第20話 少年

暫くして行命様の読経が終わりを告げる。最後の一音を鳴らすと、彼は立ち上がって振り返り、少年の姿を認めて表情を和らげた。彼も行命様に向かって軽く頭を下げる。


「お久しぶりです法師。」

「……あぁ久しいな、息災であったか?蒼波(あおば)。」

「えぇ、おかげ様で。法師におかれましてもご健勝であられましたでしょうか。」

「うむ、問題ない。」

「それは何より。」


親し気な会話を交わす二人の様子を見て、私は説明を求める視線を行命様に向けた。それを受けて彼は改めて少年と向き合う。


「これにいるは儂の徒弟だ。三月前に拾った。」


そんな犬拾ったみたいな紹介しなくても……。私は一瞬恨めしく睨み付けながらも、彼に向って頭を下げる。


「伊織です、よろしくお願いします。」

「……蒼波だ。」


それに対して彼は簡素に返しただけで、私をじっと睨め付けている。

え、やっぱ私がさっき動揺したの気に障った?!怒ってる?!!


素っ気ない口調が私の不安を煽った。蒼波は私から視線を離すと行命様に向き合い私を指さす。


「法師。少々こいつを借りても良いでしょうか?」

「構わん。」


はぇ?!また犬を借りるみたいな言い方……ていうか行命様も私の意志確認無しに即答しないで!!


「では、儂は先に宿に戻っている。二人もあまり長居せんようにな。」

「え、ちょ、えぇ?!」


戸惑う私を他所に行命様はさっさと歩きだしてしまう。私は急なことに混乱して思わず彼の方に足が踏み出しそうになった時、


「おい。」


蒼波が私に呼び掛けて、傘をばさりと開いて差した。


「ついて来いよ。ここじゃ話をするには『皆』の目がある。」


そう言って彼は石碑の方を見やった。私はその言い方や向けられた眼差しで察する。彼はこの慰霊碑に弔われた人達の関係者だ。


「そこから下に降りられる。」


そう言って彼が顎で示す場所には、急な斜面であるが確かに降りられそうな坂があった。


彼はそのまま何のためらいもなく斜面を下りていく。普通なら手を付くであろう道を、上手くバランスを取りながら両足のみで下る様は慣れたものだった。私はかなりの傾斜に戦々恐々としながらも、そういう彼に付いていかないのも気まずくて手足を使いながらゆっくりと斜面を下りて行った。


先を行く蒼波は軽々と一番下まで駆け下り、小さな波打ち際で私を見上げて待っている。私はそれに焦りながらなるべく早く下りられるように努力していると、不意に足が宙を切った。


取っ掛かりに足を乗せるのに失敗したのか、あっと思った瞬間にはそのまま傾斜を滑り落ち、目的地で尻餅を付いて止まる。


「いっ──たい……!!」

「お前どんくさいな。」


悶絶する私を見て、蒼波は小ばかにするように鼻で笑った。


「うぅ……笑わなくても。」

「とっとと行くぞ。」


抗議の意を込めて睨め付けても彼には全く効いていないようで、蒼波はすたすたと歩いて行ってしまう。私も手を付いてその後を追おうとしたとき、砂浜にいくつも転がっているものに気が付いた。


模様が描かれた陶器の欠片、赤錆びた釘が刺さった木片、劣化して原型を留めていない鉄製の残骸。そこには確かに人の暮らしの片鱗が打ち寄せられていた。みな、海に沈んだのだ。その事実がまざまざと見せつけられて、心の中の重りは増すばかりだった。


恐らく四年の月日を掛けて出来たばかりの砂浜を歩いて、彼は少しして足を止める。そのまま海を眺め、懐かしそうに隻眼を細めた。


「あんたも察しているだろうが……」


彼はその言葉で会話を切り出す。


「俺はここの生まれで、あの慰霊碑は俺の両親や友、故郷の人々を弔ったものだ。あまりにも犠牲になった人が多すぎてな、一人ずつ墓を作ってやれなかったから……。」

「そう……。」


私は曖昧に返事を返すしか無かった。だってどう言えばいい?当事者に哀れみの言葉を投げかけたって、それは偽善にしか思えなかったのだ。


「法師は毎年慰霊碑に経を上げに来てくれるんだ。四年前、天変が起きたこの日にな。俺は仏徒じゃねぇから弔う資格がない。有り難い事だ。」

「資格がないって……思う気持ちがあればそんなこと無いと思うけど。」


私の言葉を聞いて、海を眺めていた彼の眼差しが微かに動く。


「ねぇんだよ、俺には。そんな崇高な感情はな。」


けれど彼は私の方を向いて改めてそう言った。


「さて、こんな人気のない所までお前に来てもらったのは、聞きたい事があるからだ。」


彼が本題に入ろうとしているのを感じ、私は何を言われるのかと身を強張らせる。


「お前は一体何だ?」

「え?」

「お前は一体法師の何だ?」

「そ、それは……行命様の弟子のつもりだけれど……。」


問いかけた際の蒼波の強い眼差しに当てられて、私の答えは尻すぼみにかすんでいった。私自身、彼に弟子らしい事が出来ていないのは分かっている。その自信の無さが答えを躊躇わせたのだ。


「今まで人と深く関わろうとしなかった法師が、何故お前を弟子にする?そこまでの価値がお前にあるっていうのか?」

「……!」


その言葉にびくりと心臓が跳ねる。それは私が今まで自問してきた事、そのままの言葉だったから。


「お前……法師と居て何も問題ねぇのかよ。」

「どういう事?」


何かを含んだ言い様に怪訝に思った私は問い返す。そんな私を蒼波はじっと見つめて、数拍経つと苛立たし気に右手で後頭部を掻いた。


「やっかみとか無ぇのかって話だ。」

「それは──行命様以外と深く関わる機会もなかったし……。」

「だろうな。法師はお前に俗世と関わらせたくねぇんだろうよ。そういう人だ。」

「……。」


そうか、結局守られてばかりじゃないか私は。蒼波が周囲との関係を気にするくらいには、行命様は徳の高い僧なんだ。彼の人柄を考えれば当然のことかもしれないけれど。そう考えると益々自信を無くして心が暗く落ち込んでしまう。


「そもそもお前、法師とどうやって会った?」

「それは遭難してる所を助けて貰って──」

「だったらそのまま故郷に帰れば良かったじゃねぇか。」

「帰れないよ!もう……。」


今までで一番大きな声が出た。それに驚いたのか、蒼波は僅かに目を見開く。


「もう帰れないの。行命様が私を惑人(まろうど)って言ってた。」

「……お前もか。」


やっぱり、と思った。彼は以前行命様が話してくれた唯一生き残った少年、その本人なんだ。


「事情は分かった。だが法師がお前を傍に置く事を良しとしても、それを良く思わない人間はいる。俺みたいにな。」

「行命様の事、心配してるんだね。」


私の言葉に彼は一瞬たじろぐ。まるで予想してなかった言葉だったかのように。


「……当たり前だろ。法師は俺が天変で死にかけた時に、医者が来るまで手当してくれたんだ。片腕と片目を失うことになったが命を救って貰った。」

「そっか……。」

「だから思い上がるなよ。お前だけが特別に思っている訳じゃない。俺が言いたかったのはそう言う事だ。」

「うん……肝に銘じるよ。」


私の返事を聞いて、彼は拍子抜けしたみたいに表情を緩めた。もっと反発されると思っていたのだろう。実際、かつての私だったらどうして他人にこんなことを言われなければならないのかと憤慨したことだろう。けれど、彼の言う事は正しい。私はそれを自覚している。


自分の駄目な部分を知っていて、尚も向き合ってくれる。そんな存在に恵まれたからこそ、私の心情にも変化が起きているのをこの時自覚した。今なら、自分が至らない事に目を背けずにいられる。


「話は終わりだ。あまり法師を待たせるのも悪い。お前もとっとと宿に戻れ。」

「うん、そうだね。でもその前に──」


私は蒼波に向かって勢いよく頭を下げた。


「さっきはごめんなさい。」

「何がだ。」

「君を初めて見た時怯えちゃった事。気に障ったよね。」

「……別にお前だけじゃない。慣れてる。」

「それでもごめんなさい。」


尚も頭を下げ続ける私を彼は暫く見下ろしていて、やがて疲れた様にため息を付いた。


「分かったよ。許す。」

「うん、ありがとう。」


彼の許しにほっと安堵して顔を上げた私を、彼はじっと見つめてまた後頭部を掻きむしった。


「なんだかなぁ……。」

「え?」

「毒気を抜かれた。」

「えーと?」

「いい、独り言だ。」


彼はそう言うと、砂浜を歩き出した。私は遠ざかろうとする背中に向かって、慌てて声を掛ける。


「あの!」

「あぁ?まだ何かあんのか。」


今度ははっきりと機嫌が悪いのを表情に示して彼は振り返った。それに尻込みするが、私は意を決して呼び掛けた。


「君は、私の事嫌いかもしれないけれど!私は君と仲良くしたいと思ってる!」

「……。」


彼は更に眉間の皺を深めたが、口を閉じているのを良いことに私は勇気を振り絞って尚も続けた。


「蒼波、私の名前は伊織だからね!今度は名前で呼んでよ!」

「知るかばぁか。」


舌を出して思いっ切り悪態を付かれた。けれど何故だろう、否定されているのに初めて年相応の反応をしてくれた事に私は嬉しく思ったのだ。


彼はそれっきり私の方を振り返らずにその場を去っていった。



******



お湯から手を引き上げるとちゃぽんと水面が鳴った。そのまま両手で口元を覆うとこぼれ出たため息が指の隙間から抜けていく。


「沁みるぅ……。」


私は宿の湯桶に浸かっていた。身だしなみは行水か体を拭くだけが一般的の環境のなか、かつての豪商の家を改築したというこの宿は珍しくお風呂があった。部屋も個室だという贅沢ぶりで、その分値を要求されるが、雨で濡れた事を鑑みて行命様が奮発してくれたのだ。


今までお湯で濡らした布で拭くしかなかった私にとって、久しぶりのお風呂は正に極楽浄土の如き幸せだった。骨の髄まで暖かさが染み込んでいく。


これを体感してしまうと、今度は冬の身だしなみが心配になる。


まさか冬でも行水するわけじゃないよね……?


一抹の不安を覚えながらも、私はこの心地よさに浸りながら今日の事を振り返った。


蒼波と出会えた事は私にとって大きな前進だったと思う。行命様はこの三か月、一切自分の事を話さなかった。だから蒼波から行命様の話を聞けたのはとても新鮮な気持ちだったし、彼の忠告もあって初めて自分の立ち位置を知れた気がした。けれど──


「あぁ~もうっ!」


私はばしゃんと勢いよく水面を蹴ると淵に足を乗せ、顔を覆い天を仰いだ。


あのやり取りは本当に正しかったのか。今になって後悔が押し寄せる。うざがられてないだろうか。仲良くなりたいと言った言葉は本当なのだ。なるべく彼の心象を良くしたい。


きちんと人と関わろうとしなかった過去の自分が恨めしい。こういう時どうしたらいいのか分からないのがどうしようもなく情けないのだ。


「コミュ障の私にどうしろっていうのよ……。」


誰にともなく呟くと顔を覆った手が滑り落ちて、湯の中にぽちゃんと落ちた。


頭が茹って思考がぼんやりする。長湯し過ぎたようだ。窓枠から外を見れば雨が止んだようで、月明りが差し込んでいた。


もう上がるか。そう思って淵にかけていた足を下ろそうとしたとき、異変に気付く。その瞬間、浸かっている湯が一気に氷水に変わったかのような戦慄が全身を駆け巡った。


「また……。」


月明りに照らされて私の爪先が透けていた。


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