第182話 沙羅の心配事は

「ただいま戻ったよ。」


「お帰りなさいあなた。」


今日は早く終わると聞いていたのだが、いつもより一時間近く早い帰宅だったようだ。

政臣さんが帰宅すると、いつものように真由美さんがスッっと近付き頬に軽めのキスをする。

二人が仲良くしている様子を見ていると…別に羨ましいとかではなく、俺も早く沙羅さんに会いたいという気持ちが湧いてしまう。

あと二日…明日会えるといいのだけれど…


「お疲れさま、高梨くん」


「お疲れさまです、政臣さん」


「あなた、高梨さんの書類整理のお仕事が終わったようですよ。」


「あれ、早かったね。正直あの量だと、期間内では終わらないと思っていたんだけどね。」


「大丈夫だと思いますが、一応確認をお願いします。」


とりあえず先に確認して貰って、手直しが必要なら明日はその作業をやる。

もし必要なければ、他に何か仕事があればいいんだけど…


「わかったよ。それじゃ、晩ご飯まで時間があるから先に確認しようか」


「はい、お願いします」


政臣さんはバッグを真由美さんに預けると振り返り、再び玄関に向かい動き出した。

俺もその後に続いて玄関に向かい、二人で離れに移動する。

離れのドアを開けて、先に上がった政臣さんから「ほぉ〜」と短く呟く声が聞こえた。俺も続けてオフィスに上がると、政臣さんは棚に近付いて上から順にゆっくりと眺めていて、たまにファイルを手にとって中身を確かめている。


「へぇ、かなりしっかりまとめてあるね。うん…この番号はなんだい?」


「それは、関連したものに同じ番号を貼ってあります。必要なときに揃えやすくしておく為と、あとはこの先使った後で、またバラけてしまったときなどに分かりやすいかなと。」


最初にここへ来たときの惨状を考えると、またぐちゃぐちゃになる可能性は十分にある。

どちらかと言えば、また整理が必要になることを見越してやっておいたのだが…


「あぁ、それは本当に助かるよ。どうしても片付けている余裕がなくて、妻に頼むことも多いからね。いや、正直ここまでやってくれるとは思わなかった。本当にありがとう。」


「いえ、自分の方こそ仕事を与えて頂いて助かりました。それでですね、明日なんですけど…」


「うん、明日は大丈夫だよ。ゆっくり休んで…」

「いえ、他に何かありませんか? 半日くらいですけど…」


目を閉じて考えるような素振りを見せた政臣さんが、暫くすると「うん」と頷いて、再び目を開ける。


「仕事という訳じゃないけど、せっかくこの仕事をして貰ったから明日は少し話でもしようか。私の方も仕事が忙しくてあまり時間を取れなかったからね。ところで、部署名とか少し覚えたって言ってたよね?」 


「え、はい。比較的資料が多かった部署なら覚えた感じはありますね。」


「実際全ての部署を把握していなくても、今回高梨くんが扱った書類の部署が主に私が関わっている部署なんだ。つまり、高梨くんはそれをある程度把握してくれたってことなるんだよ。」


なるほど。

別に意識していた訳ではないが、これだけ連日で名前を確認していれば、さすがに覚えてしまう訳で。


「明日は仕事ではないけれど、もし良かったら付き合ってくれないかな? もちろん、予定通りのお給料を渡すからね。」


「すみません、無理を言った形になってしまいました…」


これは仕事ではなく、俺が無理に仕事を欲しがった為に政臣さんが出してくれた話であり、結果的に申し訳ないことになってしまった。


「ん? いやいや、勘違いしないでくれ。そもそも私は、期間内では終わらないつもりの仕事量を出してしまったんだよ? 高梨くんに依頼するときに、全て終わらせて欲しいと言わなかったのはそういう理由だったんだけどね。でも君は私の予想を越えて全て終わらせてくれたのだから、寧ろ私の方が申し訳ないくらいだよ。」


そう言って貰えるのであれば、ありがたく受けさせて貰おう。

俺が頷くと、政臣さんも笑顔で返してくれた。

こうして、実質的には今日で薩川家のアルバイトが終わったのだった。


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「あーあ、楽しかった修学旅行も、残すところあと二日かぁ…」


朝食を食べ終わり、部屋に戻る為に通路を歩いていたところで悠里が不意に呟いた。


「一応まだ二日残ってるんだから、朝っぱらから憂鬱そうな声を出さないでよ」


「でも実際、あと二日って感覚の方が強いよ。何で楽しいことって直ぐに終わっちゃうんだろうね。」


楽しいことが早く終わると感じるのは確かだけどね。

実際、まだ二日あると感じるか、もう二日しかないと感じるかは人それぞれだと思う。

だけど、現在私の横を無言で歩いている沙羅は間違いなく「早く帰りたい」だろう。

昨日の電話後から少し元気がないような…いや、何かを考えているのだろうか…


高梨くんと電話をしている最中は、特に違和感を感じなかったはずだが、電話終了後から少しおかしいような気がするのだ。


「沙羅、何か気になることでもあるの? 昨日の夜は何でもないって言ってたけど、さすがにスルーできなくなってきたよ?」


「うん、薩川さん昨日の夜から少し様子がおかしいよね。」


「高梨くんに会えなくて、寂しいを通り越して辛くなってきたとか?」


「それなら初日からです。」


一応話しは聞いているようで、話しかければ反応するし答えも返してくれる。

だからこそ、昨日の夜は様子見で終わらせたのだが…今日も様子が変わらないとなれば、さすがに問い質さないとこちらとしても気になって仕方ない。


「あはは、薩川さんでもそういう冗談言ってくれるんだね。」


「うん、仲良くなれた感じがして嬉しいかも」


「いえ、別に冗談ではないのですが…」


「「「………」」」


愚問ね。

二人で一緒にいることが自然になりすぎて、お互いに離れられなくなっているのは間違いないと思う。

修学旅行という外部要因に加えて高梨くんの説得がなければ、一週間も離れるようなことを沙羅が好きこのんでする訳がない。

そういう意味では、恐らく初日から寂しい、辛いという沙羅の発言は冗談などではないだろう。


というか、一週間も離れられないって…


もうこの二人は結婚するしか道が残ってないのではないだろうか?

どうせお互いの親も半公認みたいになってるようだし、障害も無いに等しい。

高梨くんがプロポーズすれば沙羅は絶対に受けるだろうから…


……あれ、条件が揃いすぎてない?


「と、とにかく、何か気になってるんだよね?」


「夏海だけじゃなくて私達も気になってるから、相談に乗れることなら乗るよ?」


「というか、高梨くんのことでしょ?」


気を取り直した三人が、先程の会話をなかったものとして話を進める。

高梨くんのことを聞かれた沙羅は、素直にコクリと頷いた。

まぁそれを思い付くのは難しい話ではないのだが…


「……昨日の夜の電話ですが」


どうやら話してくれるつもりはあるようで、沙羅が淡々と語りだした。

やはり昨日の電話で気になることがあったらしい。


「いえ、正確には一昨日辺りから気になっていたのですが、一成さんにお疲れの様子が見れたのです。少し前から夜更かしもされていたようなのですが、疲れとなると、さすがに単なる夜更かしではないのではないかと…」


す、鋭い。

いや、高梨くんの様子の変化に敏感なのは以前からだったが、まさか電話でのやり取りでそれを感じるとは…

端から聞いていた限りでは、高梨くんにそのような変化を感じる要素はなかったように思う。

もちろん私は事情も知っているから(橘くんから追加報告も受けた)、高梨くんがアルバイトで大変な思いをしているのは想像に難くない。疲れていたとしても、不思議でも何でもないのだが…

まぁ、それだけ高梨くんのことをいつも気にかけて、ずっと見てきたのだろう。


「そ、そうなんだ? 私は気にならなかったかなぁ」


「うん、今までと同じような感じだったけど。」


「気のせいだったりしない? もしくは気にしすぎとか…」


沙羅の「一成さんチェックスキル」を知らない人から見れば、気のせい、気にしすぎという感想は至極当然だと思う。

だが、高梨くんに関してのことは、そうではないのだ…


「いえ、残念ながら気のせいではないことを、昨日の電話で確信しました。そうなると、一成さんがお疲れになっているのが気になりまして。」


心配しているということが、表情にありありと浮かんで見える。

私は理由も事情も知っているから何も言えないんだけど…やはり完全に隠し通すのは難しかったわね、高梨くん。


「うーん、でもそのくらいは別に」


「気になるなら問い詰めてみたら?」


悠里がとても余計な一言を放つ。

そんなことをされたら、高梨くんがどこまで隠しきれるのか一気に怪しくなってしまう。

せっかく苦労して頑張っているのだから、私の方からもフォローを…


「…いえ、それはできません。」


「…どうして?」


沙羅は意外にも、問い詰めることに消極的なようだ。そしてこれは私も驚いた。だから思わず、余計とも言える一言をつい声に出してしまったのだ


「一成さんと私は、お互いに隠し事をしないと約束しました。なので私が聞けば、一成さんは答えに困ってしまうかもしれません。」


「確かにそうかもしれないけど、それだと約束の意味が…」


「私は一成さんを信じています。仮に今、何かをしていたとしても、後で必ずそれを教えて下さいます。ですから私は、そのときを待つだけです。」


「「「「…………」」」」


私も含めて全員黙ってしまった。

沙羅の表情は、高梨くんを信じるという揺るぎない決意が見える。

言葉からも「思う」「だろう」といった、不確定的な言葉が一つも出ない。それはつまり、高梨くんを完全に信じているということだ。これは余計なお世話だったかな…


「何というか、凄いねぇ…」


「うん…私の周りで付き合ってるやつらが、子供のおままごとやってるように見えるわ。」


「ホントだね。でもそうなると、薩川さんは何を気にしているの?」


「いえ、一成さんのお体が気になっていたのですよ。お疲れなのはわかっているので、無理をなさらなければ良いのですが…。一成さんは思い切りが良い方なので、一度やると決めたら無理をしてでも頑張ってしまう可能性がありますので。ですからそこが心配なんです…」


なるほど、実に沙羅らしいというか…

秘密にされていることを気にするのではなく、純粋に身体を気遣って心配していただけと。

二人の絆を垣間見てしまった私としては、何としても今回のサプライズ誕生日会を成功させてあげたいと改めて思うのだった。

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