第91話 一番嫌なこと

「高梨さん…」


呼ばれた気がして振り返ると、沙羅先輩と夏海先輩が立っていた。


「さらおねぇちゃんだぁ!」


未央ちゃんが嬉しそうにそう言うと、抱っこしている俺の腕の中で身をよじったので、急いで降ろしてあげた。


降りた途端に沙羅先輩に向かって走り飛び付くと、先輩が受け止める。


「お久しぶりですね、未央ちゃん。」


そう言って頭を撫でてあげる先輩だが、表情はハッキリとわかるくらい暗かった。


いや、そもそも先輩のあんな表情を見たことがない。

俺は焦りを覚えて先輩に駆け寄る。


「沙羅先輩、何かあったんですか?」


「…いえ…大丈夫ですよ?」


俺の顔を見たあと、そう言いながらゆっくりと首を振る先輩。

どう見ても大丈夫ではない。俺はますます焦りを覚えた。


「さらおねぇちゃんだっこ!」


もちろん未央ちゃんがそんな空気をわかる訳もなく、沙羅先輩に抱っこを要求した。

今の先輩にそんなことをする余裕があるとは到底思えなかったが、それでも先輩は未央ちゃんを抱っこする。


「未央ちゃんはいい子ですね」


そう言って弱々しい笑顔を浮かべ、未央ちゃんの頭を撫でる沙羅先輩を見ると胸が締め付けられる思いだ。


夏海先輩を見ると、少し何かを考えたような素振りを見せたあと首を横に振った。

わからない、もしくは思い当たる節はあるけどわからない…といったところか。


そうしている内に藤堂さんが近付いてきた。


「いきなりすみません薩川先輩。未央ちゃんと顔見知りだったのですね?」


「……あなたは?」


沙羅先輩が緊張感を感じる声で、藤堂さんに問いかけた。

未央ちゃんも沙羅先輩の様子が何となく気になるのか、不思議そうな表情で見つめている。


「あ、初めまして、一年の藤堂満里奈です。未央ちゃんの従姉妹になります。」


藤堂さんはそう挨拶をすると、沙羅先輩と夏海先輩に向かって頭を下げた。


「…初めまして、薩川沙羅です。」

「夕月夏海です。」


何となく微妙な空気で挨拶する三人。


「…高梨さんとは」


「あ、前に未央ちゃんと遊んでもらったときに初めて会ったんですよ。今日で二回目です。」


藤堂さんも何となく微妙な空気を感じたのか、少しトーンダウンして説明した。


「あ、すみません、そろそろ帰らないと未央ちゃんのお母さんが心配してしまうかもしれません。薩川先輩、ありがとうございました。未央ちゃん、こっちにおいで。」


「うん、さらおねぇちゃんばいばい」


「失礼します。高梨くんもありがとね」


本当かどうかわからない、ひょっとしたら雰囲気を察してくれたのかもしれない藤堂さんが、未央ちゃんを引き取り早々に引き上げてくれた。

これについては今度フォローしておこう。


それより今は沙羅先輩だ。


だが沙羅先輩も、俺に向き直ると頭を下げて


「高梨さん、私も本日は失礼致します。」


そう言って帰ろうとした。

当然引き留めようと思ったが、夏海先輩がゼスチャーで自分に任せろと言ってきた。


沙羅先輩なら、もし言えることであれば言ってくれたはず。

それをしてくれなかったということは、言えない、言いたくないということか…


「沙羅先輩、また明日。」


「はい、また明日」


「じゃあね、高梨くん」


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「沙羅…どうしたの?」


「夏海…私は嫌な女なのでしょうか…」


帰り道、沙羅が突然そんなことを言ってきた。

何をどう考えてそういう疑問に至ったのかわからないが、これは相当悩んでいるであろことはわかる。

今まで嬉しいという気持ちだけで突っ走ってきただろうから、それ以外の感情が入って戸惑っているのだろう。


「んー、聞いてあげるから取りあえず言ってみなさい。」


「私は…高梨さんの隣にいたあの人が嫌だと感じてしまいました。私と高梨さんがしていたことを、あの人と高梨さんが同じようにしていたことが嫌でした。そしてあの人に笑いかける高梨さんを見るのが嫌でした」


そこまで言うと、辛そうな、悲しそうな表情を浮かべて


「最近、高梨さんに声をかける女性が多くなったような気がするんです。私の目の前で親しそうに話しかけられて、笑顔で返して…それを見て苦しくなって、嫌に思えて。

でも一番嫌なのは、大好きな高梨さんを少しでも嫌だと感じてしまった自分なんです。」


沙羅が目に涙を浮かべた。


そっか、もうそんなところまで来ていたんだね…


今までは、高梨くんと仲良くしている女の子がそもそもいなかったせいで、嫉妬を感じることがなかったのだろう。


最近、高梨くんに色々なことを確認したり、触れ合える距離まで近付くことが多かったのは不安を覚えていたからだと私は見ていた。


まだそれが抜けきれていないところに嫉妬が加わって、心が上手く処理できなくなったのだろう。


でもそんな状態で、よくさっき高梨くんに話しかけるとき大人しくしていたなと思う。

沙羅の性格を考えると、あの藤堂さんって女の子に圧力をかけたり排除しようとしても不思議はない。そこは偉かったと思うな。


「そっか。沙羅の気持ちは私もわかるよ…それは恋をすると感じる気持ちだから、怖がらなくて大丈夫だよ。」


沙羅が落ち着くように、ゆっくり丁寧に話を聞かせる。


「あの藤堂さんって子のことも、よく我慢したね。」


「…あの人は未央ちゃんの従姉妹です。高梨さんとも面識があって当然の人です。そんな人にこんな気持ちをぶつけては…」


どうやら理性的に考えることができていたようだ


「…嘘です、違うんです、怖かったんです。そんなことをしたら高梨さんに嫌われてしまいそうで…」


そっか…高梨くんに嫌われたくない一心で我慢したんだね。


今まで独占状態だった高梨くんの周りに他の女性が現れて、初めて不安を覚えて、初めて嫉妬して、それでも高梨くんを優先して我慢してきた。

そして今日の姿を見て…そろそろ限界だろう。


私は沙羅の頭を抱き締めるとゆっくり頭を撫でてあげる。


「沙羅は頑張ったね…高梨くんの為に我慢できたんだよね…偉いよ。」


「辛いです…苦しいです。高梨さんが他の女性と仲良くしている姿を見るたびに嫌な気持ちが溢れて、でもそんなことを言えば高梨さんに迷惑がかかるとわかっているんです。そんな我が儘を言って、高梨さんに嫌われたくない!」


「うん、沙羅が今感じている気持ちはおかしいことじゃないんだよ。大丈夫、その気持ちはちゃんと処理できるようになるから。沙羅の不安な気持ちは、高梨くんが消してくれるから。だから、高梨くんを信じてあげて。」


本当に可愛いなぁ沙羅は。

もし私が男だったら、こんな子絶対に離さないけどね。

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