声がした
棘 慧
声がした
「やぁ、こんばんは」
声がした。
たんが絡んだ、しゃがれた老人の声だった。
「え……」
声を漏らし、彼は辺りを見渡したが、やがて首を捻った。
やはり、ここにいるのは自分一人だった。
空耳か?とも思ったが、いや、やはりそうではない。
なにものであるかは気になったが、やはりそこは礼儀として、彼はささやいた。
「……こんばんは?」
笑いを噛み下したように、声は応えた。
「はい、こんばんは」
彼は幾ばくかためらったあげく、気を配った口調でたずねた。
「あなたは誰ですか?」
声は、溜息をつくように返ってきた。
「何者であるかなど、それほど気にすることかね?」
「えと……それじゃあ、名前を教えてください」
「姿形が不要ならば、名など、なおさら不要なもの。今、お主と私がこうして話していること、それが最も、この場において、大事なことだ」
「……あなたのお話は、少し難しいです」
「いや、とてもシンプルなことさ」
彼は再び首を捻ったが、ひとまず、声の主のことを「おじいさん」と呼ぶことにした。
「おじいさんは、こんな夜更けに、僕にどんな御用ですか?」
「なに、ただの世間話さ。どうも、ようやっと声が届いたようなのでな。老いぼれの話に付き合ってはくれぬか?」
さて、どうしようか?
彼は一人で夜を過ごしていた。
おじいさんと話が合うのか、いささか不安ではあるが、一人でぼんやり時を過ごすのは、ちょうどつまらないと思っていたところだ。
彼はすぐに答えた。
「ええ、いいですよ」
「そうか、ありがとう」
「それで、何の話をしましょう?」
「君はどんな話がしたい?老いぼれはどんな話でも嬉しいものさ」
彼は少し悩んだ。
ああ言って会話は流れてしまったが、やはりどうしても、おじいさんの姿形が気になって、仕方なかった。
そこで、妙案が浮かんだ。
「それじゃあ、会話をしながら、一つ、ゲームをしましょう」
おじいさんは声を弾ませ、たずねた。
「ほう、それはいったいどんなものだね?」
「僕がおじいさんに質問をしていきますから、おじいさんはそれに答えていってください。嘘を言ってはダメですよ。
そして、夜明けまでに、僕がおじいさんの正体を当てられたら僕の勝ち。
当てられないまま夜明けが来てしまったら、おじいさんの勝ちとしましょう。
どうです?簡単なゲームでしょう?」
おじいさんは閉口し、やや思案していたようだが、ゆっくりと答えた。
「確かに、私はああ言ったが、人によって、何に重きを置くかは異なるもの。
どれ、それではそのゲームをしてみようじゃないか」
彼は笑みを浮かべ、質問を始めた。
「それじゃあ、おじいさんは、僕と同じ世界にいる人ですか?」
おじいさんは深く唸った。
「ふーむ……なんとも、難しい質問から始まったな。そうだな、人ではないが、お主と同じ世界にいるぞ」
「僕と似た姿形をしている?」
「またまた難しい質問じゃな。そうだな、姿形はぴたりと同じではないが、似ているところもあるかもな」
「おじいさんは生きていますか?」
「ああ、生きておる。だから、このまま生きつづけたら、いずれ死を迎えるだろう」
「おじいさんは本当に『おじいさん』?」
「ああ、お主が想像もできぬほど長く生きておる」
「おじいさんはいつもこうやって、誰かと会話をしているの?」
「いつもではないが、お主が初めてではないな。私の声が届いたものとは、こうやってひと時の会話を楽しんでおる」
「いつも夜更けに会話するんですか?」
「……そうだな、思えば夜更けにしかしたことがないな」
「おじいさんはどうやって僕に話しかけているんですか?」
「どうやってと聞かれてもなぁ……ただ、普通に呼びかけているとしか答えられんな」
「おじいさんの声はたまにしか届かないんですか?」
「不思議とそうだな。だから、いつも寂しい思いをしておる」
「おじいさんはどこにいるんですか?」
「どこ、とは答えられんが、お主の近くで話しかけているぞ」
彼は驚き、再び、キョロキョロと辺りを見渡した。しかし、それらしき姿はない。
「すぐ近くにいるんですか?」
「ああ」
「僕が目線を動かした時だけ隠れていませんか?」
「隠れていないよ。ずぅっとここにおる」
彼は仕切りに目線を散らしたが、やはり、どうしても見つけられなかった。
「嘘をついていませんか?」
「ついていないよ。君がそう言ったんじゃないか」
「……実はもう見えていたりします?」
おじいさんは閉口し、やがて、感心したように答えた。
「よくその質問にたどり着いたな。ああ、お主の目に、私の姿はすでに映っているよ」
彼は息を大きく吐き出した。
そうか、全てを理解した。
彼は窓の外に目をやった。
真っ黒な闇がベールのように、景色を覆っているが、その闇を跳ね除けるように、仄白く光るものがあった。
今、自分のいる階は4階であるが、それはこの窓から見ると、1番綺麗にみえる。
ついに、彼は答えにたどり着いた。
「なるほど……全てがわかりました」
「ほう?」
「僕は本当に、もう死んでしまうようですね」
「……そうなのかい?」
「ええ、自分のことは自分がよくわかっています」
おじいさんは特に何も言わなかったので、彼はそのまま話し続けた。
「あなたは桜の木ではないですか?」
彼がそうたずねると、おじいさんは楽しそうに笑い、気を良くした調子で答えた。
「ああ、そうさ」
同じ世界に存在し、想像もつかないほど長く生き、すぐそばにいて、もうすでに目で捕らえている……
それは、窓の外の桜の木、ただ一つに限られた。
おじいさんは感心したように呟いた。
「もっと時間がかかると思っていたが、思っていたよりもずっと早く、正体を暴かれてしまったな」
彼は得意げに言った。
夜明けはまだまだ先だ。
「最後の質問に至った、僕の勝利ですね」
「ああ、私の負けのようだな。なに、久々になかなか楽しいやりとりだったな」
彼は得意げに笑っていたが、一変して、虚な声をあげた。
「あなたの声が聞こえたのも、僕がもうすぐ死んでしまうからなのでしょう」
「おそらくそうだな。皆、そうであった」
彼は少しだけ微笑み、そして、穏やかにつぶやいた。
「楽しい会話でした。どうもありがとう。暗い夜を1人で過ごさずに済んでよかった」
「こちらこそ、楽しいひと時をどうもありがとう」
桜の木がそう言うと、沈黙が流れた。
やがて、桜の木がゆっくり口を開いた。
「全てがわかったと言っておったがな、お主はおそらく、全てはわかっていないだろう」
しかし、その声に答えるものはいなかった。
桜の木はつまらなそうに呟いた。
「逝ってしまったか……
なぜ、皆、同じ問いをし、私がああ言えば、同じことをしようとするのだろうか?
こうやって、同じゲームばかりをしていてはつまらない。
いや、しかし、今回のは少し予想外だったな。まさか、こんなに早くに負けてしまうとは思わなかった。
さて、次に会話ができるのはいつになるのだろうか……」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「清原さん」
美しい女性が笑みを浮かべ、部屋に入ってきた。
「ああ……君か、迎えに来てくれたのかい?」
「ええ、だって、今日はあなたの退院日でしょう?迎えに来ますよ」
「退院、といっても、少しばかり、足の骨を折っていただけだったがな」
清原がそう言って笑うと、彼女は口元に優しく笑みを浮かべた。
「あら?」
何かに気がついたのか、目を丸くすると、彼女は声を漏らした。
彼女の目線は、ベッドの横の窓へと向かっている。
「その鉢植えの花。枯れてしまったのね」
清原は彼女が指差した鉢植えに目をやった。
そして、決まり悪そうな口調で言った。
「ああ、入院生活の初めに、君がせっかく持ってきてくれたものだったのに、枯らしてしまった。
水は欠かさずやっていたのだが……すまない」
彼女は微笑み、首を振った。
「いいえ、気にしないで。足の骨を折ったといっても、それほど長い入院だったということよ。
さぁ、何か美味しいものでも食べてから帰りましょう。
病院の質素なご飯には飽きてしまったでしょう?」
声がした 棘 慧 @b-dash
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