第172話 仲の良い夫婦
ようやく作業に取りかかることができた俺は、早速書類に書かれている部署名を確認しながら書類を振り分けていく。
同じ部署でも課の名前が違うので、そこを気を付けて仕分けしなければならないのが地味に手間がかかった。
取りあえず生徒会と同じように、まずは大きく分けることから始めよう。
真由美さんが、出際に作業用BGMとしてクラシックを流していってくれたので、実に優雅な労働時間だった(曲名などわからないけど)
机の上の書類が雪崩を起こさないように気を付けながら少しずつ取り分け、その都度用意した部署ごとの仕分け箱に分けていく。
こういう地味な作業は嫌いではないので、ひたすら黙々と作業に集中していた。
そしていつの間にか、時間が経つのを忘れてしまうくらい作業に没頭していたのだった。
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もはや何周目のループなのかわからないBGMを右から左に聞き流し、ひたすら作業に集中していた。
だから俺は、BGMが流れているということもありドアが開いた音に気付かないというミスを犯したのだ。
いつの間にか背後に迫る不穏にも気付かず作業を続け、本棚にある箱に書類を入れてから振り反ると
ふにょん…
何だろう?
顔に柔らかい何かが当たり視界が真っ暗になった。
もう夜になったのか?
いやいや、顔が何かに覆われているだけだろう。
では何に?
「あん、もう高梨さんたら…沙羅ちゃんに言いつけちゃおうかしら?」
その「何か」を確かめようとした俺の耳に、真由美さんの声が入ってくる。
心のアラームが大きく鳴り響き、今の状況が危険であるとそれは激しく告げていた。
「高梨さん、私が来るまで一度も休憩してないでしょう?」
「ま、真由美さん!? いや、俺は…ちゃんと」
もちろん休憩などしていなかった。
…いや、俺は休憩していた、そう思えば心理的にはきっと休憩したことになるのだ(謎)
などとアホなことを考えていた俺を置き去りに、真由美さんの行動はエスカレートしていく。
「あら、嘘までつこうなんて、いけない子ですね。だ、か、ら…」
頭の後ろに回された腕が、俺の頭を完全にロックする。
あ、これはヤバい…
「おしおきです♪」
そこからは…色々な意味の拷問でした…
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「すみませんでした、次からはしっかり休憩を取ります…」
息苦しいやら柔らかいやら、ご褒美なのか拷問なのかよくわからないお仕置きをされてしまった。そして仕事より疲れ果てた俺とは対照的に、とても生き生きしている真由美さんに謝る俺の図。
サボった訳でもないし、真面目に仕事をしていただけなのに、なぜ俺は謝っているのだろうか…
少し理不尽さを感じるが、俺は泣く子と沙羅さんと真由美さんには勝てないらしい
そんなことを考えながら窓の外を見ると、いつの間にか日がかなり落ちている。
時計を確認すれば、既に予定していた就労時間を越えていることに初めて気がついた。
今日は開始が予定より遅かったとはいえ、あっという間に終わってしまった印象だ。
こんなに集中して何かを作業したのは始めてかもしれないな…
俺が床を見ると、同じく床に広がった仕分け箱を見た真由美さんが、少し驚きの表情を見せる。
「あらあら、随分進めているわね。」
「取り合えず部署単位で纏めただけですよ。」
謙遜でも何でもなく、まだ大雑把に仕訳しているだけだ。まだまだ先は長いだろう。
「お手伝いできなくてごめんなさいね、最初に遊びす…お話が長くなって、お家の作業が終わらなかったの」
遊びすぎたって言おうとしたよねこの人?
いや、実際俺は遊ばれていたと自覚しているけどさ
ガチャ…
ドアの開いた音がしたのでそちらを見ると、政臣さんが立っていた。
「ただいま帰ったよ。」
「お帰りなさい、あなた」
真由美さんが笑顔を浮かべて政臣さんに近寄ると、そのまま頬にキスをした。
!?
まさか俺の前でキスをするとは思わなかったが、こういうことが普通にできるというのはそれだけ夫婦仲が良いということなのだろう。
素直に納得できてしまった。
俺が見ていることに気付いた政臣さんが、苦笑を浮かべた
「おっと、すまんね高梨くん。ついいつもの癖で。真由美も、高梨くんがいることがわかっているのだから、いきなりこんなことをしたら驚いてしまうだろう?」
俺に少し謝ってから、真由美さんを軽く嗜める政臣さん。
だがその表情は言葉ほど悪いとは思っていないだろうし、真由美さんにデレているのが直ぐにわかる。
なるほど、目の前でイチャつかれるとはこういう感じなのか…
俺が冷静に考察していると、少し不思議に思ったのか政臣さんが首を傾げた。
「おや、思ったより驚いていないというか、冷静だね? 以前、同僚の前でしてしまったら大層驚かれてしまったのだけれど」
「うふふ、高梨さんは経験あります〜って顔ですね?」
「え!?」
そんな顔は絶対にしていなかったはずなのに、またしても真由美さんがイタズラ心を起こして俺に話を飛ばして来た。
予想していなかった俺は、不意打ちを受けて言葉に詰まってしまう。
「おや、そうなのかい? 高梨くんの彼女さんも高校生だよね? それはそれは…中々に積極的な女性なんだねぇ」
「え…いや、それは…ど、どうなんでしょうか?」
何と言って答えたらいいのかわからなくなり、しどろもどろになってしまう。
真由美さんの、してやったりと言わんばかりの表情が悔しい
「まだ高校生では少し早いような気もするけど、愛されているのはいいことだよ。こういうスキンシップは、二人の良い関係を保つことにも繋がるからね。」
「は、はい。勉強になります…」
俺が内心ひやひやしながら何とか応対しているというのに、真由美さんは政臣さんの後ろで口を防いで笑い声を押さえている。
「いやしかし、本格的に始めてくれたね。」
政臣さんの興味が床に広がる仕訳箱に移ったようで、少しホッとした。
だが、広げすぎてこのままでは足の踏み場がないことにも気付いてしまった。
「す、すみません、仕事の邪魔になってしまいますか?」
「いや、どちらにしても整理が済まないと、ここでの仕事はできないから大丈夫だよ。高梨くんのやり易いようにやってくれていいから。」
良かった。
後先考えずに広げすぎて逆に困らせる所だった。今後はそういう部分も気を付けないといけないな…
「初日でここまでやってくれるとは思わなかったよ。」
「そうですね。私は買い物に出てしまったので、全く手伝えなくて申し訳なかったのですが。」
「おや、では一人でここまでやってくれたのかい?」
普通に作業していただけなのだが、そこまで言われると悪い気はしない。
「学校でこういう作業は何度かしたことあるんですよ。でも今日やってみて、自分が思ったより楽しんでいたというか、この手の作業が嫌いではないみたいです。」
今日一日の感想としてはそんな感じだろう。
政臣さんが嬉しそうに、うんうんと頷いていた。
「君はこういう補助作業は向いているのかもしれないね。」
「そうね。あなたとしては、いつも欲しい人材ではないかしら?」
「ははは。確かに、私の補助を専門に勉強する者は流石にいないから、個人的には助かるけどね。」
会話に混ざるのが難しい話題なので取りあえず黙っていると、それに政臣さんが気付いてくれたらしい。
「勝手に君の話を進めてしまって申し訳ないね。実際私は人事にも絡んでいるから、つい癖でそういう話をしてしまうんだよ。だから気にしないでくれ。」
俺は専務という役職がどういうものなのか全くわかっていないが、人事にも関わるということは多岐にわたるのだろうか?
大変そうだな…
「大丈夫、君の適正はまだまだこれからわかっていくものだ。今はその一つが見つかってラッキーくらいに思っていればいいんだよ。実際に働いてみてからわかることも多いんだから。」
働く…就職。
高校卒業後の進路は全く考えていなかったけど、でもいつかそれを考えるときが来るのは間違いない。
俺は進学なのか就職なのか…そう言えば、沙羅さんはどういう進路を辿りたいと考えているのだろうか?
今までこういう話しは全くしていなかった。
だけど、いつかそういう話をする時間を取る必要があると、俺はこのとき始めて気付かされたのだった。
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「さ、難しいお話はこれくらいにして、高梨さんお疲れさまでした! お茶を用意しますから、リビングでゆっくりして下さいね。一度も休憩しなかったようですから!」
俺が考え込んだ様子を見ていた真由美さんが、その空気を吹き飛ばすくらいの明るい声をあげる。
ついでに、休憩しなかったことをわざとらしく強調するオマケをつけた。
「え? 休憩しなかったのかい? 高梨くん、真面目なことはとても良いことだけど、休憩もしっかり取らないとダメだよ?」
政臣さんが苦笑しながら俺を嗜めるように言うと、それを聞いた真由美さんがニヤりと表情を崩す
「んふふ、それは私も誰かさんに言いたい台詞ですけどね?」
「…いや、集中するとだね」
「は、はい。集中してしまうと、作業に没頭してしまうというか、夢中になってしまったというか」
「そうそう、そうなんだよ。高梨くんもそんな感じなのかい?」
「え、ええ。政臣さんもですか?」
同類というか、何故かお互いをフォローするような流れになってしまった。
真由美さんは俺達のやり取りに笑いが止まらないようで、終始楽しそうな様子だ。
「はいはい、あなた達の言い訳はわかりましたから、ちゃんと休憩して下さいね?」
「「 は、はい… 」」
俺と政臣さんの声が重なる。
俺の話だったのに、なぜか政臣さんまで注意されるという流れになってしまった。
しかしこうして見ていると、この二人は本当に仲が良い夫婦なんだろうということは良くわかる。
でも一つだけ、政臣さんは真由美さんに全く頭が上がらないのではないか?
このとき俺は、漠然とそんな印象を受けていた。
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