10 過去の話
***
駅前には澤田君がいた。たまたまかと思ったけれど、こちらを見て「やっと来た」というところを見ると私を待っていたらしい。
「一緒に行かない?」
正直そんな気分ではなかった。もう少し一人で後悔を噛みしめるべきなのではないかと思ったから。けれども今からクラス会だ。今後会う機会の減るクラスメイトの前で暗い顔を見せるよりは澤田君の前で出し切ってしまう方がましな気がする。
「佐倉さん、俺前から聞きたいことがあったんだけど」
「うん」
「あの噂本当だよね」
「ううん」
「市井先生のこと、ずっと見ていたんでしょ」
「……そんなこと、ないよ」
「嘘つくとき、絶対耳触るよね」
無意識にしていた仕草に気づかされる。耳、というかピアスホールを引っ張るのは確かに癖。その窪みに触れているとなんとなく落ち着く気がする。
「俺、佐倉さんのこと見てたからすぐ分かったよ」
「そう……」
澤田君は出席番号が一つ違いだったから、何かにつけ一緒に行動する機会が多かった。高校の入学式からずっと同じクラスだったし、他のクラスメイトよりは密な付き合いだ。
「世間体、乗り越えられない?」
「うん」
「保守的だね」
「いいの」
「ぜんっぜん変わらない」
「どうせね」
澤田君は呆れているんだろう。半年付き合った彼と別れたときと同じようなことを今また繰り返している私に。
定期を自動改札機に通し、長い階段を上ってホームに向かう。
「佐倉さんさ、俺と別れたときもそんな感じだった」
「そうだっけ」
「うん」
淡々と話す澤田君には、私と別れたことに対する未練はもうない。同じように私にもない。私たちは今とても良い友人関係を築けているのだと思う。
「なんかさ、自己完結するんだよね。いっつも。俺と付き合っているときも、水野に気ばっか使ってた」
水野さんは澤田君の幼なじみだった。ずっと彼のことが好きだったことは見ていてわかった。先に気づいていたら、きっと澤田君とは付き合わなかった。彼はとてもいい人だし、私はもちろん彼のことが好きだったけれど、水野さんは本当にいつも一生懸命で、なんだか私なんかが澤田君を縛り続けてはいけないと思ってしまった。
別れた後は少し泣いたけれど、その後澤田君と水野さんが付き合いだしたと知ったときには、不思議に安堵感のようなものに包まれた。あるべきところに収まったという安心を感じられたから、私から澤田君へのままごとのような恋愛感情には蓋をした。それは後悔していない。
今回も似たようなもの。卒業する私は何を言われても大したことないけれど、まだあの場所で過ごさなければならない先生にとって、一過性の熱は必要ない。
「先生とちゃんと話した?」
「話すことなんてないよ。だって私たちが二人きりになったのって噂の原因のあの日だけなんだもの。あの時、初めて話したの。内容だって全然たいしたことないし。先生は地図を取りに来ただけで、別に実のある会話をしていたわけでもないし」
「本当に?」
「うん」
澤田君と二人、ホームに風を立ててやってきた電車に乗りこむ。帰宅時間帯のラッシュで私たちの距離は、久しぶりに随分と近いものになっていた。
「佐倉さん、俺があの時図書室にいたって言ったらどうする?」
「あのとき?」
吐息の触れあう距離はさほど気にならない。それは別れ方が互いにそれなりの納得を持ってのものだったからなのだと思う。嫌いになって別れたのではないから、不快感も感じない。
「二人が図書室にいた日。図書室の扉を開けたのは俺だった」
思いも寄らなかった告白に驚いて私は澤田君をまじまじと眺めてしまった。頭一つ分上にあるものは淡々とした表情のみで、本当か嘘かの区別がつかない。
「澤田君が噂を流したの?」
図書室の扉から書庫を見たときに私は後ろ姿だったけれど、先生は正面を向いていた。頬に触れたあの時。縮まってしまった距離。そのせいで噂では私と先生がキスをしていたという話になっていた。
「違う。それは多分俺の後から来た女の子たちだと思う。一年だと思うけれど、わっと来て先生の姿が見えた途端わっと帰っていったから」
「そっか……」
噂は一気に広がった訳ではなかった。すでにあの日から半年以上経っている。正直今更、という気はしていた。一年生から広まったのなら、私たちの学年、その教師たちまでが耳にするのに時間がかかったのも頷ける。
あれ以来私の足は図書室から遠のいていた。エスケープの回数は今更減らすのも変な気がして変わらなかったけれど、運動部でないとはいえ、すでに引退していてもおかしくない部活にもすっぱりと関わるのを止めた。
先生は私に触れようとして、けれども止めた。私にとってはそれがすべての答えだった。
固執したって仕方のないこと。今まで通り見つめ続けても私には何の得もない。改めて自覚した気持ちにじわじわと押しつぶされて身動きが取れなくなって、多分それで終わってしまう。先生にしても、きっと再び目を合わせることを快くは思わないだろう。私はそう考えた。
一過性の熱なんて、見て見ぬ振りを貫きさえすればそれ以上に上がりはしない。
実際澤田君との別れだって、私はそうやってやり過ごした。
「佐倉さん、知ってた?」
ちょうど電車がカーブに差し掛かって手すりに掴まっていたものの、横からの加重によって私は足を取られふらりとよろけた。そこを澤田君がタイミング良く支えてくれる。
「俺ね、佐倉さんと別れたこと、結構後悔してるんだけど」
腕に添えられた手に力が込められたことを感じた。見上げると頬がほんのり赤く染まっている。
「こんな場所で言うとか、あり得ないんだけど。でも言っておかないときっとわかってないだろうと思って」
「うん」
全く思いも寄らなかった告白に私は間の抜けた返事を返した。
「その反応」
苦笑をしながら手を離す。もうすぐ駅だ。徐々に電車のスピードは緩んでいく。支えは必要ない。
水野さんの気持ちを知ったのは付き合い初めて間もない頃だった。私の元に直接、かなり思い詰めた様子で本人が言いにきた。
「澤田君のこと、ずっと好きだったの。ただ、私に告白して今の関係を壊しても構わないと思えるだけの勇気がなかっただけ」
困惑をする私に構わず彼女は続けた。
「澤田君が佐倉さんのこと好きだったのは知っていたの。でも佐倉さんを見ている限り澤田君のことを好きだとは思えない。澤田君だってきっと気づいているよ」
そんなこと言われても、私にはどうしようもない。
「せっかくつき合えても相手が自分を好きになってくれないなんて、澤田君かわいそう。澤田君責任感が強いから佐倉さんの気持ちがないって分かっても自分からは別れられないのよ」
憶測で自己完結する彼女にとって、私は酷い悪女のようだった。
「お願いだから、澤田君と別れてあげて。好きになってあげられないなら、一緒にいても意味がないでしょう?」
根拠のない理由をあげ連ねたあげく、泣かれてしまった。私には、それにあらがう気力がなかった。
元々クラスと部活が同じだった私たちは結構仲が良かったほうだと思う。澤田君の告白から始まったつき合いだったけれど、私だってそれなりに彼のことが気になっていた。決して無感動に受け入れたわけではない。
けれども水野さんの言葉を聞いて、そうなのかと思った。私は澤田君のことを好きだと思っているけれど、水野さんのように形振り構わないくらいでなければ、本当の好きじゃないのかもしれない。
二人でいることが楽しかったのに、急に憂鬱になってしまった。私のことをそんな風に見る人がいること。この程度の好きで人を縛ってしまっていること。
あの時の私はそれだけで飽和状態になってしまった。どうすればいいのかわからなくて、結局一番楽な道を選んだ。
別れを切り出すとき、澤田君には何も言わなかった。
「付き合ってみたけれど、なんかちょっと違ってたみたい」
笑いながら努めて軽く告げた。澤田君も「そう」と一言だけで追求もしてこなかった。だからやっぱり違っていたのだと改めて認識した。私は、私たちは恋愛をしていたのではなかったのだと。
「……俺、告白も付き合うのも初めてだったから、しつこくしたら嫌われるんじゃないかって思ってた。正直に言うと、別れたいって言われたとき頭の中が真っ白になって言葉が出なかったって言うのもあるんだけど」
電車を降りてホームを歩き、階段に差し掛かろうとしたときに再び腕をとられた。先ほどの電車の中とは違って少し乱暴だった。
「何で振られたのかわからなかったけど水野から聞いた。俺はあの時手を離すべきじゃなかったって分かったんだ。あの時手を離したから佐倉さんは繰り返してる」
「繰り返し……?」
「うん、先生とのこと」
「そんなことないよ」
「あるよ。俺わかっちゃったんだ」
腕にあった澤田君の温度がゆっくりと下がってくる。指までたどり着いて、そして絡まる。手のひらが暖かい。別れて以来初めて手をつなぐ。あの頃は単純に嬉しかったけれど、今は少し違った。学校に近い。集合場所を目指すクラスメイト数人とすれ違う。恥ずかしいし、気まずい。けれども離したら澤田君は気分を害するのではないだろうか。
「離したいのに離せない? それは相手を思いやってるのとは違う。ただの怠慢だよ」
見上げた先にあるのは特に表情の変わらない澤田君の顔。
「あの時、水野の言葉を受け入れたのは、俺の気持ちを確認することを怠った佐倉さんの怠慢。それから理解がある振りをして格好つけた俺の失敗」
するりと、名残を惜しむ様子もなく手は離れた。分け与えられていた温度はあっと言う間に消えていく。
「ちゃんと、好きだった。別れた後も目で追って、次の恋の始まりを本人より先に気づいてしまうくらいに」
「恋愛は自分と相手がちゃんと向き合うことから始まるんだよ。しがらみなんか後から考えればいい。俺は……」
そこで言葉を区切る。小さく目を動かして意を決したように放たれた言葉はゆっくりと小さな子に言い聞かせるように丁寧に発される。
「佐倉さんと向き合えなかったこと、後悔している」
私には答えられなかった。澤田君じゃなく、私が悪かったのだから。水野さんの言葉にすっかり負けて、澤田君の気持ちをおざなりにした。私自身の気持ちも。
「私も、だ」
はは、と力ない笑いがこぼれる。今更言っても仕方のないこと。それでも今言ってくれる、その気持ちがとても嬉しい。嬉しくて、そして悲しい。
「さて、と。俺は言いたいこと言ってすっきりしたし先に行くね」
改札を出て手を振る綾を見つけた。澤田君も友達の姿を認め、そのまま歩調を早める。私たちはきっと、もうこうして話すこともないのだろうと思う。少し寂しい。
先生とも、こんな風になるんだろう。卒業生として私から会いに行くならともかく。でもそれはきっとない。
図書室に行かなくなって半年。寂寥感とはうまく付き合ってこれたと思う。同じ空気を吸うことがなければきっと、これは薄れ、いずれ消える感情だ。
澤田君といたことに綾は触れない。彼女は明快で、しかし思慮深い。聞かれたくないことをちゃんと分かってくれている。
「二次会カラオケ! あたし今練習中のがあってさー」
まだ何も始まっていないのにもう二次会に意識が飛んでいるらしい綾に当たり障りなく会話を合わせて、私は先ほどの先生の姿を思いめぐらす。
触れてもらえなかったから何?
先生はちゃんと言ってくれた。好きだとか、そんな言葉じゃなくてもちゃんと伝わる言葉で誠心誠意。
じゃあ私は?
確かに繰り返している。
あの日、先生が触れてくれなかったこと、教師と生徒の距離じゃないなんて言葉、それから浅野先生からの指導、自分以外のいろんな物を言い訳にして、確かめること、乗り越えること、そんな煩わしさから逃げようとしている。
私は、どうしたいんだろう。
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