第11話 名前


その思考に至ると私は途端に恐ろしくなった。



私は異次元へと来てしまった。けれど都合良く再び次元を渡れる方法など検討が付かない。帰れないのならばこの世界で生きていくしかない。



けれど、


食べていくには――?サバイバルなどお坊さんに助けて貰うまで死にそうだったじゃないか。分けて貰うか買うしかない。


お金は――?私は着の身着のままだ、お金なんて持っていない。それにもし持っていたとしても私の世界の貨幣が使えるのか?外国でも貨幣が違ったというのに。


稼ぐには――?働くしかない。けれど身元が知れない人間を雇ってくれる所があるのか?あったとしても絶対碌な仕事じゃない。



単純に思いつくだけでもこれだけの問題があるのだ。それに加えてたった半日、それだけの期間一緒に行動しただけで、彼に常識が無いと判断されてしまっている。



私の想像の付かない問題がどれだけあるというんだろう。そんな状態でどうやってこの世界で生きていけるの?



そう思うと鉛のように不安が胸に支えた。



「それで?実際の所はどうなのだ?」



お坊さんが口を開いた。再びはっと息をのむ。私の悪い癖だ。一度考え出すと周囲の様子が見えなくなってしまう。



「は、はい……。どうやらそのようです。私自身まだ信じたくない気持ちはあるのですが、そうも言ってられない状況のようですね……。」


「ふむ……。お前の国では天変は無かったのか?」


「はい、そのような現象は聞いたことがありません。」



それを聞くとお坊さんは考え込むようにぼそりと独り言を呟いた。



「では天変の規模は国外まで広まってきていると考えるべきなのか……?しかしそうなると――」



何か言いかけた所で彼ははっとしたように口を閉じ、その後虚空を見つめながら数秒黙っていると長くため息を付く。



「いやすまん。しかしそうか、天変がないとは……。そうか……。」



彼にしてはなんともはっきりしない言葉だった。まるで口をついて出そうな言葉を無理矢理押し込んだかのように。そのため息混じりの言葉には私でも察せるやるせなさがにじみ出ていた。



「それで、お前自身に身の振り方の当てはあるのか。」


「――え、あ……。」



急にお坊さんが話の方向性を変えてきた。先ほどまでの重い雰囲気に気圧されていた私は直ぐに返事ができず吃る。



「ありません……。」


「であろうな。」


「あ、あの!もし、よろしければ働き口など紹介して戴く事は可能でしょうか?」



私が恐る恐る伺うと、お坊さんはふむ、と顎を擦った。おもむろにそこらに転がっていた木の枝を拾い上げると地面に字を書き始める。



それを見た私は思わず、ぎょっと目を見開いた。



言葉が通じているから文字も日本語だと思っていたら、彼が書き出したのは見たことがない漢字の羅列だったのだ。



「これは読めるか?」



5文字くらい書き出して彼は聞いてきた。私はどんどん絶望に偏っていく感情を押さえながら、か細くなった声で答える。



「分かりません……。」


「読み書きは習っていなかったのか?」


「いえ、そんなことは。」


「この国では一般的な会話の一文なのだが……だめか。外国ならば言語が違うのはありうるだろうが、ならば何故会話が通じるのか。分からん……。」


「似てはいると思うのですが……。」


「読み書きができないとなると、できる仕事は限られてくるぞ。」



ですよね……。この国でそういった仕事で一般的なものは農業だろうか。だけど私絶対に足を引っ張る自信がある。その上どこの誰かも知らない人間をまともな扱いしてくれるだろうか。そう考えるとぞっと血の気が引いた。



お坊さんが眉間に皺を寄せて剃髪の頭を掻いた。何か考えているようで、私も言葉が見つからず口を閉ざしていると数拍の静寂がおりる。



「分かった。」



唐突に彼が口を開いた。私は落ち込んで俯きかけていた面を上げる。



「お前の身柄、儂が預かる。」


「えっ」



思わず溢れた自分の声に図らずも期待が滲むを感じた。



「え、え?本当に?」


「最初に懸念していた心配は無くなったしの。このまま放っといても目覚めが悪い。」



え、懸念?



「お前、何故出会った時に名乗らなかった?」



あ゛。

そうだよ、私自己紹介の一つもしてないじゃないか。ここまでお世話になっておきながら名乗っていないなんて礼儀知らずにも程がある。



でも、私ってずっとぼっちだったから、クラス替えの自己紹介の時ぐらいしか自分の名前を口にしたことない。名乗るっていう行動事態、思考に無かったんだよ……!



「お前の言葉使いと服装もそうだがな――」



内心恥ずかしさで身もだえている私を余所に、お坊さんは話を続けた。



「誰かに世話を焼かれるのを当たり前に感じている節が、お前の育った環境の裕福さを物語っていた。特に滅多に礼も詫びも口にしない点がな。」



はっと息を呑む。かつて投げかけられた言葉が蘇った。



『あんた人に謝ったことあんの?』



ずきり、と今まで無視していた心の棘が途端に主張しだす。



「であるならば、まずは自分の身分を明かして庇護を求める筈。しかしそれをしないということは、自らの境遇に後ろめたい事があると言っているようなものだ。故に儂も名乗らず当たり障りのない対応をしていた。面倒事に巻き込まれるのは勘弁願いたいからな。」



あぁそうか。徐々にお坊さんの態度がキツくなっていたのは、私の態度に疑いを深めていったからなんだ。



「この場合、大体の後ろ暗いことと言えば――どこからか逃げてきて追われている、などか。」


「……ッ!!」



心臓が止まるかと思った。この人本当は全部知ってるんじゃないだろうか?思わずそんな思考が思い浮かんだ。



「と、いったような事を考えておった訳だが、それも杞憂に終わったということだ。」



そう締めくくると彼は私と向き合う。



「さて、儂は諸方を旅している。野宿は当たり前であるし、女子では大変な苦労を負うことになろう。今もお前にはずいぶんな評価を口にしたばかりだ。それでも共に旅するつもりはあるか?」


「本当に良いんでしょうか……?」


「良いと言っている。それとも、お前が嫌と言うならば無理強いはしないが。」


「そんなことありません!!」



彼が口にした言葉に私は狼狽え、思わず強い口調で彼を振り返った。



「けれど、私……っ!お坊さんが思うより鈍臭いですし、面倒臭いと思います……。」



自分で口にしてしまうと過去の自分がいかに何もできなかったのかを思い出す。己の価値の無さに情けなくて……どうしようもなく情けなくて、口元がわななく。



「その様な事、これまでの道中で十分察しているわ。」


「それでも……本当に良いんでしょうか。今ならまだ諦めもつきますからはっきり言って下さい……。」



私は彼の言葉に尚も食い下がった。私は地獄の世界で知ったのだ。



地獄では私の他にも拷問を受けている人間がいた。けれど誰一人として私を助けようとする人は居なかった。皆自分が拷問から逃れることで精一杯だったからだ。

その最中で1回だけ私に声を掛けた人がいた。助けてくれる、と希望を持った私はその声に逃げる足を止める。途端、その人は人間を追い回す野犬の群れに私を突き飛ばした。



野犬に喰われても地獄の世界では再び生き返る。それでも希望から突き落とされた絶望は心に深く傷を植え付けることになった。



余計な希望は持ちたくない。捨てられるくらいなら最初から放っておいて!!



震える口元を抑えるためにぎゅっと口を引き結んだ。



「良いと言っている。お前は儂の弟子になるのだから、世話をするのは師として当然の義務である。」


「え?」



今弟子って言った?

ぽかんとお坊さんの顔を見上げると、彼はあぁ、と呟いた。



「身柄を預かるとはそういった意味で言ったのだが。」


「私が……弟子?」


「ちょうど迎えようと考えていた所だ。言っておくが儂は女子の相手などしたことがないからな。男と同じ扱いで鍛える。」



彼は厳しい口調でそう言う。それを聞いて私の目頭が一気に熱くなるのが分かった。彼は私が何も返せない事を気にしているのを察して、己にも利点があると示してくれたのだ。



たとえその場かぎりの言葉だったとしても、その気遣いが染みるほど嬉しかった。



「さて、そろそろお前の名を教えてくれんか。」



彼が私が名乗る機会を作ってくれたのも、それを表していた。



「伊織……佐河伊織です。」


「うむ、では伊織。お前はこれからの旅路の中でよく学び、よく励み、よく喜び、よく悲しみ、よく生きなさい。それが悟りへの足掛けとなるだろう。儂は良き先達としてお前の道しるべとなるよう努力しよう。」



私の名を聞いてお坊さんは微かに口元を綻ばせる。私が初めて見た彼の笑顔だった。



「儂の名は【行命】(ぎょうめい)だ。これから儂の事は法師か行命様と呼びなさい。」



私は彼……行命様に貸して貰っていた笠を置くと、その場で地面に手を付き深く頭を下げた。


「不束な弟子ですが精一杯精進いたします。どうぞよろしくお願い致します。」



今まで堰き止めていた涙が、頭を下げた事でこぼれ落ちて地面に染みを作った。



行命様が肩をすくめる気配がする。



「やれやれ……お前は会った時から少し泣きすぎだな。まずは泣き虫な所を直していかねばならん。」



彼は冗談混じりに言うと私の頭を軽く二回叩いた。



「……はい!」



弟子として初めての教えだというのに、涙で掠れてみっともない返事だった。それでも私にとってはこの時が大きな一歩だったのだ。

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