第243話 薩川家でのひととき
リビングへ上がると、部屋の中はバニラの甘い匂いで満たされていた。勿論アロマや香水などの香りではなく、これはクッキーやケーキといったお菓子を焼いているときの匂いだ。恐らくだけど、真由美さんが何かお茶菓子を用意してくれているのだろう。
俺の定位置となっているソファのそこへ迷わず座ると、沙羅さんもそれを追うように右隣へ腰を下ろした。これも沙羅さんの定位置だ。ちなみに、何故か真由美さんは俺の左隣へ腰を下ろしたが…
「もう少しで焼けるかしら。今日はクッキーを焼いてみたのよ♪」
「あ、やっぱりそうですか。何となくそんな気がしました。」
「んふふ~、一成くんが甘い物を好きで良かったわ。お義母さんも作り甲斐があって楽しいの。」
真由美さんのお菓子作りは趣味だと聞いているが、完成品はもはや趣味のレベルではない。専門店のそれと比べても遜色ないもので、今すぐに販売しても何ら不思議はないくらいだ。
「早くオーブンが届くといいのですが…一成さんが、甘い物をお好きだということをわかっているのに、お菓子を作れないなんて…」
どこか悔しそうにそう零した沙羅さん。
同棲する前はよくお菓子を作ってくれていたので、その腕前はもちろん知っている。真由美さんの直伝だけあって、その実力は勝るとも劣らないと俺は思っているのだ。ただ、やはり作りたてと持ち運びが難しいものは食べたことがないので、そういう意味でもオーブンが欲しかったのだ。
「この前のお買い物で買ったの?」
「はい。一成さんが私の為に、少し大きめのコンベクションオーブンを選んで下さったんです。」
沙羅さんは、「私の為」を強調して嬉しそうに真由美さんへ報告をする。
オーブンがあれば料理の幅も増えると聞いていたので、どちらにしても近い内に買うつもりはあった。なので今回、真由美さんのお陰でかなり良いものが買えたのは本当にありがたい。
ちなみにコンベクションオーブンとは、オーブントースターと電子レンジの両機能を併せ持ったような物だ。普段の料理は勿論のこと、お菓子作りやパンを焼いたりと、幅広く調理ができるらしい。
料理に拘りのある沙羅さんには必需品だと思っていたので、遠慮して手軽な物を選ぼうとしたところを押し止めて、俺が強引に良い物を選ばせたのだ。
「あら、よかったわねぇ。ところで、一成くんもちゃんと自分の物を買った?」
「俺は別にいいですよ。オーブンで沙羅さんが美味しいものを作ってくれるから、結局は自分の為にもなりますし。」
「はい! 一成さんの為に、美味しいお料理やお菓子をいっぱいお作りしますね♪」
こんなに喜んでくれるなら、もっと早く買うべきだったと思わないでもないけど…でも俺の個人的な予算では、本当に手軽なものしか買えなかっただろう。
「一成くんは本当にいい子ねぇ。そういうところもしっかり分かってくれて、沙羅ちゃんは将来安心ね~」
「ふふ…一成さんが素敵な旦那様になって下さるのは、最初からわかっていますから。」
「…………」
二人が盛り上がっているので水は差さないようにしているが、この会話を聞いている俺は非常に照れ臭い。手放しで褒められていることもそうだが、沙羅さんから旦那様と呼ばれることも本当に照れ臭いのだ。
「あら、一成くん照れてるの?」
どうやら真由美さんに気付かれてしまったらしい。イタズラっぽい表情で俺の顔を覗き込んでくる。今はあまりマジマジと見られたくない…
「お母さん、止めて下さい。はい一成さん、こちらへどうぞ。」
俺の頭に腕を回して自身の方へ引き寄せると、そのまま俺の顔を隠すように胸でしっかりと抱きしめてくれる。確かにこれで真由美さんからは逃げられたが、これはこれでどうなんだろうか…
「ちょ、沙羅ちゃんそれはずるいわ。一成くんが見れないじゃないの」
「一成さんは照れ屋さんなんです。恥ずかしがっている一成さんはとても可愛いらしいので、お母さんに見せたくありません。」
「えぇぇ、私だってそれが見たいのにぃ…」
それを言われることが既に恥ずかしいのだ。男が可愛いと言われてもどうなんだろうと思うし、それを見たいと言われたら、ますます見られる訳にはいかないと思ってしまう。最早、羞恥プレイに近いぞ…
そんなことを思っていると、ぎゅ…と俺を抱きしめる力が少しだけ強くなった。
「はい…このままじっとしていて下さいね…大丈夫ですよ、可愛い一成さんは、私だけのものです。母にも、誰にも見せませんから。」
「沙羅ちゃんズルい!!…いいわよ、政臣さんに慰めて貰うから。」
ピピピピ…ピピピピ…
けたたましく鳴り響くアラーム音。
目覚まし時計ではなく、これはタイマーの音だろう。真由美さんがクッキーを焼いている最中だと言ったので、恐らくはそれ用のタイマーだ。
「最初からそうして下さい。ほら、タイマーが鳴ってますよ。」
「はいはい。沙羅ちゃんは本当に独占欲強いわねぇ。」
そこまで言うと、隣で真由美さんが立ち上がる気配があった。大人しくオーブンの様子を見に行ったのだろう。
しかし…真由美さんは色々な意味で凄いというか、どこまでが冗談でどこからが本気なのか本当にわからない。俺をかなり気に入ってくれているのはわかるのだが、例えば俺が甘えたら本当に受け入れてくれそうで、逆に躊躇ってしまうのだ。
「はぁ…全く。では一成さん、母がいなくなりましたので、私に…」
沙羅さんが何を言おうとしているのか、先程までの会話の流れで何となくわかっている。わかっているから羞恥プレイは勘弁して欲しい。大丈夫、沙羅さんは俺が嫌がれば、無理にするような人ではない。それをアピールするように、俺の方から少し抱きついてみた。
「まだ恥ずかしいのですか? ふふ…一成さんは、本当に照れ屋さんですね♪」
沙羅さんはそこまで言うと、ご機嫌な様子で何故か俺の前髪を少し持ち上げた。
何が起きるのかドキドキしてしまう。
「そんな可愛い一成さんには…こうしてしまいます…ん…」
ちゅ…
そのまま額に柔らかい唇の感触。軽く触れるだけのこそばゆい感覚に、俺は思わずくすぐったさを感じて身をよじってしまう。
「ふふ…嬉しいのですか? では、もう一度…ん…」
ちゅ…
沙羅さんの連続攻撃で陥落した俺の顔は、人に見せることなど決して出来ない程にデレデレになっていることは間違いないだろう。これではますます沙羅さんから離れられなくなってしまった。
結局、真由美さんがお茶の支度まで全て終わらせて戻ってくるまで、俺は沙羅さんに文字通りひたすら可愛がられていたのだった。
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政臣さんが帰ってくるまで時間があったので、先に今日の復習をやることにした。
授業内容で、自分の覚えが怪しい部分はノートに必ずチェックしておいて、復習のときに沙羅さんから改めて教えて貰い身に付ける。今までのような付け焼き刃ではなく、普段から頑張ると決めた俺のルーティンだ。
そしてしっかり勉強をすると、沙羅さんから褒めて貰えるというご褒美付きである。
「はい、正解です。他に怪しいところはありますか?」
「大丈夫です。今日はこのくらいですね。」
後は、家に帰ってから自力でもう少しやるだけで大丈夫だろう。
去年は別の理由もあって家でひたすら勉強をする毎日だったが、入学してからは完全に腑抜けてしまっていた。だからこんな風に、もう一度真面目に勉強をする日が来るとは思ってもみなかった。しかも、飴と飴と飴、飴だけで俺に勉強を教えてくれる先生までいるし。
「はい、今日もしっかりお勉強ができましたね。いい子いい子♪」
なでなで…
これはご褒美なので、遠慮せず素直に撫でられていると…
ガチャ
「ただいま、今帰っ………」
帰って来た政臣さんは、こちらを見た瞬間にそのまま固まってしまった。
俺達は特に変なことはしていない筈だ…沙羅さんが笑顔で俺の頭を撫でているだけであり、衝撃映像という程ではない…だよな?
それでは政臣さんの目に映る俺達の姿はどうなっているだろうか?
「は、ははは、あ、相変わらず仲が良いみたいで、良かったよ…うん。」
再起動した政臣さんは、半ば強引に気を取り直したように、若干戸惑った笑顔を浮かべた。そこを突っついても何一つ良いことはないので、俺もこのまま話を合わせることにする。
「おかえりなさい、政臣さん。お邪魔してます。」
「お父さん、お帰りなさい。」
やはり娘からお帰りなさいと言われたことが一番嬉しいのか、今度こそ満面の笑みに変わった。
「うん、今、帰ったよ。」
「お帰りなさい。今日もお疲れ様でした。思ったより早かったですね。」
いつの間にか台所から戻ってきた真由美さんは、そのまま政臣さんに近付くと頬に軽くキスをする。相変わらずの仲睦まじい夫婦に思わず微笑ましさを感じてしまう。俺の両親も仲はいいと思うけど、こんな絵になる夫婦とは流石に比べられないな
「改めて、高梨くんいらっしゃい。」
先程は中途半端になってしまったので、政臣さんは仕切り直しをしてくれたらしい。俺を見ながら、もう一度挨拶をしてくれた。俺もそれに答えようとしたのだが…
「もう…政臣さんったら。可愛い息子が帰ってきたんですよ? それをいらっしゃいだなんて…しかも高梨くんなんて、いつまで他人行儀なんですか? 」
政臣さんの挨拶が気に入らなかったようで、真由美さんが語気を強めて会話に割り込んでしまったのだ。俺としては今まで通りであり、現時点で立場が変化した訳ではないので気にしてはいないけど
「そ、そうか。それじゃあ…一成くん、おかえり。」
政臣さんは、少し言い難そうではあったものの、決して嫌々という訳ではない。寧ろ照れ臭そうに言い直してくれた。政臣さんがお帰りと言ってくれたのだから、ここは俺も合わせるべきだろう。照れ臭さは勿論あるが
「はい、政臣さん、ただいま帰りました。」
「一成くん、政臣さんのことはお義父さんって呼んでいいのよ?」
今度は俺の方にダメ出しが来てしまったようだ。「お義母さん」と同じ感覚で言っているのだろうが、さすがに政臣さんもそれはまだ厳しいだろう。というか俺が無理です…
「その、それはもう少し…」
「お母さん、いい加減にして下さい。ほら、ご飯の支度の続きをしますよ。」
俺の様子を見て、沙羅さんは気を効かせてくれたようだ。真由美さんを強引に引っぱって台所へ向かってしまったので、結局は男二人がポツンと残されることになってしまった。
「ははは、すまないね一成くん。真由美は本当に君のことが気に入っているんだよ。」
「いえ、俺としてもそう思って貰えて嬉しいですよ。」
そのまま政臣さんがソファに座る動作に合わせて、俺も今まで座っていた定位置に腰掛ける。まだテーブルの上に俺の勉強道具が残ったままなので、それを興味深そうに眺めていた。
「勉強をしていたのかな?」
「はい。宿題と復習だけですけどね。進路が決まったんで、これからも頑張りますよ。」
「今の内から頑張ってくれれば、推薦狙いも十分視野に入れられるだろう。期待しているよ。」
俺の返事を聞いた政臣さんは、嬉しそうにうんうんと頷いてくれた。これは勿論自分の為にやっていることではあるが、それでもこうして喜んで貰えると、それはそれで嬉しいものだ。
「そういえば、今日の生徒総会はどうだったかな?」
「沙羅さんの会長就任演説は感動しました。正に生徒会長の風格というか、雰囲気が凄くて全校生徒が聞き入ってましたよ…」
こういうときに、上手く感想が伝えられないということがもどかしい。だから、とにかく感動したということを、身振り手振りを交えながら俺は伝えてみた。
そしてその後も結局話題に困ることはなく、普段の学校生活や家でのことで話題は尽きないまま、気がつけばご飯の時間になっていたのだった…
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和やかな食卓風景に癒されつつも、俺は現在、ローストビーフのサラダを絶賛攻略中である。真由美さんが作ってくれたお手製ローストビーフが絶品で、文字通り箸が止まらない状況だった。
「んふふ~そんなに美味しそうに食べてくれると、お義母さん嬉しいわ~」
「一成さん、こちらもどうぞ…はい、あーん…」
沙羅さんは玉子焼きを箸で掴むと、そのまま俺の口許へ差し出してくれる。
ぱくっ…もぐもぐ
「んむっ…これは沙羅さんが作ったやつですね?」
「ふふ…正解ですよ。」
完全に俺好みの、絶妙な甘さ加減とふわトロ感は、ウチのオカンは勿論のこと、真由美さんでも真似ることは出来ないだろう。だってこれは、沙羅さんが俺の為だけに研究して完成した、俺専用の玉子焼きなのだから。
「…一成くんがそんなに美味しそうに食べていると、私も食べたくなるな。」
政臣さんは俺と違い、甘くない普通の玉子焼きを食べているので気になったらしい。勿論それも沙羅さんが作ったもので、政臣さんは大喜びで食べていたのだ。
「はい、あなた…あーん…」
真由美さんは自分用を切り分けると、そのまま政臣さんの口許へ運んでいく
「…うん、たまには甘い玉子焼きもいいね。」
「沙羅ちゃんが作ったものだからそう言ってるだけでしょう?」
「違うよ、真由美が作ってくれると嬉しいかな」
あちらはあちらでイチャイチャしながら食べているので、俺も遠慮せずに沙羅さんからのお世話を受けているのだ。
よくよく考えてみると、対面でお互いがイチャイチャしながら食べるという妙な食事風景だが、これはこれでありかもしれない。楽しく食事が出来れば一番だ
「そうですか。では今後、お父さんのご飯はお母さんに一任します。私は一成さんのご飯しか作りませんので。」
「え!? い、いや、それはそれだろう。私は沙羅が作ってくれたご飯が」
「あら、でしたら政臣さんのご飯は沙羅ちゃんに一任して、私は一成くんの…」
「結構です。一成さんのご飯を作るのは妻になる私の役目ですから」
「妻!? さ、沙羅、それはまだ気が早いんじゃな…」
「お父さんは黙っていてください」
ガーーーーーン
こちらが気の毒に思えるくらいにガックリと落ち込む政臣さんを見て、俺と真由美さんは思わず笑い声を上げてしまった。
こんな楽しい食事会なら、もう少し多くてもいいかもしれない。でも沙羅さんと二人だけの幸せな食卓は大事だ。我ながら贅沢な悩みだと自分でも思う…
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「沙羅ちゃん、今度の父母参観は私が行くわね。」
「本当は私も行きたかったけど、どうしても仕事がね…」
食後のティータイムを楽しみながら、話題は今週末にある父母参観の話になっていた。沙羅さんの方は真由美さんが来るとのことだったが、やはり本当は政臣さんも来たかったらしい。仕事でどうしても来れないとのことで、頻りに残念だと呟いていた。
ちなみに俺の方は、同じくオカンだけが来ると既に連絡が来ているけど。
「正直、夫婦で来る家はまずないので、こられても私が困りますけど。」
沙羅さんの一言でまたショックを受ける政臣さん。娘親とは、どこの家もこんな感じなんだろうか?
「俺も母親が来るみたいです。」
「はい! 先日、RAINでお義母様から連絡を頂いておりますので。お会いできるのがとても楽しみです…」
沙羅さんがオカンに会いたがっているのは勿論知っているので、どこかで時間を作って会わせてあげたいと考えていた。放課後の懇親会が終わるまで、生徒会室か花壇でで待っていればその後で合流できるだろうか?
「そうそう、一成くんのお母様とは、当日お会いするお話になっているのよ。せっかくだから、懇親会が終わったら皆でお茶でもしましょうか。」
どうやら俺が考えるまでもなく、既に親同士で落ち合う話になっていたらしい。
それならやはり、時間を潰して待っている方がいいだろう。
「わかりました。それまで待ってますね。」
「そうですね。本当に楽しみです!」
俺は正直、父母参観はあまり好きではないのだが、オカンと会えるのを楽しみにしている沙羅さんの為に、早く当日になってあげて欲しいと思わずにはいられなかった。
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