第270話 規定路線

「一成さん、どうなさいました!?」


 花子さんに大声で呼ばれた沙羅さんが、驚きの声を上げながら駆け寄ってくる。

 本当に大した怪我じゃないんだけど、自分の間抜けが原因だと思うと本人に申し訳ない。


「一成、手を見せて!!」


 普段は冷静な花子さんが、焦ったように俺の手を奪いにくる。

 見せるのは別に構わないんだけど、この程度の怪我じゃ流石に…


「一成さん、手を見せて下さい!」


「いや、そんな大したものじゃ…」


「いいから早く見せる!!」


「は、はい!!」


 はい、わかってました。

 俺が二人に逆らうことなんか出来ません!


 逆らえない人、一位と三位(二位は真由美さん)に詰め寄られて、抵抗なんか出来るはずないよな。だから素直に左手を差し出すと、沙羅さんが壊れ物でも触るようにそっと俺の手に触れてきた。そのまま優しく包み込むように持つと、自分の見やすい位置まで持ち上げる。


 …こんなチョイ傷で大袈裟だって言われたらどうしよう


 一応は自分でも確認してみたけど、やっぱり少し血が出ているくらいで大した傷じゃないと思う。でも沙羅さんは傷口をじっと見つめながら、心配そうに眉をひそめていた。

 そんな沙羅さんの表情が…自分の大切な人に、こんな心配をかけてしまった自分が腹立たしくて…俺は本当にバカだ!


「…このくらいなら、応急処置でも大丈夫だと思う」


 横から傷口を覗き込んでいた花子さんは、傷が軽いと判断してくれたみたいだ。それには俺も同意だし、もう一つ言うなら別にこのままでもいいと思ってる。ぶっちゃけた話、舐めときゃ治るってやつだ。


「保健室…いえ、病院に…」


 でも沙羅さんはそうじゃない。今にも泣き出しそうな表情で、こんな表情をさせているのが俺だと思うと自分を殴り倒したくなるくらいだ。


「嫁、取り敢えず応急処置」


「そうですね、えっと…」


「普段料理してるなら、このくらい嫁もやるでしょ?」


「え? ええ、それはそうですが…」


 普通に考えたら当たり前の話なんだけど、沙羅さんがそんなミスをする姿が全く想像できない。少なくとも、俺はそんなシーンを一度も目撃したことはない。

 でも、もし仮に沙羅さんが指を切ったなんてなれば…そんなことは考えたくないけど、きっと俺は大騒ぎし…


 あ…そうか。

 俺が感じたこの気持ちが、今、沙羅さんが感じている気持ちなのかもしれない。うう…これじゃますます申し訳ないぞ。


「沙羅さん、大丈夫ですよ。こんなのどうってことないです」


 実際、傷は本当に大したことはないんだよ。だから俺は、大丈夫であることを最大限にアピールしておく。少しでも沙羅さんが安心してくれるように笑顔を見せる。

 何となく痛みが出てきたような気もするけど、精々その程度のことだ。

 そろそろ血も止まるだろうし…


「一成さん、本当に大丈夫ですか? 嘘をついたら、めっ、ですよ?」


 じっと俺の目を見つめながら、沙羅さんが問いかけてくる。いつも俺の考えを簡単に見抜いてしまう沙羅さんだから、嘘を言っていないことくらいわかっている筈だ。それなのに納得してくれないのは、それだけ心配をしてくれているってことなんだろうけど。


「か、可愛い!?」

「ちょっ、今のズルいでしょ!? 薩川先輩のキャラで、めっ、とか」

「はぁはぁ…期待以上のラブコメ堪りません…」

「いや、あんたら高梨くんが怪我してるってのに…」


「…………ふぅ」

「…も、萌え力高すぎて死ねる」

「ちくしょぉぉ、俺も薩川先輩にあんな風に言われたかったぁ!」

「俺も怪我したら少しくらい…ねーよな…」


「高梨のやつ、大丈夫か?」

「余計なことはしない方がいいぞ、あれに割って入ったら、薩川先輩と花崎さんに殺される」

「ははっ、川村にしては珍しい冗談だな」

「冗談だと思うか?」

「「…………」」


 どうしよう…まさか強引に腕を引き離す訳にもいかないし、でもこのままじゃ料理教室がまた遅れてしまう。

 クラスメイト達の注目も集めているみたいだし、俺のせいで全体的な作業が止まってる状況だ。


「沙羅さん、本当に大丈夫ですよ。こんなの舐めときゃ治ります」


「嫁、一成もこう言ってるし、実際怪我は軽いみたいだから」


「はい…そうですね」


 俺の説得と花子さんの後押しで、沙羅さんもやっと頷いてくれた。まだ手は離してくれないけど、それでも表情は心なしか落ち着いたように見える。

 良かった、沙羅さんにいつまでもあんな顔をさせているなんて、俺は自分が許せなくなるところだった…今後は本当に気を付けよう。


「でもそのままにはしない方がいい。一成も大袈裟にして欲しくないみたいだし、いつも自分でやるときくらいにしてあげれば?」


「そう…ですね、一成さんさえ宜しければ、私は」


「俺は沙羅さんが納得してくれるなら、それでいいですよ」


 それで沙羅さんが納得してくれるなら、俺に異存なんかない。普段通りってことは、処置も簡単なものだと思うし。


「畏まりました。それでは一成さん、私にお任せ下さいね」


 沙羅さんは少しだけ笑顔を浮かべると、持っていた俺の左手をそのまま水道に寄せて、傷口を洗ってくれる。丁寧に水で流して一頻り洗い終わると、エプロンのポケットからハンカチを出してポンポンと…ハンカチ!?


「沙羅さん! ハンカチに血がついて…」


「一成さん、私に任せて下さるお約束ですよ?」


「うぐっ…」


 確か、血がついてしまうと洗濯をしても取れないって話を聞いたことがある。こんなのティッシュとか適当な物で良かったのに…

 沙羅さんは嫌な顔一つせずに、俺の人差し指を丁寧に拭いてくれる。でもまだ血は止まりきっていなかったみたいで、拭き終わった先から傷口に赤いものが滲み出してくる。


 沙羅さんは一旦ハンカチをポケットにしまうと、俺の手を持ったままの自分の顔に寄せていき、血が滲んでいる傷口を確認するようにじっと見て……そのままパクっと…


「ん…」


 ちゅ…


 …………………は?


「「「 !!!!!!?????? 」」」


 えっ…?


 なに…?


 パクっと…パクって言った?

 パクっとした?


 え…え…え?

 な、なに…なになに…何を? なにが?


 …………………


 何をぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!????


「ん…」


 ちゅ…


 なななな、なになになに、いやいやいや、落ち着け…落ち着け落ち着け落ち着くんだ俺!!

 こういうときこそ冷静、冷静冷静に考えろ!!!


 俺は沙羅さんに怪我が大したことないって言った。花子さんも俺の傷が軽傷だとわかってくれた。だから治療とか大袈裟なことは必要ないって同意してくれた。普段沙羅さんがやってるようにするくらいでいいって、だから俺もそれで沙羅さんが納得するならって。


 あ、そうか!


 俺だって舐めときゃ治るって自分でも考えただろ。だから沙羅さんが普段そうしていても全然不思議じゃない。

 何だ、考えるまでもないじゃないか。

 ははははははははは


 ……って、こんなの無理に決まってるだろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!


「…ぇぇぇぇぇぇぇ」

「な…な、な、何してるの…アレ」

「…うわ…ぁぁ…そ、そこまで…やるぅ!?」

「………ごくっ」


「…ぁ…ぁ…ぁ」

「…嘘だ…夢、夢、ゆめゆめ」

「…は、はは、違う違う、俺の女神様はあんなこと…」

「…も、もう…や、止め…」


「沙羅さん!?」


「んっ…」


 ちゅ…ちゅ…ちゅ…


 沙羅さんは目を閉じて、まるでキスをしているように俺の指先を口に含んでいる。その可愛らしい口許から聞こえてくる水音が…感触が…


 や、ヤバい、何がヤバいって考えたくないから絶対に考えないし、言いたくないから絶対に言わないけど、敢えて言うなら「とにかくヤバい!!」

 これしか言えない!!


「な、な、な、な、な…」


 横にいる花子さんは、驚愕の表情を浮かべて絶句していた。視線は完全に沙羅さんの口許へ向かっていて…そりゃそうだ、こんなの驚くなって方が無…


「…んむ」


 !!!!!!!!!!!!!!!!!!


 な、な、な、舐めたぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??

 い、今、確かに沙羅さんの舌が…


「ん…ん…」


 ちゅ…ちゅ…ちゅ…


 ぁぁぁぁぁぁぁ…

 沙羅さんの舌が、二度、三度と俺の傷口を優しく撫でるように動いて…って、ダメだ考えるなぁぁ!!!!!

 無だ、無になるんだ!! 

 わ、我が心、明鏡…


 ちゅ…

 

 嬉しいけど止めて下さい!?

 嬉しいけど止めて下さい!?

 嬉しいけど嬉しいけど嬉しいけど!!!


「ん…」


 どのくらいそうしていたのか、俺の指先を撫でていた沙羅さんの舌が動きを止めた。ここまでのことが一瞬だったような、かなりの時間が経ったような…


 そして僅かな水音と共に、俺の人差し指が沙羅さんの口内からゆっくりと出てくる。

 その光景が信じられなくて、衝撃的で、心臓のバクバクが最高潮で…

 事が終わって、今起きたことの理解がやっと追い付いてくる。自分がされたことを思い出すと、顔が瞬間湯沸し器の如く一瞬で真っ赤になったのが分かった。


 うう…沙羅さん…これはいくらなんでもやり過ぎです…


「…これで大丈夫でしょうか?」


 これだけのことをしたのに、沙羅さんからは特に気にした様子が見えない。いくら普段自分でもやってることとは言え…でも俺の為にやってくれただけなんだろうし、他意なんか一切無いと思…いや、実際無いんだろうなぁ。


「あ…あの…さ、沙羅さん?」


「ふふ…今更ですけど、少しだけ照れてしまいますね」


 どこが!?

 と、思わず突っ込みを入れそうになったが、言われてみれば少しだけ頬が朱くなっているような…そうでもないような。

 ここまでして何も感じないなんて、いくらなんでもそれは有り得ないよな。

 俺なんか一杯一杯で、とてもじゃないけどそんな程度じゃ済まないぞ。

 油断すると自分の目線が沙羅さんの口許に、そして俺の指に……指ぃぃ!?


「血は止まったみたいですね」


「えっ!? そ、そそそ、そうですね!」


 言われて俺も指先を確認。確かに出血は止まっている。

 でも、それよりも…それよりも!

 自分の人差し指が少しだけ濡れているのが見えちゃって…俺の指が、さっきまで沙羅さんの口に…口に…ぁぁぁぁ


「一成さん、痛みの方は如何ですか? 時間が経つと痛みが出てくると思いますが…」

 

 別の感触が残っていて痛みなんか感じません!!

 いや、後で少しくらいは痛みが出るのかもしれないけど、この感触に比べたら全く大したことない!!


「…な…何を…して…」


 ここまで無反応だった花子さんが、絞り出すような声を出した。

 目の前で見てたんだから、沙羅さんが何をしてたかなんて分かって…って、そういう意味で聞いてる訳じゃないよな。


「え? ですから、普段私が自分にしている…」


「そうじゃない!! 誰がそこまでやれと言った!?」


 花子さんが堰を切ったように沙羅さんに詰め寄っていく。ここまで興奮した花子さんは珍しいけど、あれを見たらそのくらいの反応は当然だと思う。俺だってまだ現実味が無い。


「私は、一成さんにして差し上げることに妥協などしませんよ?」


「それは知ってる! でも、いくら何でもやり過ぎ!!」


「そうでしょうか? 私は一成さんのお怪我の手当をしただけですよ。それに、いつも自分がやっている通りにと言ったのは、花子さんではありませんか?」


「うっ…いや、それはそうなんだけど…ぐぅぅ…」


 あぁ、これは花子さんの分が悪くなるパターンだ。

 程度さておき、言ったことは事実なんだよな…そしてそれは俺も同じ。

 しかも沙羅さんは純粋な理由で他意が無いから、言い合いになってもまず勝てない。夏海先輩と同じパターンだ。

 だから花子さんも悔しそうに口をつぐんでしまって…でも俺はそれよりも!

 

「さ、沙羅さん、俺はもう本当に、本当に大丈夫ですから」


「それは良かったです。ではもう一度洗って、絆創膏を貼っておきましょうか。後で改めて、しっかり消毒もしましょうね」


 沙羅さんはそう言うと俺の手を水道へ持っていき、もう一度丁寧に洗い始める。


 …ここだけの話、洗ってしまうのが残念というか、勿体ないと言うか…いやいや、そんな不謹慎な事を考えるな俺!!


 そして洗い終わった俺の指をしっかりと拭くと、何故かポケットから生徒手帳を取り出して…中に絆創膏が入っていたのか…、それをピタっと指先に貼ってくれた。


「ありがとうございます」


「あ、お待ち下さい、まだ最後の仕上げが…」


「仕上げ?」


 沙羅さんはそう言って、もう一度俺の手を自身の顔に近付けていく。

 何だろう?

 絆創膏も貼り終わったし、もうやることはないと思うんだけど。


「痛いの痛いの…とんでけ……んっ」


 ちゅ…


 ……………


 沙羅さんは可愛らしくそう呟いてから、俺の指先に軽くキスをしてくれた。

 またしても驚きで固まった俺の顔を見て、ふわりと優しい笑顔を浮かべる。


 ずるい、本当にずるい…何でこんなに沙羅さんは可愛らしいんだ。そんなことをされたら、こんな笑顔を見せられたら…愛しくて愛しくて、愛しさが溢れて…俺は、俺は…


「「「カハァ!!」」」

「うわっ、あんたら何を吐いた!?」


「うううう、ううう」

「うあぁぁぁぁぁ、もう、もう…」

「ちくしょう…ちくしょうちくしょう…高梨ぃぃぃ」

「い、いつまでやってんだよぉ…もういい加減にしてくれぇぇぇぇ」


「ちょ…あれ本当に薩川先輩かよ!? 」

「マ、マジで羨ましすぎる…何だよあれ…」

「…なぁ花崎さん、朝言ってたのって」

「結局、私が言った通りになった」

「そ、想像以上だった…」


「沙羅さん…」


「…一成さん?」


 俺は自分の心に突き動かされるように、ゆっくりと沙羅さんへ腕を伸ばす。沙羅さんに触れたい、沙羅さんを抱き締めたい、沙羅さんに抱き締められたい、そんな想いが溢れて頭の中を駆け巡る。

 沙羅さんも俺の様子を見ながら、自分が何を求められているのか直ぐに分かってくれたみたいだ。俺の目を見てニコリと微笑むと、両腕を開いて伸ばしてきた。

 俺はそれに吸い込まれるように、沙羅さんの腕の中に収まって…


 ぎゅぅ


「むぐ…」


 いつもの様に優しく抱き締めてくれると思ったのに、沙羅さんは俺の背中と頭に腕を回して少し強めに抱き締めてくる。

 顔も、いつもの柔らかい場所へ半ば押し付けられるような状態になってしまった。


「…は、はらふぁん?」


「…一成さんのバカ…私がどれだけ心配したと…」


 あ…

 そうだよな、怒って当然だよな…


 沙羅さんは優しいから手当を優先してくれけど、あんなに悲しそうな表情をさせてしまったことは俺も忘れてない。

 沙羅さんは、そもそも俺を参加させることに難色を示していた訳だし、そこに怪我をしたとなれば怒っても当然だ。


「…こめんなはい」


「…いえ、私こそ、バカなどと言って、申し訳ございません」


 それで許してくれたのか、沙羅さんは俺の頭を押さえつけていた手を緩めてくれた。俺はもう一度しっかり謝りたくて、胸から顔を離すと改めて沙羅さんと向き合う。


「沙羅さん、ごめんな…」


 ちゅ…


 !?


「「「 !!!!!!!!!!!!! 」」」


 ごめんなさいと言うだけのつもりだったのに、沙羅さんの唇が俺の口を一瞬だけ塞いでしまう。触れるだけの軽いキスだったけど、俺はそれで言葉を止められてしまった。


「…お怪我が軽く済んで、本当に良かったです」


「………」


「もし一成さんが大きいお怪我なんてされたら、私、泣いてしまいます」


「…ごめんなさい」


 沙羅さんはゆっくり丁寧に頭を撫でてくれる。

 口調こそ少し冗談めかしているように聞こえても、さっきの沙羅さんの表情を見れば冗談じゃ無いってことくらい直ぐに分かる。

 でもそれが分かるから、俺もますます申し訳なく思え…


「「「きゃ…」」」


「「「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」」」


「「「ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ

!!!!!!!」」」


 な、何事っ!!!???


 突然の大絶叫に驚いて沙羅さんから身体を離す。周囲を見回せば…大騒ぎの女子と絶望感漂う男子で阿鼻叫喚。

 そして白けた目で俺達を見る花子さんと、何故か山川達が一緒に…


「………」


「ご、ごめんなさい」


 花子さんからの無言の圧力に負けて、思わず出た一言がそれだった。

 結局俺は、花子さんの予言通り「やらかした」ってことなんだろうな…


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


このくらいなら大丈夫ですよね?(ぉ


今回で終わる予定だった料理教室が終わりませんでした。

次回で終わりになります。怪我(小傷)をした一成くんは、果たしてこの後の調理に参加させて貰え…もとい、参加できるのでしょうか?

男子の地獄はまだ!?


関係ないですけど、ついに100万文字を越えました・・・一年かからなかった・・

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