第2話 ゆうたの異変
「戻りました~」
「おぅっ、お疲れさん!」
「椎名さんすみません、書類に不備があったと連絡があって」
「あぁ、ここ先方の署名が漏れてるぞ」
「本当だ。もう一度行ってきます!」
「立花、ちょっといいか?」
「はい…」
俺はすぐにでも取引先へ行き、再度署名をもらいに行きたいところだったが
椎名さんに呼び止められた。
「どうしたんですか?」
「お前、嫁さん出て行ったんだって?総務の同期から聞いたよ
勿論、プライバシーに関することだし、そいつも俺に伝えるかどうか悩んだそう
だ。だけど、俺とお前の関係性を知ってるからこそ黙ってはいられなかったと。
そいつもお前のこと心配してこっそり教えてくれたんだ。悪く思うなよ」
椎名さんは俺の2つ先輩だ。いつも何かと気にかけてくれる。
「いえ、俺から直接伝えられなくてすみません」
「そんなことは気にするな。それで、お前大丈夫なのか?息子いくつになった?」
「三歳になったばかりです」
「仕事しながら、育児も家事もしないといかんのは大変だろう?」
「そうですね…マジできついっす」
「ご両親に手伝いに来てもらえないのか?」
「それがまだ言ってなくて…嫁に捨てられたなんて恥ずかしくて言えないですよ」
「お前、そんなこと言ってる場合か?このままじゃお前が体壊しちまうぞ!
息子を守れるのはお前だけなんだから」
「ですよね…」
分かってる、分かってるんだ。このままの生活を続けるのは無理だって。
そんなこと、言われなくても分かってる。
そんな風に思ってはいけないが、先輩の優しさがおせっかいに思えた…
本来は気にかけてもらって感謝すべきところだろう
だけど…俺の心にはもうそんな余裕すらなかった。
「パパ~!!」
「ゆうたお待たせ、ごめんな、いつもお迎え遅くなって」
「ゆうた大丈夫だよ、だってパパいつもお仕事頑張ってるでしょ。
だからゆうたも頑張るよ!」
三歳の息子の口からこんな言葉が出てくるなんて、思ってもなかった。
子供は親を見て育つっていうけれど、何だか泣けてくる…
息子にも寂しい思いをさせてしまっている。そう思うと胸が苦しくなった。
ゆうたに異変が起きたのは翌朝のことだ。
その日もいつものようにゆうたを起こしに行った。
「ゆうた朝だぞ!もう起きる時間だ。」
そう言って寝ぼけたままの息子を抱き抱えた。その時、何か違和感を感じた。
いつもなら「おはよう!」と言ってくれるのだが、目を開けたままボーッとしている。
「ゆうた、どうした?どこか痛いのか?」言葉をかけても返答がない。
「うーうー」「何?」「うっ…あー」「声が出ないのか?」
ゆうたは首に手を回し苦しそうだ。俺はパニックになりながらもかかりつけの病院に連絡し、すぐにゆうたを連れて行った。
「ゆうた病院着いたぞ!もう大丈夫だからな!先生に診てもらおう、きっと大丈夫
だ」
そう自分に言い聞かせているかのようだった。
「お父さん、ゆうた君の体に異常は見られません。声が出ないのは精神的なものが
原因かもしれません。何か強いストレスを感じて声が出なくなった可能性があり
ます。正直、一時的なものかどうかを判断することは難しいです。」
「そうですか…」俺のせいだ、俺がゆうたの声を奪ってしまったんだ。
「何か心当たりが?」
「はい、あります」
「ゆうた君に必要なのは心のケアです。精神科の病院をご紹介しましょうか?」
「いえ、大丈夫です…」
ゆうたの声が出なくなったことは勿論ショックだ。だけどそれ以上に自分の不甲斐無さをただただ感じていた。
数日後、偶然にも街でゆうたのかかりつけの先生と出くわした。
「立花さん?」
白衣姿ではない先生は雰囲気が違う。それでも変わらず出来る女感が漂っている。
「あっ先生、こんにちは」
「ゆうた君の様子はいかがですか?」
「相変わらずです」
「コミュニケーションはどのようにして取っていますか?」
「ゆうたはまだ文字が書けませんので、こちらが質問する形で問いかけ
それに対し頷く、首を振るみたいな感じでやり取りしています。」
「あの、立ち入った質問ですが、その…」
「妻が突然家を出たんです」
俺は先生が質問し終える前に食い気味で答えた。
「そうですか…実は私も娘を一人で育てました」
「えっ先生が?」
「はい、今はもう一人立ちしましたけど。私は立花さんとは逆で
私が娘を連れて家を出たんです。夫は気分屋で気性が荒く、私たちは毎日
夫の顔色をうかがいながら怯えるように暮らしていました」
「先生の旦那さんもお医者さんだったんですか?」
「えぇ、娘を身ごもった時私はまだ研修医でした。娘が生まれてからも夫が変わる
ことはなく私は娘を守るために何度も離婚しようと考えました。だけど、研修医の
私では経済的にも時間にも余裕がなく離婚に踏み切ることが出来ませんでした」
「でも先生は離婚されたんですよね?」
「えぇ、医者という職業は時間が不規則です。親を頼りながらも頑張ってみましたが
だんだんと私自身が切羽詰まった状況になっていき子育ても、仕事も、家庭も全
てが崩壊寸前でした。そんな時でした…娘から笑顔が消えたんです。娘は笑わなく
なってしまったんです」
「お医者さんを続けながら娘さんを立派に育て上げたんですね、先生は強い人だ」
「強くないですよ、私はどちらかというと何でも一人でやるタイプで人に頼ることが苦手でした。人に頼ることは甘えだと思っていましたから。でも、どうしようもない状況に陥って初めて、甘えていいんだって思うようになりました。立花さんはどうですか?今大変な状況にあられると思いますが、どなたか頼れる方はいらっしゃいますか?」
「そうですね…・私も人に甘えることは苦手です。実は両親にも離婚したことをまだ伝えられずにいます。なので今のところ頼れる人はいません」
「どうしてご両親に伝えないのですか?」
「がっかりさせたくないんです。昔から親の顔色ばかりうかがってきました。どうやったら喜んでくれるだろう、もっと頑張って認めてもらいたい。モチベーションはいつだって親に認めてもらう為、だったと思います。ずっとそうやって生きてきたので今自分が大変な状況にあるとしても、それ以上に親をがっかりさせたくない、そんな風に思ってしまうんです」
「立花さん、子供は親の背中を見て育ちます。子供だから分からないだろう、ということはありません。子供はまだ囚われているものがなく、純粋に様々なものを吸収しようとします。特に親というものは、子供にとって人生の教科書のようなものです。子供は社会と接する以前に親をみてなりふりを身につけます。私たちは常に見られています。そして子供たちは無意識に親の変化をも感じ取っていますよ」
先生にそう言われて俺は、はっとした。確かに自分自身も親の背中を追いかけていたのかもしれない。親が見せてくれた価値観の中で生きている頃は深く考えることもなかった。社会に出て、結婚して、自立したときにもしかすると俺は、親の価値観という殻から抜け出そうとしているのかもしれない。
「どうか今は、ゆうた君のことを一番に考えた選択をしてください」
「はい、先生ありがとうございます」
その日の夜、俺は実家に電話をした。
愛のカタチ 恵里花 @1230erika
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