第181話 疲れ
アルバイト生活六日目、土曜日。
ピピピ…ピピピ…
………
ピンポーン…
「はっ!?」
夢の中で部屋のチャイム音を聞いたような、何か忘れているような、ハッキリとしない不安感を感じて思わず飛び起きた。
急速に意識が覚醒していくに従い嫌な予感も増えていく。その原因を確認するために、急いでスマホの画面を確認すると…
もうこんな時間!?
ヤバい、急がないと!!
ここまでギリギリになるほど寝過ごしたことは今までなかった。
昨日も酒屋のアルバイトを時間ギリギリまで行ったのだが、それでも時間的にはいつもと大差はない。
強いて言えば、週末に絡むせいか配達量が普段よりも多いらしく、自ずと準備するお酒の量も多くなって忙しかったくらいだ。
そのせいで疲れたのだろうか?
ピンポーン…
コンコン…
しまった、真由美さん!
真由美さんがお弁当を届けにくる時間であることを失念していた俺は、一旦着替えを後回しにして先に玄関を開けることにした。
…あれ? よく考えたら今日はお弁当が必要ない日だったような?
「いま開けます!」
考えるのは後にして、ドアの向こうで待っているであろう真由美さんに声をかけてから鍵を外す。
ガチャ
鍵が外れた音が鳴ると、ドアノブが回り扉が開いていく。その先には当然、真由美さんが立っていた。
「おはようございます高梨さ……ん?」
俺がまだ着替えも何もしていないことに気付いた真由美さんは、少し首を傾げて不思議そうな表現に変わる。
「あら、今日はまだ支度をしていないのかしら?」
「す、すみません寝坊を…」
俺の答えを聞いた真由美さんは「お邪魔しますね」と断りを入れてから部屋に上がり、袋の中から畳まれている洗濯物を椅子の上に置いていく。昨日預けた洗濯物を持ってきてくれたようだ。
そしてテーブルの上に用意されたパンを見てから時計を確認した。
「残念ですけど、朝食を作る時間は無さそうですね。パンは焼いておきますから、支度を済ませて下さいね」
「すみません、急ぎますから」
俺は支度を優先するために、そちらは真由美さんに任せて着替えを開始した。
脱衣所に移動することも考えたが、そんな悠長なことを言っていられない。
真由美さんも気にしていないようなので、別にいいか…
「ところで今日はどうしたんですか?」
洗濯物を届ける為だけに来たということはないだろうから、何か他に理由があるのかと思い聞いてみた。
「念の為に様子を見に来たんですよ。昨日も少しお疲れの様子だったので。」
「……すみません」
洗面と着替えを急いで済ませ、テーブルに戻るとパンと飲み物が用意されていた。
そのままかじりつくと、様子を見ていた真由美さんが口を開く
「お寝坊さんなんて、かなり疲れてきているのではないですか?」
昨日の作業だけではなく、慣れないアルバイトをいきなり掛け持ちで始めたことで、その反動が来ているのかもしれない…
その可能性も有り得たが、今日を入れて後二日、もう一息なのだから気合いで何とかするだけだ。
「いえ、大丈夫ですよ。昨日の夜が少し遅かっただけですから。」
「……わかりました。学校が終わったら迎えにきますよ。」
「ありがとうございます、宜しくお願いします。」
真由美さんは、何かを言いたそうな素振りを見せたものの、結局それを飲み込んでくれたようだ。
一応は納得した形で受け入れてくれたけど、気付いているのだろうな…
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「……くん、高梨くん?」
少し身体を揺すられている感覚で意識がハッキリすると、俺の目には少し心配そうな表情の藤堂さんが映し出された。
自分では起きていたつもりで、実は寝ていたらしい。
「大丈夫か一成?」
藤堂さんの向こう側には速人の姿があり、同じく少し曇り気味の表情でこちらを見つめている。
辺りを見回せばいつもの花壇だ。
思い返してみると、弁当を食べたところまでは記憶があるが、その後の記憶がない。つまり、そこから寝ていたということになってしまうのか…
ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、昼休み終了の予鈴まで五分といったところだ。
そうだ、急いで水やりを…と花壇に目を向けたところで、明らかに水が撒かれた跡が見てとれた。
それはつまり…
「ごめん、花壇のことまで…」
「ううん、そのくらいの事は任せてくれていいんだよ。それよりも大丈夫?」
どうやら俺をギリギリまで寝かせてくれたようで、片付けまで全て終了しているようだった。悪いことをしてしまった…
「一成、かなり疲れてきているんじゃないか?」
「………正直言って、少し大変かなって思う。」
「高梨くん、大変なら今日はお休みした方がいいよ。お祖父ちゃんには私が…」
「大丈夫。明日で一区切りつくし、午前中だけ働いて終わりだから、午後からゆっくり休めるからさ」
「………うん、わかったよ。」
心配をかけてしまっていることは申し訳ないけど、ここまで来たならもうひと踏ん張りなんだ…
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「これが…これで…っと」
部署ごとに仕分けしたものを、資料の名前で五十音列びにしてからファイリング。それに番号を貼りつける。
そして関連資料のファイルにも同じ番号を貼って、ひと目でわかるように並べておけば、探すときに楽になるはずだ。
幸い棚には余裕があるから、見やすく並べることは難しくない。
よし、この箱は終わりだ。
一度机に持ち上げて…痛っ!?
手のひら…性格には右手の薬指の下に出来ているマメが、箱を持ち上げた際に当たり痛みが走る。
他にもマメになりそうな箇所が二つあるけど…
特に酒屋で重いものを運ぶことが多く、俺の持ち方が悪いのか、気が付いたらマメができていた。
初めての経験であり話としては聞いたこともあったが、実際に体験してみるとこれがそうなのか…といった感じだった。
思ったより痛いのがネックだが、手を使わない訳にはいかないので我慢するしかない。
薩川家でのバイトは明日まで、酒屋のアルバイトも来週で終わるから、もう少しの我慢だ…
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「あれ…終わった?」
目の前の箱の中身が空になり、次の箱を取ろうとして見渡すと、床にあれだけ広がっていた箱が無くなっていた。
それはつまり作業の終わりを示している訳で…
本当に終わったのか、部署名と棚に並んだファイルを確認すると…どうやら全部あるようだ。夢中になっていたので気付かなかったが、やはり終わっていたようだ。
そうなると明日はどうなるのだろう?
半日分とはいえ、予定の収入が減るのは地味に痛いので、もし他にも仕事があるようなら…
コンコン…
ガチャ…
「お疲れさま、高梨さん」
真由美さんが様子見に来てくれたようだ。
そのまま上がってくると、床にあった箱が無くなっていることに気付いたのか、少し驚いた表情を見せた
「あら、ひょっとして全部終わってしまったのかしら?」
「はい、俺も自分で驚いたんですけど、いつの間にか終わってました。」
「まさか、また休憩無しで…」
「……すみません。夢中になっていたというか、自分で気付かなかったというか」
正直に伝えると、「仕方ないわねぇ…」と呟いて、やれやれといった様子を見せたが、お仕置きはされなかった。(されたかった訳ではない)
「まずはお疲れさまでした。本当に頑張ってくれて、ありがとうございます。」
「いえ、俺の方こそありがとうございます。仕事が見つからなくて困っていたので、本気で助かりました。」
お互いにペコペコと頭を下げ合ってから、顔を上げて目が合うと、二人して笑顔が溢れてしまう。
「ははは…」
「うふふ…もう高梨さんったら。あ、そうそう、どうせ休憩していないだろうから、強制的に休ませようと思って連れに来たんですよ。お茶の準備をしてありますから、リビングに来てくださいね。」
「はい、ありがとうございます。」
作業が終わった以上、断る理由もないので素直に受けることにする。
短い間だったけど、毎日仕事をしたこの部屋に来るのもこれで最後かもしれない。
見納めのような気持ちで部屋を眺めると、最初にここへ来たときと違い、今はズラリとファイルの並んだ棚が目に入る。
自分がこれを完成させたのだという達成感のようなものを感じつつ、部屋のドアを閉めた。
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仕事は終わったものの、俺は早くも次の戦いを繰り広げていた。
相手は眠気という名の強敵だ。
リビングのソファに座り、真由美さんが用意してくれたお茶とお菓子を食べていたのだが、ウトウトしてしまう自分に気付き気合いを入れて奮い立たせる。
もともと疲れていたのは事実だが、作業が終わり緊張の糸が切れてしまったのか、張りつめていた何かが緩んでしまったような気がする。
いつも通り何故か隣に座った真由美さんがこちらを見ているようだが、油断すると船を漕いでしまうので、そちらまで気を回す余裕がなかった。
「……高梨さん、倒しますね?」
何を倒すというのか? それを聞く前に俺の身体に真由美さんの手が伸びてきて、あっさりと横倒しにされてしまう。
そして、この状況はどう考えても膝枕だった。
いつもの俺なら直ぐに飛び上がったはずだが、今日は抵抗する気力が出てこない。
それでも何とか身体を起こそうとすると、やんわりと身体を押さえられてしまった。
「まだ暫く時間がありますから、少し寝ていて下さいね。」
「いや、さすがにこれは」
「ダメです。これは休憩しなかったお仕置きの意味もありますから、このまま寝てなさい」
注意されているようで、少しイタズラっぽい雰囲気を含ませながら俺を説得してくる真由美さんに、抗う気力が無くなっていくのが自分でもよくわかる。
「頃合いを見て起こしますから、このまま寝てしまいなさい。夜に沙羅ちゃんとお話するときに疲れているのがバレますよ?」
何故それを知っているのかと一瞬反応してしまったが、結局疑問を問いかける気力もなく意識が微睡んでいく。
「うふふ…懐かしいわね」
どこか遠くでそんな言葉が聞こえたような気がしたが、それも一瞬のことだった…
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「本当に…何と言えばいいのか…」
土下座も辞さないくらいのつもりで謝る俺に、真由美さんはニコニコと笑顔を浮かべている。
「もう、ですから私のことなら気にしないでください。」
疲れ、緊張が途切れた、甘いものを食べた、昼寝の時間帯だった(?)、複数の要因が重なり抗えない眠気に襲われたのは事実だが、まさか沙羅さんのお母さんに膝枕をさせてしまうとは…
目が覚めてから状況を認識していく内に、自分がとんでもないことをやらかしたことに気付いた俺は、先程からソファの上で正座をして謝罪の言葉を繰り返していた。
うう…本当は沙羅さんにも謝りたい…でも謝れない…
「高梨さんを膝枕したのは私の意思ですから、本当に気にしないで下さい。それとも…お義母さんの膝枕はそんなに困るものなんですか?」
「いや、そういう訳では…」
「でしたら、高梨さんも私も大丈夫ということで、何も問題はないですね。」
そうなのか?
いや、仮に真由美さんが大丈夫でも、俺としてはやはり問題がある。
今回はお言葉に甘えるが、今後は本当に気を付けよう。
「それでは…その、ありがとうございました」
「はい、どう致しまして。ふふ、自分の高校時代を思い出して、ちょっと嬉しかったですよ。」
「そうなんですか?」
今の状況で思い出す高校時代となれば、恐らく政臣さんとの思い出のことなのだろう。
真由美さんが先輩、政臣さんが後輩という、今の俺達と同じ構図だったことは聞いている。その頃からこういうことをした経験があったのかもしれないな。
あれ、俺も沙羅さんにしょっちゅう膝枕して貰っているから、そういう意味では似ているのか?
「さて、晩ご飯の支度をしますから、このままゆっくりしていて下さいね。その内あの人も帰ってくると思いますから」
真由美さんが立ち上がり台所へ向かう。
その後ろ姿を眺めながら、二人がどんな高校生活を過ごしたのか、いつか機会があれば聞いてみたい…何となく興味が湧いた俺だった。
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