのに冗談と思われるとは。」

「いや、そうなんですけど……でも──」


少年は混乱して言葉が見つからないようだった。彼は口元を押さえて一先ず黙りこくると乱された思考を整える。


「それが本当ならおとぎ話の世界ですよ。」


やっとひねり出した言葉に、行命は顎をさすって感慨深げに呟いた。


「いやはや、まさか仏から直接お言葉を頂ける機会に恵まれるとは思わなかった。」

「マジかよ……。」


まだ冗談だと疑っていたのだろうか、蒼波はその一言と共に後頭部をガシガシと掻いた。


「何を驚くことがある。神道においても神の力を借りて現実に奇跡を起こすのだから、仏教においても仏が奇跡を起こせるのは何ら不思議なことではない。

ただ仏教の教えはその者自身が成長に至る過程を説くもの。仏は苦難を助けたりはしない。苦難の乗り越え方を教え、それを克服する様を見守って下さるのが仏の在り方よ。

積極的に現世に関わるようになってしまえば、その教義は根底から崩壊する。人々の目に映る形でその力をお示しにならないだけで、確かに仏はおられる。」

「別に仏の存在を疑っていた訳ではありません。ただ現実にそんなことが起こりえたのかと驚いただけで。

なんせ創作の世界ではそんな話があっても、実際に仏の声を聞いたという僧の記録は──あぁそうか、仏から言葉を貰えるような僧が大っぴらにその事を口にするわけないか……。」


またもや混乱した様子で自問自答する蒼波だが、一際荒っぽくかきむしると、よし、とその手で膝を叩いた。深く考えるのをやめたのだろう。


「話を中断してしまい申し訳ありません。それで、あいつが来たのが仏の意志によって、というところでしたか。」

「そうだ。だからその真意を諮るべく儂の方で探りを入れておったのだが、伊織は冥府の王の存在に反応を示した。」

「──!」

「蒼波、あの子は【死者】だ。一度死して閻魔大王の管理下に置かれ、大王の側面、地蔵菩薩がこの世界にあの子を託した。」

「……すでに死者であるから貴方の死の呪いは受けないと?」

「やも、しれん。」

「ならどうして俺たちは目にして触る事が出来るのでしょうか。」

「分からん。ただ、一度死した時の記憶を持ったまま生まれ変わった存在であって、儂の呪いの影響を受けないのはまた別の理由があるやもしれん。だからこれは儂の考察でしかないのだ。」

「……。」


蒼波はまた思考するように黙りこくる。今度は今までで一番長い沈黙であった。だがそれも彼の長いため息で終わりを告げる。


「どっちにしろこりゃ報告できねぇな……。」


ため息混じりの言葉に、行命は苦笑した。


「苦労を掛けるな。」

「いいですよ、もう。それなりの報酬は貰ったので。」


蒼波はそう言うと行命から渡された冊子を手に持ち、その指先で表紙を撫でる。それを見つめる眼差しは暗く沈んでいた。


「【行命三蔵法師】。」

「!」


蒼波は不意にその名を口にした。


「貴方は今、幸せですか?」


行命は一瞬目を見開いたが、少年の問いかけに双眸を緩めた。


「……そうだな。今ほど満たされている時はない。」

「それは……良かった。貴方ほどこの国に貢献されている人が報われているようなら……まだ世の中捨てたもんじゃない。」

「貢献したのは儂ではない、先祖だ。」

「貴方が生きているだけで皆にとっては救われているんですよ。」

「皆にとっては、な……。」


今度は行命が複雑な感情を滲ませる。それは長く自分を苦しめてきた根本と相対したような苦悩を思わせた。


「どのように思われようが、儂がやらねばならない事は変わらん。すべては地蔵菩薩、ひいては閻魔大王の思し召しゆえに。」

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