第9話 困惑
トントンと肩を叩かれて私は重いまぶたを薄く開けた。
「そろそろ身支度をされた方が良いのではないかな。」
「……ふぁい」
間抜けな返事が口をついた。上る朝日の眩しさに瞬きしながら、私は熱を持った顔を押さえる。自分の顔をなぞればいつもより腫れ上がった目蓋。昨日は泣いてばかりだったからなぁ……。さぞかし酷い顔しているだろう。
しかし私いつ寝入ってしまったんだろう。久方ぶりのまともな食事とお坊さんとのやりとりに安心したのか、気絶するように寝入ってしまったんだろうか。
状況把握に勤めてみれば、私が寝ていた場所は清流のせせらぎは聞こえてくるが川辺ではなく、そこから少し離れた林の中にいるらしかった。もしかして寝入ってしまった私をお坊さんが運んでくれたんだろうか。
そう考えると何ともきまりが悪い。彼には初対面から醜態を晒してばかりじゃないか。
苦い気分になりながらも硬い地面に寝転がってた体を起こすと身体中がビキビキっと悲鳴を上げた。
あぁ全身が痛い……早くベットで寝たいよ。私は節々が痛み、倦怠感が襲う身体を無理矢理動かして立ち上がった。
「川辺の方向は?」
「分かります、大丈夫です。」
私はよろよろとせせらぎが聞こえてくる方へ歩く。まずは腫れぼったい顔を洗わないと。
数分で川にたどり着き、私は岸辺にひざまずいて水を掬おうとする。そこではたと気づいた。
あ、顔を拭くもの……。
昨日お坊さんに貰った手ぬぐいを思い出した。制服のポケットにしまっていた、昨日のままのそれを取り出してじっと見つめる。
そして川の水に付けて揉み洗いし、水を固く絞ると顔を拭いた。
「身支度が済んだのなら出発してもよろしいかな。」
その言葉で振り返ると、既にきっちりと身支度が済んだお坊さんが立っていた。
「え、朝ごはん……」
すっと小さな干し芋の欠片を渡された。
食べながら歩けって事ね。
私はおずおずとそれを受け取ると、お坊さんはスタスタと歩き始めた。
私は慌ててお坊さんに駆け寄ると、彼の一歩後ろを歩きながら本当に小さいその欠片をしゃぶる。
……甘い。
優しい味が口の中に広がって、無性に涙が滲んだ。
ちょっと元気出たかも。
*****
その後、
先を歩くお坊さんが邪魔な枝を払い、草を踏み倒して私が歩きやすいように配慮してくれたお陰で随分長い距離を進んだような気がする。
やっぱりこのお坊さん凄くいい人なんじゃないだろうか。初対面がちょっとアレだったけど。
彼の行動に感動していると、ふと気づく。私が最初に登った、あの白い木がちらほらと見かけるようになってきた。それは徐々に立ち並ぶ本数が増え始め、次第には見渡す限り白い木だらけになった。
あ、あれ?戻ってきてる?
そこでお坊さんは足を止めてくるりと振り返った。
「しばし待たれよ。」
そう私に言いつけると、近くの白い木の根元に座り込み枝を払っていた小刀で木の樹皮を剥がし始めた。
脆い樹皮は簡単にポロリと剥がれ、黒っぽい樹体が現れた所に小刀がくい込む。樹体を抉るとみるみるうちに樹液が染み出してきた。彼は懐からお椀を取り出すと樹液を受け止める。
お椀に徐々に溜まっていく樹液を見て私は驚いた。
「え、水?」
「春先の白樺(しらかんば)の木はたっぷり水を含んでおりましてな。樹液が混ざっておるので甘く滋養もあるのです。この時期だけの馳走ですな。」
そう言ってお坊さんは樹液の溜まったお椀を私に差し出した。
「え、あ、ありがとうございます……。」
私がそれをおずおず受け取ると、お坊さんは今度は竹筒に樹液を溜め始めた。
私は渡されたお椀に恐る恐る口を付ける。するとまろやかな口当たりを感じ、飲み込むとふんわりとかすかな甘い後味が鼻を抜けていった。
「美味しい……こんな美味しい水飲んだことない……!」
「良いところのお嬢さんではこの味も知らんでしょうな。」
……確かに都会の方に住んでたからこの木も見た事ないし、水が出る木が存在するって事すら知らなかったけど、『良いところのお嬢さん』の言い方が……なんか鼻につくなぁ。
少しイラッとしたけれど構わずお椀の中身を飲み干す。
「お代わり頂けますか?」
「無理ですな。」
えっ?
お坊さんは傷跡から樹液が出なくなると竹筒に栓をして立ち上がった。
「これ以上傷付けば木が枯れてしまう。」
「こんなにいっぱい生えてるんだから1本くらい大丈夫でしょう?」
「この森で沢山生えてるのはここだけでしてな。白樺の木はただでさえ70年しかもたない故、貴重な木を減らしたくないのです。」
「なら、他の木を」
「傷を付ける事自体木にとっては良くない事なのですよ。」
えぇ……そんな大袈裟な。もっと飲みたかったのに。
でも始めっから水が確保出来る場所にいたとは思わなかった。それをあちこち探し回って、余計な怪我をして体力を消耗してたなんて、ほんと馬っ鹿みたい。
そう思うと更にイライラした。でも我慢だ。ここでお坊さんに八つ当たりをするのは違う。それに愛想をつかされてしまえば私は路頭に迷ってしまう。私は気持ちを落ち着かせようと深呼吸した。
「もう一刻も歩けば麓にたどり着きましょう。少し休んだら参りましょうか。」
「……はい。」
お坊さんの言葉に従ってそれから小休憩を挟んだ後黙々と山道を歩く。彼が言っていた一刻がどのくらいの時間なのか私にはよく分からなかったけど、1時間くらいするとしっかり踏み固められた道に出た。
そこから道に沿って緩やかに下っていく事1時間程にして、道を覆うように生えていた竹藪が切れ、お坊さんが口を開いた。
「見えましたぞ。」
「着いたんですか?」
私は慌ててお坊さんの隣に駆け寄る。そこは小高い崖になっていたようで、見下ろす彼に習い私も視線の先を追った。
「え?」
途端、私は固まった。
そこには木の板を組んだだけのボロい建物と田んぼの景色が広がっている。それだけだった。
ある程度人が住んでいるならあるはずの、電柱や車、水路、舗装された道路など街を見渡せたば当たり前にある光景が見当たらない。まるで時代劇で見る昔の村のように何も無いのだ。
「なに、これ……」
「どうかしましたかな?」
怪訝そうに問われてはっと我にかえる。
「あ、いえ……あの……」
しかし言ってもいいものか口ごもってしまった。
「いや……こんなの失礼かもしれませんが、その……結構な田舎だな、と思いまして」
「それはそうでしょうな。そのような衣服を都合できる都会からしてみれば、この村などさぞかし貧相に見える事でしょう。」
彼は私の格好をチラリと見ながら嫌味っぽく言った。それにまた私はムカッとする。
ねぇ、なんかこのお坊さんさっきから当たり強くない?私そんなに悪い事した?!
「しかしこの森に入るのにあの村を通って来たのでは無いのですかな?でしたら今更驚く事もあるまいに。」
心臓が物理的に跳ねた心地がした。
「あ、えっと…その、村の景観をしっかり見てなかったので、行きと違う村に着いてしまったのかと思いまして……」
「ふぅむ……その可能性はありますな。貴女は村の名前も分からなかったようなので取り敢えず近い村に降りてきただけですしの。」
しどろもどろに取り繕うとする私の台詞に対して納得したようにお坊さんは言った。
「だが、どこの村でも似たようなものだと思いますがな。何を今さら田舎である事に驚くのか。」
この会話の流れはまずい。
「だ、だからよく見ていなかったんですよっ!村まで下りれば思い出すかもしれません。さっさと村まで行きましょう!」
私は早口でそれを捲し立てると彼に背を向けて村まで続く道を歩き始める。
お坊さんは微かにため息をつくと、何も言わずに私の後を歩いた。
背後から注がれる視線を感じて、まだバクバクと緊張する胸を押さえる。
絶対お坊さんは私の説明に納得していない。後でまた森にいた経緯について聞かれるだろう。しかし、どうやって説明したらいいんだろうか?それにあの村はいったい何なんだろう?木造にしたって掘っ建て小屋みたいな粗末な家で本当に人が暮らしているんだろうか?
分からない。一体どうなってるんだろう?ここは本当にどこなの?
混乱する思考の中お坊さんと一緒に歩いていくと、少し長めの下り道を経て崖から眺めた村へと辿り着く。そして私はそれを見た時より強い胸のざわめきを感じる事となった。
「嘘だよね……?!」
山の斜面に沿って様々な形の田んぼが連なる棚田を切り分けるかのようにあぜ道がはしっている。そんな道とも言えないような道をお坊さんと一緒に歩いていくと、今はちょうど種まきの時期らしく、水を張った水田の中で人々がそれぞれ種もみを撒いていた。その格好が皆着古した着物、裸足に草履姿だった。
何?映画のセット?
一瞬、そう考えた。
けれど、お坊さんの姿を見つけて手を振る男の人がいた。その手はゴツゴツとコブだらけで爪が変形していた。そしてその人はその隣に縮こまる私を見つけると目をまん丸にしてずっと凝視している。
またある女の人は近くにいた同年代らしき女の人と小声で何か話している。その表情は嫌悪感をありありと感じられた。
頭から血の気が引いていくかわりに冷や汗が止まらなくなっていく。
何、ここ?どうなってんの?!
ここ、日本だよね?!ただのド田舎ってだけだよね?!
思わず汗ばんだ手で制服の裾を握りしめて俯いていると
「さて。」
お坊さんから声が掛かった。
「この村に見覚えはありますかな?」
「あ、ありません……」
「だったら反対側の村ですかな?本当に心当たりは無いのでしょうか?」
「分からないです……」
「でしたらどこからいらしたのか。“邦都”(ほうと)かそれとも“黄弦”(こうげん)か。まさか“北廉”(ほくれん)の方ではありますまい。」
バクンと一際心音が耳について、それから早鐘のように鳴り出した。私が全く知らない地名を彼は淀みなく述べていく。
「分かりません……」
「流石に自分の住んでるところくらいは分かるはずでしょう。」
「ほ、本当に分からないんです……ここはいったい何処なんですか……?!」
がたがた震えながら、私は涙目になってお坊さんを見つめた。
「東京は……日本は、何処なんですか?!」
「とうきょ……にほん?なんだ、それは?いったい何処だ?」
思わずといった様子で彼は言葉使いを崩した。その表情には戸惑いがありありと現れている。
「こんな時にまでふざけないで!!知ってる筈でしょう?!」
彼の態度で更に焦燥に駆られ、私は周りの様子も忘れて喚いた。
「私を家に帰して!私が面倒なら警察まで連れてってくれたら良いじゃないですか!それを未だにそんな事言って!」
「待て待て、本当にお前の話が分からない。取り敢えず落ち着け!場所を移すぞ」
「場所を移してじゃなくて…うぶっ」
まだ喚こうとする私に、お坊さんは慌てて被っていた編笠を乱暴に私の頭に乗せると、私の手を引いて小走りで駆け出す。私は躓きそうになりながらなおも叫んだ。
「嘘つき!意地悪!!」
「分かった!分かったから!後で話はたっぷり聞く!だから今は黙れ!!」
初めてお坊さんの本気で焦った声を聞いた。途端に罪悪感を感じ、私は口を噤む。それに納得したのかどうかは分からないが、お坊さんはその後は急いで村の外れへと私を連れ出すまで無言だった。
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