第19話 傷跡
今日も又、空は薄明るい。霧のように細かい雨粒が空気に混じりあって肌や唇を潤し、髪に指を通すとしっとりと柔らかい感触が心地いい。ただ、湿気でうねるのがどうにも許せなくて、私は前髪を何度も手櫛で梳いていた。
いつ頃止んでくれるんだろうか。恨めしく思って傘を少し傾けて空を見上げると、山間にさえぎられることなく一際広い曇り空から降りてくる雨粒が、途端に目に染みてきて私は双眸を細めた。
「どうした。」
先を歩く行命様が足を止めた。振り返った彼も傘をさしてその陰から顔をのぞかせている。
「いえ……海の塩気って雨にも宿るのかなって。」
「風に運ばれる事はあるだろうが雨はどうかな。何だ、海は初めてか。」
「小さい頃に行ったことはあります。けれどそれももう朧気で……。」
そう答えると香る磯の匂いを味わい、耳をそば立てれば雨音に混じって遠く波の音が届く。
あぁそうだった。これが海だ。海の気配だ。こんな近くに来てやっと思い出せる程消えかかっていた記憶。前世の私はどれだけ狭い世界で生きていたのだろう。
「今日は生憎の雨となってしまったが、もう少し歩けば海平線が見える。そこが目的地だ。」
彼はそう言って再び歩き出した。
目的地、か……。こんな所に一体何があるんだろう。
私は周囲を見渡した。
隙間だらけになって脆そうな廃材。倒伏して腐った木からぼうぼうに生えた雑草。底が抜けた桶が垂れ下がった井戸はすでに干上がり、潮風にさらされてそのほとんどが倒壊した家屋が軒並み連なる、元は大きな町であったのだろう廃墟の中を私達は歩いていた。
転がる瓦礫や廃屋の多さから、かつて栄えていた事は伺えるのに、何故ここまで放置されてしまったのだろう。
私の疑問を他所に、行命様は雑草に埋もれて消えてしまいそうな道をどんどん進んでいく。私は慌てて彼に駆け寄ると、離れてしまった距離を詰めた。
*****
それから四半時(十五分)程進んでいると行命様はぴたりと足を止めた。景色は松の木林が辺りを覆うようになっていたが、彼が足を止めた所で線を引いた様に林は断ち切れていた。
急に広がった景色の向こう、そこには波立つ海面を背景にして霧雨に濡れた石碑が立っていた。簡素な碑(いしぶみ)だ。自然石をそのまま突き立て、刻まれた言葉はたった数文字だけ。その文字を読み、私は眼を見開いた。
「慰霊碑……。」
行命様は石碑に近寄ると私を手招く。それに従って近付くと石碑のすぐ側は切り立った断崖となっており、下を覗き見れば遥か下方で波が絶壁に叩き付けられて散っていく。
「伊織、あそこが見えるか。」
彼はそう言って、遥か遠くを指さす。海と陸地を明確に分ける線を辿ったその先。小雨によって霧のように靄が掛かった景色の中で、目を凝らしてやっとその形を視認できる程遠い場所。そこにはまるで針が刺し貫かれたかのように異様なほど海面に突き出した陸地があった。
「ここからあそこまで見える海面。四年前は全て陸地だった。」
「……え。」
「あのせり出した土地は、天変に食い千切られた名残。かつて流通の要所として栄えた土地は天変によって消滅した。多くの人間がいた。それに伴って町の整備も軍備も優れた技術が備わっていた。しかし天災の前では人間の叡智など何一つ役に立たなかった。我々は何もかもを天変に奪い去られたのだ。」
「……。」
まってよ……ここからあそこまで何十kmはあると思ってるの……? これだけの土地が陸地ごと消滅するなんて現象、聞いたことがない。有り得ないよ、こんな事……。
優に大きな町が一つ入る面積に、私は氷を当てられたかのように背筋がひりついた。
言葉を失って呆然と立ち尽くす私に彼は続けて言う。
「天変の脅威から逃れた人々もこの地から離れていった。皆、故郷の思い出より天変が起きたあの日の記憶がこびりついて離れなかったのだ。道中あった廃墟はそのまま人が戻らず廃れた町の残骸だ。」
行命様はそう言うと差していた傘を下ろしてパサリと閉じた。肩を濡らす雨粒。彼はそのまま汚れるのも構わずに石碑の前に座り、黙々と数珠やお鈴を取り出すのを見て、私も傘を閉じて彼の傍らに立った。私の着物も雨に打たれてしっとりと濡れていく。
一つ息を吸い、そして彼は経文を唱え始めた。深くしみ込んでいくような低い声、虚空に波紋を広げていくかのように響き渡る鈴の澄んだ音。まるで楽を奏でて詩を謳っているかのような光景だった。
先程聞いた天変の悲惨さと、彼が連ねる詠唱の美しさの対比で不意に滲み出した感情が胸を詰まらせる。
自然に面が下がり、瞼は閉じられ、両手は胸の前で合わさった。人間として根本に備わった祈りの所作である。
そのまま連なる声に浸っていると、不意にぱしゃりと水が跳ねる音が耳に届いた。
その音が連続的で、近づいて来ているという事で足音だと気付く。
水溜りを撥ねる音がすぐ側で止まった。閉じていた瞼を開けて左隣を伺うと、そこに立っていたのは少年だった。
年は私とそう変わらないだろう。ただ伏せられた眼は複雑な感情が伺い知れて、それが大人びた雰囲気を醸し出している。彼も差していた傘を閉じた。降り注ぐ小さな雨粒が次々と繋がって一つの雫となり、彼の整った鼻梁を撫でて落ちていく。
すると、彼もまた隣に立つ私を視認するためにこちらに身体を向けた。刹那、戦慄が走る。
横顔では確認できなかった左半分の顔。褐色の肌に首元まで続く痛ましい傷跡が刻まれ、左目は眼帯で覆われていた。弱い風が私達の間を抜けると、彼の中身のない左袖がそれに煽られて靡く。
思わず身動ぎした私を見て、彼は凛々しく描かれた眉を僅かに寄せた。
あ、と思った瞬間に彼は視線を私から逸らして右手を胸の前に立てる。何事もなかったかのように瞼を閉じる彼に倣い、私も居たたまれない心地を抱えながら同じように祈った。
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