第14話 鍛錬
錆が浮き出て刃こぼれした剣に、どろりと赤黒い血が伝っていく。粘度をもったそれは、筋を焼き付けていきながら重力に従って滑り落ちていき、そして最後には泡となって鼻に付く臭いを残して焦げ付いた。
額を赤錆びた地面にこすりつけて首に力を入れる。額や頬に小石が喰い込んで皮膚を抉った。うつ伏せから横になって膝を抱え込めば、失った足先から滂沱の如く溢れる血潮が線を描く。
私は苦痛で震えた吐息を漏らしながら上半身を起き上がらせた。
立て。足が無いなど関係ない。奴らが来る。
ちぎれたばかりの足を地面に突き立てると激痛と共に眩暈が襲ってくる。でも逃げなければ。もう近い所にいる。
鋭く伸びた爪が地面を掻く足音。殺気に満ちた視線と吠え声が迫っている。
言葉にならないうめき声が食いしばった口から洩れた。早く、早く早く早く!!
ヴォンと大きく吠え声が届いた。
追い付かれた!!恐慌に駆られて振り返れば、今まさに噛み付こうと大口を開いた口腔が視界を支配し──
「──っ!」
はっと息を呑んで目を見開いた。
私は板間の上で着物に包まりながら蹲っている。不安に駆られて手足を摩ったが、もちろんそれは何事も無く付いていた。
ただ悪夢にうなされたせいだろうか、汗がじっとりと首元や背中を濡らし、全身が鉛のように重たい。
少しでも安心できる環境になった途端にこれか……。
早鐘のように打ち鳴らす心臓を落ち着かせる為に深く息を吸い、次いで細く吐き出すと、目覚めた時に思わず浮き上がった頭がごとんと床に落ちた。
「起きたか。」
その時、声が掛けられる。視線だけをゆるりと声の方に向けると身支度の済んだ行命様が座っていた。
「そろそろ起こそうと思っていた所だ。お前も支度せよ。」
「……。」
じとりと彼を睨み付けると私はばさりと着物を頭から被る。
「これ、起きろと言っておろうが!」
「痛っ!冗談ですって!」
その上からぺしりと頭を叩かれて、私は布を撥ね退けながら起き上がった。
*****
それから身支度を整えた私達は村の人たちに見送られて出立する。思えばこの村の人たちには随分お世話になった。また機会があれば戻ってくることもあるのだろうか?その時は改めてお礼を言いたい。
「ここより二日歩いた所に今より大きな村がある。そちらを次の目的地とする。まだ入用なものがあるのでそこなら用意できるだろう。道のりも平坦だからお前でも歩きやすかろ。」
「はい、お気遣いありがとうございます。」
私はぺこりと頭を下げた。自分がお礼や詫びを滅多に口にしないと指摘されたのと、昨日こってり絞られたのが効いたので、私は意識して礼を言うように気を付けることにしたのだ。
その様子を見て行命様は軽く目を見開いたが、幾分表情を和らげて小さく頷く。
「うむ、では行くか。」
それから私の体感で三時間後。
「ちょ、ちょっと……ま、待ってください。少しきゅうけい…しましょう。」
「またか。」
息も絶え絶えで行命様を呼び止めると、私はよろよろと手頃な岩に座り竹筒の水を一気に煽る。ぷはっと息を付いて下ろしたそれは空っぽで、また何処かで水を調達しなければならない事を考えると憂鬱になった。
「予想以上だな、ここまで体力がないとは。」
「そうは言われましても……。」
今日は朝から晴天なのだ。春先で和らげではあっても太陽の光にじりじりと焼かれていては体力のない私はこうなるに決まってる。そんな言い方しなくたっていいじゃないか。
彼の呆れたような言いように不満を滲ませ、私は唇を尖らせて呟いた。
それを傍らで腕を組んで眺めていた彼は一つ息を付く。
「予定変更だ。」
「へ?」
「村へは行かん。」
「え、じゃあ何処へ──」
「もう充分休憩しただろう。行くぞ。」
「え、ちょ、待ってくださいよ。」
彼は私の問いかけには答えず、さっさと歩きだしてしまった。
きちんと答えてくれたっていいだろうに。私は更に不満を募らせていった。
*****
それから先を行く彼に戸惑いながらならついていくと、次第に人気はなくなり、周囲は竹藪に覆われていく。それに比例して私の不安は徐々に増していった。
「あの、本当に何処に向かって──」
「ここだ。」
焦燥に駆られた私が思わず問いかけたところで、行命様は足を止めた。彼が指し示す先を見ると、山道の入り口を示す看板らしきものが立っていて、そこからは急な斜面に丸太を打ち付けただけの簡素な階段が伸びている。
「ここからおよそ五町(約545m)。山頂まで一人で登って帰ってこい。」
「はぁっ?!」
何を言うんだこの人は!!
「無理無理無理ッッ!!私の体力のなさは分かったでしょうっ?!登山なんて無理ですよ!!」
「普通なら半日で帰ってこれる高さだ。無理ではない。」
「でも私すでにへとへとでっ!」
抗議する私をよそに彼は涼しい顔で更にとんでもない事を抜かした。
「因みに、半時(三十分)経過毎にお前の今夜の晩飯を減らしていくからな。」
「はぁあっ?!」
「完全に飯抜きにされたくなかったら走れ。」
「だから無理ですってば!!」
「こうしてる間にどんどん時は過ぎていくが。この調子だと明日の飯も怪しいな。」
「~~っ!!」
溢れんばかりの苛立ちに声を大にして怒鳴りたい。けれどこれ以上抗議する言葉が見つからず、行き場を失った心情が両手を所在なさげに動かす事しかできなかった。
私は行命様に庇護された立場なのだ。彼の決定に異を唱えられる立場ではない。
この性悪坊主!!
「分かりましたよ!!行きゃいいんでしょ!!私の体力のなさ舐めてるんだったら証明してやりますよ!途中で倒れてたら行命様のせいですからね!!!」
ものすごく情けない事を叫んで私はやけくそだけで山道を駆けだした。ちらりと視界の端に映った彼の表情は少し笑っていたような気がする。
*****
そして太陽が中天を過ぎて夕方が近づこうとする時。
私は行命様の前で、苔のように地面にへばりついていた。
「戻ってこられたではないか。」
「……っ」
もはや溶けかかってるとも言っていい状態で倒れる私を見下ろし、彼は愉快そうな雰囲気を匂わせて声を掛ける。しかしガラガラに枯れて息をするたびにひりつく喉と、息切れのし過ぎで痛む肺のせいで言い返す気力もない。
「ほれ、寝るでない。次いくぞ。」
「次があるんですかッ?!」
正気を疑う発言を耳にして、私は弾けるように飛び起きた。
「思ったより元気だな。ほれ。」
「ちょ、わ、あっぶな!」
それに彼は呆れたように言うと何かを放り投げる。急なことに慌てふためきながら、何とか受け取ったそれは、木の棒を削って作った木刀だった。彼の手元にも同じような木刀が握られている。
「先ずは足さばきと持ち方を教える。それから素振りだ。」
「木刀って……私武道なんてこれっぽっちも習ったことありませんよ。」
「だから一から教えるのだろう?」
「そうは言ったって明日からだっていいじゃないですか。私もう死んじゃいますって。」
「人間そう簡単には死なん。」
「限度ってもんがあるでしょう!」
何度嫌がっても私を立たせようとする彼に私は業を煮やして叫んだ。
「無理ですって!!そもそもお坊さんが剣術なんてできたって、どれほどの実力だっていうん──」
刹那
空気を切り裂く刃の余波で私の髪がぶわっと舞い上がった。数拍遅れて眼前に付きけられる切っ先を寄り目になって認識すると、冷や汗が首筋を伝う。振りが全然見えなかった……。
「異論は?」
「ありません……。」
私は項垂れて答えるしかなかった。
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