11 それから

 三月の日差しは暖かいけれど、気まぐれに意地の悪い風が体温を奪おうと吹き付ける。


 もう来る気なんかなかった高校の前に私は立っていた。


 大学は県外だから、今を逃したらきっと来られない。物理的な距離ではなく、私の心の距離の問題。


 クラス会は楽しかった。普段真面目な子が思ったよりはじけていたり、普段いい加減な子が飲み物の注文に関してはマメだったり。和気藹々と、盛り上がっていたと思う。


 澤田君とはあれきり目も合わなかった。それを私がせかされているように感じたのは、彼の話が胸に刺さっていたからだ。


ーーただの怠慢だよ。


 その通りだ。私は煩わしさから逃れたかった。逃れて何を得たのかといえば胸に穴があくような寂寥感、ただそれだけ。


 声を聞いてみたかった。言葉を交わしたときに、どんな風に答えるのか知りたかった。どんなものが好きで、どんなものが嫌いで。


 私も同じ。先生のことが知りたかった。窓枠の中に切り取られた一部分だけではなく、先生の全てを知りたかった、今も知りたいと思っている。


 生徒のいない校舎内は静かでひんやりとしていて、まるで別世界のようだった。


 祈るような気持ちで数学教務室の前に立つ。


 春休み中だし、授業がないのだからここにはいない可能性が高い。わかってはいるけれど、私が来るべきなのはやはりここのような気がしていた。会えなかったら会えないで、それはもう仕方がないと割り切るしかない。


 緊張で温度をなくした手を握り、ノックを二回。胸が激しく鳴り響く。喉の奥から心臓が飛び出してきそうというなんて表現もあるけれど、まさしくそんな感じだった。何かがつっかえているような感覚。


 しばらく待っても返事はなかった。諦めろということだろう。私はきびすを返し、かけた。


「佐倉ぁ、おまえなんていうか、こうもう少し、粘りってもんがないのか」


 教務室から出てきたのはニヤニヤと笑う浅野先生。


「まぁいいや。何だ、俺に会いに来たか。卒業して寂しくなったんだろ」


「……はい」


「おざなりな返事しやがって。今めんどくせぇと思ったな? お前のそういうところが駄目なんだよ」


 言いながら教務室の扉を大きく開く。


「目当てはこっちだろうが」


 部屋の一番奥、窓際の席には驚いた顔をした市井先生の姿があった。


 私にクギを刺した張本人が一体何を言っているのだろう。


 意図が分からずに先生達を交互に見る私の頭に浅野先生は笑いながら軽くげんこつを落とす。


「あんま難しく考えるなよ。佐倉は考えすぎだ」


「でも」


「本音と建て前とか、しがらみとか。俺の場合はサラリーマンの悲哀か? 何にせよ言ったことが本心とはかぎらねぇだろ。迷ったらちゃんとぶつかって玉砕してみろ」


 わざわざ卒業式前に説教なんて俺だってしたかねぇよ。


 そう笑って浅野先生は教務室を後にした。残された私は中に入るタイミングを失って、その場で立ち尽くす。


「佐倉さん、入りませんか」


 席から動かないまま市井先生が呼んだ。中に入り、ドアをどうするか考える。閉めてしまったら、いかにも怪しい。


「閉めてください。浅野先生は一時間くらい席を外されるそうですから」 


「はい」


 言われたとおりドアを閉めて市井先生に向き直る。そのその背中越し、斜め向かいに図書室の窓が見えた。私がいつも座っていた場所も、はっきりと。


 市井先生が立ち上がり、その場で本棚を見上げた。


「佐倉さんには、結構恥ずかしいところを見られていましたね」


 思い出す、先生のあの時のばつの悪そうな顔。そう、あれがきっかけだった。


「今日はどうしたんですか」


 再び腰を下ろして低い位置から私を見上げる。初めて見る角度。足を大きく開いて背を丸め、はぁ、と大げさなため息をついた先生に私は何も言えなかった。


 当然と言えば当然のこと。だって私は拒絶した。二度も先生を突っぱねた。先生の為、私の為。そんな風に言い訳して、自分の気持ちにも蓋をした。


「佐倉さん、言ってください。君の口から、君の思っていることを僕自身が聞きたいんです」


 言ってもいいのかな。今更って思われないかな。笑われてしまうかも。


 ここまで来たくせに往生際の悪い私はまた言葉に詰まってしまう。


 先生、好きです。


 たった一言だけでいいのに。


「佐倉さんが僕のこと見ていたの知っていました」


 下を向いたままの先生がぽつりと言う。


「だから自惚れたんです。君に好かれているんじゃないかと。だから行ったんです。あの日図書室に、君と話をするために」


 再び見上げたその瞳には、先ほどよりずっと強い光が宿っていた。


「僕は教師と生徒の距離じゃなく、人と人との距離で君といたいんです」


 あの日、触れてほしいと思った指。それが私に延びてきて、けれども届くより先に、私の手が先生の頬を包み込んだ。


「こうして欲しかったし、こうしたかったです」


 先生が大きく息をつき、驚きで止まった指の動きを再開する。私と先生は、お互いの頬を柔らかく包み合った。


「僕も、です」


 先生が優しく引き寄せる。顔の距離が縮まっていく。あ、キスされる。そう思ったときしゃっと何かが流れるような音を聞いた。


 至近距離にある先生の顔。微笑みながら僅かに暗くなった教務室で唇を合わせる。そっと、本当に微かに触れただけのキス。


「図書室から見えてしまいますから」


 ゆっくりと離れた先生は真っ赤になってそう言った。私も、負けずに真っ赤になっていたし、頭の中はぐちゃぐちゃだった。何かを言うべきなのだろうかと焦り、考えて、けれども結局目線を落として逃げる事しかできなかった。そこに、低く紡がれる言葉。


「世間体を乗り越えたいと思えるような恋愛、してもらえますか」


 笑みがこぼれる。この気持ちが彩の言っていたような熱烈な感情からくるものなのかは自分でも分からない。けれど今の素直な気持ちを言葉にするのなら、もちろんこう答える。


「先生となら」


 先生は笑って、私の頭をそっと撫でた。




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ループエンド 麻城すず @suzuasa

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