第257話 第二のスタート

 夜…


 三人が帰ってからは、沙羅さんと二人でひたすら作業に集中していた。

 俺は主に掃除を担当していたが、これを機に私物の整理も行うことにしたんだ。だから思いの外やることが増えてしまった。

 でもその甲斐あって、夕方には荷物整理に加えて部屋の軽い模様替えまで終わらせることが出来た。主だったことは沙羅さんに任せきりになってしまったけど、普段のことを考えれば家事に参加できただけでも良しとしよう。


 トントントントン…


 ♪~♪~


 そして現在台所では、包丁やフライパンから奏でられるSEと共に、沙羅さんの可愛らしい鼻歌コラボ演奏が行われている。

 曲に合わせるように身体を動かしながら、楽しそうに料理をしている沙羅さん。かなりご機嫌な様子だ。

 でもいくら沙羅さんが料理好きとだ言っても、ここまで陽気な感じで料理をしている姿は珍しい。昼はいつも通りだった筈なので、何があったのか少しだけ様子が気になるな。

 だから邪魔にならないように横から覗き込もうとすると、沙羅さんが突然何かに気付いたように振り返った。どうやら俺の接近に気付いていたらしい。


「ふふ…おいたは…めっ、ですよ?」


 こっそり接近していたので、イタズラ目的だったと勘違いされてしまったみたいだな。人指し指で俺のおでこを突っつきながら、満面の笑みで「めっ」をされてしまった。


「ち、違いますよ! かなりご機嫌に見えたから、何かあったのかな…と。」


「…そんなに機嫌よく見えましたか?」


「ええ。」


「そ、そうでしたか。自分では普通のつもりだったのですが…」


 沙羅さんは自分の様子に気付いていなかったようで、俺に指摘されると少し照れ臭そうな微笑みを浮かべた。そして俺に理由を説明するかのように、その視線を包丁やフライパンなどの調理道具へ向けている。


 …なるほど、そういうことか。


 沙羅さんの視線の先にあったそれは、先日の買い物で食器と共に購入した、新しい調理道具一式だった。

 沙羅さんは以前から新しいものが欲しいと考えていたらしく、今回の買い物で購入を決めたときはとても喜んでくれた。普段の料理に使う道具だということもあり、俺の意見まで取り込みながら時間をかけて選ばれた、言わば精鋭達の集結だ。それが今、目の前に並んでいる。


「これは私の…一成さんと二人で選んだ、私の調理器具なんです。私はこれから毎日、これを使ってお料理をするんです。二人だけの生活に、二人だけで選んだこれを使って、私は一成さんの…私達のご飯を作るんです。」


 沙羅さんの嬉しそうな表情に、見ている俺まで幸せな気持ちになってしまう。料理に特別な拘りを持つ沙羅さんだからこそ、こういうことに対する思い入れも強いのだろう。


「上手く言えませんが、それが嬉しいのです。今回、こうして新しい家具を色々揃えて、二人きりの生活が本当に始まったのだと、改めて実感したと言いますか…」


「いえ、わかりますよ。俺達が二人きりで暮らす為の物を、買い揃えたってことですからね。」


 沙羅さんの言いたいことは、何となくだけど俺にも分かる。

 先日の買い物で揃えた物は、俺達がこれから二人だけで生活をするために購入した物だ。そして日用品を買うことと、家具を買うということは意味合いが全然違うと俺は思っている。家具というものは生活を形作る物であり、だから今回の買い物は、俺と沙羅さんが同棲をしている、この先もしていくのだという事実を表していると言っても過言ではない。


「はい! それと…その、今回のことで思ったのですが…結婚をした人達が、全ての家具を一から二人で選んで揃えたいという気持ちを、私も実感してしまいまして…」


 結婚ということに対して、俺は相変わらず漠然とした感じのままだ。でも今回のことで、家具を買うということの「意味」は実感できたような気がする。だからそれを考えれば、結婚するときに二人で全てを決めたいという沙羅さんの気持ちは、寧ろ自然であり当然のことのように思えるのだ。


「…そうですね。こうして今回のことを考えてみると、確かに結婚をしたらそうするべきじゃないかって俺も思いますよ。」


「はい! そう言って頂けて嬉しいです。では、お約束させて頂いて宜しいですか?」


「ええ。その為にも、俺は就職したら頑張って働きますね。」


 少し軽口に聞こえたかもしれないが…

 生活費すら稼いだことのない俺がそんなことを言っても、今はまだ戯言にしか聞こえないだろう。でも俺だって、親父や政臣さんの姿を見ていれば、いつか自分もそうなるだろうということくらいは分かっているのだ。


「まぁ、今の俺がそれを言うのは百年早いって言われそうですけどね。でも、約束します。」


「そんなことは思っておりません。一成さんは、絶対に素敵な旦那様になって下さると、私は確信しておりますから。」


「が、頑張ります。絶対に約束を守りますから。」


「はい。では、その日を楽しみにしておりますね…あなた♪」


 どこまでも真っ直ぐな瞳で、俺を優しく見つめてくれる沙羅さん。その眼差しは、決して冗談ではなく本気で俺を信じてくれているのだと感じさせる。

 だからこそ、その期待に応えるためにも俺は…


……………

………


 二人で一緒に寝る為に購入したダブルサイズの布団だったが、こうして実際に敷いてみると改めてその大きさを実感してしまう。

 ベランダに干したときも大きいとは思ったが、こうしてみるとそれ以上に感じるのだ。店の展示品で分かっていた筈なのに、これは部屋の大きさという比較対象があるせいなのだろうか?


 沙羅さんは敷いたばかりの布団の上で、ポンポンと軽く叩きながら感触を確かめていた。とてもご満悦の表情なので、きっと満足できたのだろう。


「一成さん、そろそろお布団に入りませんか?」


「は、はい!?」


 決して疚しいことを考えていた訳ではないのだが、いきなり呼び掛けられて思わず返事がどもってしまった。

 お互いお風呂は入り終わっているが、いつもならテレビを見たりお茶を飲んだりと寛いでいる時間帯だ。今日は一日作業に追われていたので疲れてはいるが、寝るには少し早いというのが正直なところだった。


「ふふ…どうかなさいましたか?」


「だ、大丈夫です。それよりも、まだ寝るには少し早いんじゃ…」


「ええ。まだ早いとは思いますが…横になってお話をしませんか?」


「話ですか?」


「はい。せっかく新しいお布団もありますから。それに…」


「それに?」


「……新しいお布団で、早く一成さんを抱っこさせて下さい…」


「…………」


 て、照れる…そして返事に困る…

 沙羅さんも直球で言うのは少し照れ臭かったようだが、それよりも抱っこの方が優先されたのだろう。迷わずに言い切られてしまったことで、却って返答に困ってしまった。


「わ、わかりました。」


 取り敢えず了承したことだけを伝えると、沙羅さんは嬉しそうに頷いてから、掛け布団を捲って先に布団に入る。

 普段なら何をするにも俺を優先してしまう沙羅さんだけど、布団に入るときだけは先に自分が動くのだ。


 何故なら…


「一成さん、こちらへどうぞ…」


 掛け布団を押し上げながら、俺を迎え入れるように両腕を広げて待っている。沙羅さんが必ず先に布団に入るのは、まさにこの体勢を作る為だった。


「お、お邪魔します…」


 そして俺が最も緊張してしまうのが、こうして自分から抱かれに行く瞬間だ。沙羅さんをあまり待たせるのは申し訳ないといつも思うのだが、だからと言ってふっきれたように堂々と飛び込むなど俺には出来ない。

 緊張感で破裂してしまいそうな気持ちを無理矢理抑え込むと、覚悟を決めてから沙羅さんの腕の間にゆっくりと入り込む。そのまま身体を安定させると、俺の背中に回されていた両腕が閉じて、少し後ろから押し込まれるようにしっかりと抱き寄せられてしまう。


「さ、沙羅さん…」


「落ち着くまで、暫くこうしていましょうね。」


 背中に回した腕を動かしながら、ポン…ポン…と、リズムを刻むように優しく叩いてくれる。沙羅さんは俺の緊張に気付いているので、それが落ち着くまで毎回必ずこうしてくれるのだ。

 やがてこの心地好さに緊張感が抜けてくると、少し身を任せるように余計な力を抜いていく。そして沙羅さんは俺の様子を確認しながら、今度は全身で抱き込むように頭と背中に腕を回してぎゅっと引き寄せてくる。

 その勢いに合わせて、少しだけ甘えるように顔を押し付けてみた。


「一成さん、もっと深くまでどうぞ?」


「!? い、いえ、このくらいで…」


「遠慮はダメです♪」


 ぐいっ…


 後頭部に添えられていた手から軽く押し込むような力が加えられ、結局いつも通りくらいに顔を埋めることになってしまった。


「ふふ…やっぱりこの体勢が一番しっくりきます。落ち着くと言いますか、安定すると言いますか…」


「そ、そうなんですか?」


「はい。抱き心地がいいんですよ。それに、こうすれば…」


 ぐいっ…


 俺を全身で包み込むかのような抱擁に、男としての焦りを一瞬感じて思わず身構えてしまった。でもそれは、頭を撫でられることによる心地好さに落ち着きを取り戻し、そして打ち消されるように消えていく。

 俺が安心感で脱力したことに気付いた沙羅さんは、話をする為か少しだけ抱擁を緩めてくれた。もちろん頭を撫でることは継続してくれているのだが。


「やっと素直になれましたね…一成さんは、本当に恥ずかしがり屋さんです」


 俺の警戒心や強張りを、沙羅さんは恥ずかしくて素直になれないからだと勘違いしているみたいだ。もちろんそれも多分にあるけど、今に関して言えば少し違う。色々な意味で、気持ちを落ち着かせる時間が必要だったというのが正直なところだ。


「それにしても…やはりお布団が違うせいでしょうか? いつもとは抱き心地が違うような気がします。」


「そうなんですか?」


「はい。ですから、それを検証させて下さいね…」


「検証?」


 ぎゅっ…


 少し緩められていた抱擁が、再びしっかりとしたものに戻ってしまった。余すところなく全身を包まれる心地好さと、沙羅さんの柔らかさに蕩けてしまいそうだ。


「やはり気のせいではありませんね。お布団を変えて正解でした。一成さんをもっと強く感じられるようになった気がします。」


「そんなに違いが分かるんですか?」


「はい。お布団の中は、私と一成さん二人だけの世界なんです。誰も、何も間に入ることができません。今の私には、一成さん以外に感じるものはありませんから、変化はハッキリとわかるんですよ。」


 沙羅さんの言っていることは、俺も何となくだがわかるような気がする。確かにこうしていると、布団という限られた空間に閉じ籠り、どこか外界から遮断されている閉鎖空間という感じ方もできる。そしてその中に二人だけとなれば…それは二人だけの世界と呼べるのではないだろうか?


「ですから…大きいお布団にして正解でした。今までよりも深く包まれることで、私達の世界がハッキリと生まれるのです。」


「それは俺もわかるような気がします。それに布団が大きくなったことで、俺達の世界も広がったんですよね。それなら、もう少しゆったりとしても大丈…ぶっ…」


 沙羅さんの話に上手く合わせてみたつもりなのだが、何故か話を打ち切らせるように思いきり押しつけられてしまった。何か変なことを言っただろうか?


「お布団がゆったりしても、一成さんのお休みする場所はここですよ?」


 ゆったりできると言ったことが、もう少し離れようという意味に取られてしまったらしい。そんなつもりで言った訳ではないのだが、毎日これでは沙羅さんが大変だろうと思ったことも事実だ。

 沙羅さん的には、世界が変化しても寝るポジションは変化しないらしい。だからこうして、俺を離すつもりはないとばかりに抱き寄せているのだろう。

 そしていつも通りに、俺の顔はしっかり定位置と呼べる天国にある訳で…

 つまり沙羅さんの言う「ここ」とは「ここ」のことを指しているのでは…それは考え過ぎか。


「はぁ…」


「ふふ…どうされました?」


「いや…嬉しくて…色々とダメになりそうです。」


 心地良さと気持ちよさと天国の感触のトリプルパンチで、思わず本音が口を突いて出てしまった。言ってから「しまった」と思っても後の祭りである。


「私とこうしているときは、遠慮なくダメになって下さいね。責任は私が取りますから。」


「責任ですか?」


「はい。これからも、結婚してからも、ずっとこうしてさしあげます…」


「ははっ…」


 沙羅さんの望みが変わらない限り、これからもずっとこうしていくことは確定なんだろう。俺としても、こんな幸せを毎日感じることが出来るなら願ったり叶ったりだ。

 とは言え、沙羅さんが喜んでくれるとわかっていても、それに甘えすぎるのは男とし てどうなのか…という悩ましさは勿論ある。

 その分他のことで挽回しようといつも心に決めているが…


「なんて…責任などと大袈裟なことを言いましたが、実のところは単純なお話なんですよ。」


「え?」


「結局は…私が一成さんにこうして差し上げたいだけなんです…」


「そ、そうなんですね。」


「はい。ですから、私に甘えて下さい…遠慮をしたら…嫌です…」


 切なそうな、抑えきれない愛しさが溢れてしまっているような…

 そんな沙羅さんの囁き。

 ぎゅっと自身に強く押し付けるように、沙羅さんは腕の力を強める。

 俺はそれに抵抗せずに、されるがままに、沙羅さんの優しさに包まれていく。


 トクン…トクン…


 心臓の鼓動が聞こえるくらいに深く…でも、いつものような緊張も、男としての焦りもまるで感じない。ただただ、沙羅さんの優しさに包まれているような、そんな穏やかな気持ちだ。


「今日…新しい家具が届いて…私達の生活が遂に色付きました。今日という日が、私達の生活の、本当の意味でのスタートなんです…それはとても大切なことなんですよ。だって、このまま将来の結婚生活に至るまで、ここから全てが繋がっていくのですから。」


「………確かに…そうですね。」


「自分の人生で一生残る大切な一日を、他の誰でもない、一成さんと迎えることが出来て本当に嬉しいのです…幸せ…なんです。」


 この生活の上に、次の生活が…そして将来の結婚生活が成り立っていく。繋がっていく。その最初の一歩が始まったのだと、沙羅さんはそう言っているんだ。これが感慨深いと感じない訳がない。

 そしてそんな大切な瞬間を共にする相手が俺で良かったと、幸せだと言ってくれた。俺にとってこんな嬉しいことはない。

 だからこそ俺は、沙羅さんの為に、俺達の未来の為に!


「俺、頑張りますよ! これからの為に、沙羅さんとの生活の為に、先ずは勉強を頑張って、政臣さんとの約束を絶対に果たしてみせます!! 沙羅さんと一緒なら、俺は何だってできます。頑張れます。だから二人で…んむぅ…」


 心に満たされた想いが溢れ出し、俺は言葉が止まらなくなっていた。だからそれに突き動かされるように、夢中で語り始めたものの、俺はそれを最後まで口にすることが出来なかった。

 気が付いたときには、口そのものを沙羅さんに塞がれてしまったからだ。そこで初めて、自分がキスをしているのだと気付かされた。


 そして、俺の視界も感触も、全てが沙羅さん一色になる。


 やがてゆっくりと繋がりが離されていき、俺の目に映る沙羅さんは、幸せに満ち溢れたような微笑みを浮かべていた。

 至近距離で真っ直ぐに見つめ合っても、今の俺には照れ臭さなどの余計な感情は一切生まれてこない。何故なら、俺も同じように心の中が愛しさと幸せだけで満たされているからだ。


「…一成さんのお気持ちが嬉しくて…つい。」


「沙羅さん…」


「二人で一緒に頑張りましょうね。私はお側で支えて行きます…いつでもこうして、癒して差し上げます。私も一成さんの為なら…何だって…」


「ありがとうございます。俺も沙羅さんの為なら…」


 きっと今日という日は、俺達の人生で第二のスタートラインだったのだと思う。

 沙羅さんが言うように、俺もそれを沙羅さんと迎えることができた幸せは、本当に筆舌に尽くしがたい。

 今の自分の想いを忘れずに、沙羅さんの為にも、幸せな未来の為にも、俺は政臣さんとの約束を果たしていくんだ。



----------------------オマケの就寝直前---------------------------


「……一成さん」


 ちゅ…


 頬に感じる沙羅さんの柔らかい唇。実はもうこれで三度目だったり。


「さ、沙羅さん…どうしたんですか?」


「……今日は嬉しかったので…ですから、一成さんのせいです…」


 優しく俺を非難するような、それでいて甘さや切なさを含ませたような…そんな声音で囁く沙羅さん。

 それを耳元で囁かれてしまうと、一気に緊張感が高まってドキドキが加速してしまう。


「愛しております…あなた…」


 ちゅ…


 嬉しいけど…まだ眠れそうにないな…これは。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


非常にお待たせしました…

今回の後書きは近況ノートへ…

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