まさか、貴様が……いや、必然か?

惜帝竜王と夢の盾

理想と現実の果てに

 天正10年4月9日、朝靄の立ち込める甲府。

 織田信長は、大敵である武田家を討ち滅ぼし、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄の居城跡に立ち寄り、翌日には甲府を出立する予定であった矢先の出来事であった。


 誰もがまさかと思った。

 誰もが武田家の残党の悪あがきだと信じたかった。

 しかし、信長の寝所に踏み込んできたのは、明智光秀とその手勢だったのである。燃え盛る炎と周囲の混乱がよくわかる喚声があちらこちらから聞こえてくる。


「見事よの、光秀。流石の俺もこの時この場所だとは思いもせなんだわ。聞くまでもないかもしれぬが、聞いておかねば気が気でならぬ」

「我が君の問いなれば、何なりと」

「ふははははは、この期に及んで我が君か。まあ、良い。この度の仕儀は、諏訪が始まりか?」


 信長は自身の短気は理解しているが故に聞かざるを得ない。長所にして短所である自身の感情の発露とその即断は年と共に激しさを増していたのだから。しかし、聞かれた光秀はかぶりを振る。


[そうではございませぬ。我が君の気性はよく存じておりますし、自身の少々言葉足りず功を主張してしまった事は紛れもない事実。その事に対して何の遺恨がありましょうや。織田家に――否、我が君に忠誠を誓う身であれば誰しもがそう答えることでしょう」


 光秀の言葉に驚きを隠せない信長。光秀を重用してきたのは朝廷との繋がりもあったが、その頭脳と忍耐力、判断力を買っていたのだ。だからこそ、信長は光秀の忍耐力が限界を迎えた。自身が読み間違えた。もしくは、光秀の判断において、信長が信長として駄目になったと思ったのだ。そんな信長に答えを突きつける人物が入って来たのに気が付く。


「親父殿、珍しく混乱しているようですが、単純な話なのですよ。子が親を超えた。ただそれだけなのです」


 現れたのは信長の嫡男であり、つい先日に天下の後継者と名指しした織田信忠であった。光秀は、信忠の指示により信長の寝所を急襲した。そう言う事である。


「……光秀、真実であるか?」

「……」


 信長は確かに驚いてはいた。だが、それは信忠の親殺しに対してではない。光秀が信忠を評価、それも自身よりも評価しているということにである。信長も信忠の才能は認めてはいた。だからこその後継者指名であり、他の子らよりは上の器量だとも思ってはいた。しかし、それは織田家臣団がしっかりと支えた上での事であり、此度の仕儀が自身の死後にどう情報操作しようが織田家が割れるのは必至であり、そうなっては信忠程度では勝ち残ったとしても現在の織田家を御しきれることなどあり得ないのは火を見るよりも明らかだ。それを光秀とあろう者が、気が付かない訳がない。


「答えよ、光秀。この首をくれてやるが、その対価が愚にも付かぬことならば末代までの恥と知れ!!」

 

 裂帛の気合と共に抜き打ちに信忠に斬りかかる信長。その動作は幾多の戦場を駆け抜けた猛将に相応しいものであり、敵の首を討ち取ってもいないのに勝ち誇っていた信忠に反応出来る筈もなく、その頭蓋を断ち切られた。


「ほれ、ほんの少し先も読めぬ愚息はこの様だ。何度も教えた筈だが、この俺も目が曇っていたものよ。無能の中で図抜けていたが、所詮は無能に毛の生えた程度であったとは頭が痛い。小賢しいが猿の方が真に有能であったな。こんな事であれば、羽柴などと言うとってつけたような卑屈な姓ではなく、織田姓をくれてやれば良かったか?」


「流石にそれは無理があるかと。羽柴の姓も我が君の家臣団を乱さぬよう心配りしたものです。だからこそ、柴田殿も丹羽殿も辛うじて堪えておいでなのです。それを我が君が養子に迎え入れるとなれば、一悶着どころの騒ぎでは収まりますまい。最終的には収まりはすれども、見過ごせぬ瑕疵となりましょう。あの異才が武家の出でなかった事が一番の不幸かと」


 謀反の首謀者が死に、詰みが見えているのに光秀には焦りは見えない。


「改めて問う。光秀よ、何がしたい?」

「やんごとなき御方の世の為が五割、我が君が望む未来の為が五割。我が君の理想は素晴らしく、外つ国に対抗できるありようだと心から同意致します。しかしながら、あまりに性急すぎるのです。我が君があまりに先を見ているが故に、皆が理解出来ないのです。正しく、賢くあろうとしても追いつかないのです。羽柴殿ですら厳しいかと。ただ、羽柴殿は幸か不幸か、下々の出でございます。故に、既知に囚われずに我が君の背中を追いかけることが可能であったのでしょう」


「それほどにか?」

「御意。それほどにございますれば、我が君には天上から羽柴殿が創る世を、我が君の理想には及びませぬが、その礎となる世をご覧下さることが最善だと、この光秀が愚考し、此度の仕儀と相成りました」


 返り血を浴び、この世の全てを斬り伏せそうな様相の信長の前に跪く光秀。信忠の血で濡れた床板に額を擦りつけ、更に言葉を繋ぐ。


「我が君、何卒、何卒、ご理解頂きたく」


 光秀の言葉に何か思い当たることがあるのか、信長はどこか遠くを見つめる。周囲の声からするに落ち着きを取り戻し始めていることは分かった。それが、光秀の手勢であることは容易に推測できる。信忠の手勢もいるのだから、その方向性も見えてくる。


「是非に及ばず。最後に聞かせよ」

「何なりと」


「抜かりはないのか? 勝家は強情ぞ。信忠よりも無能達の処置は? 家康殿は? 猿では相性が良くないぞ?」

「羽柴殿の才を過小評価しすぎにございます。それに、参謀とは通じております故、万全を期す為に、家康は真っ先に潰しておく事になっております。我が君の懸念全てを解消するに全てが間に合うのが、この地でございます。遠江に南下後、三河に侵攻し早期に決着後、桶狭間で羽柴殿の糧となりましょう。勝家殿は上杉と滝川殿は北条と睨み合うように信忠様の命にて押さえます故、織田家の総力で欠けるのは明智家だけでございます。信孝殿は丹羽殿が丸め込むでしょうが、その丹羽殿は長曾我部に牽制させますので、羽柴殿が岡山城から移動を開始すれば、畿内の抑えたる我が家の者が撤退戦をしかけつつ主戦場まで誘導致します。この光秀の朝廷贔屓は誰もが知るところであれば、畿内での戦闘を避けても誰も怪しみませぬ」


「見事なり、光秀。くれぐれも家康殿を討ち漏らすでないぞ?」

「承知しております。三河を蹂躙するのも策の一つ、かの御仁が力を十二分に発揮するのは三河ありきでございますれば。三河全土を火の海に沈める覚悟さえあれば誰でも討てまする」


 この後、失火による信長の死が各地に届けられ、織田家は混乱し、敵対する大名も動きが活発になるが、後継者たる信忠の采配により事態は硬直。その際に、徳川家が織田家との同盟を破り尾張に侵攻した為に信忠が甲府から討伐軍を出すことになる。姿が見えぬ信忠を怪しむ声もあったが、魔王の息子を糾弾する勇気のある者は居なかった。


 その際に、三河を火の海にした信忠が家康の逆鱗に触れ、討ち取られると言う一報が各地に飛ぶ。短期間で信長、信忠という織田家の中枢を担う人物が失われた事による織田家の求心力の低下により、明智家が離反、信忠を討った家康と手を組むという蛮行を為し、畿内から兵力を割き岐阜城を抑えると瞬く間に尾張から東海道を制圧。その行動にすぐさま反応し、行動に移したのが羽柴秀吉であり、中国征伐の任を放棄、すぐさま宇喜多家とに謝罪と賠償を行い、和睦を取り付けると、その背後に居る毛利家と宇喜多家の対立を煽りつつ、僅かな守備兵を宇喜多家の警戒に当てるとなりふり構わずに畿内へ侵攻したのであった。


 後に、秀吉の大返しと呼ばれる奇跡の転戦である。


 その即応に対処の遅れた明智家は、盟友徳川家と共に羽柴秀吉を迎え撃つべく、織田家因縁の桶狭間に軍団を展開し待ち受ける。その数、約2万(おおよその内訳:明智家12,000、徳川家8,000)


対するは強行軍で乱れに乱れた羽柴秀吉率いる織田軍約22,000である。中国征伐に号して6万とも言われていたが、強行軍で脱落した兵も居れば、道中、畿内各所に治安維持で配置した兵もあった。そもそも6万も居たのかという疑問もあり、各地の大名は訝しんでいたのだ。秀吉の略歴をみれば、その特異性と欺瞞が散見する故の、偽装兵力ともとれた。


しかし、現実に桶狭間に辿り着いた兵士は22,000も居たのである。ほぼ同数のぶつかりあいで秀吉が勝てるのかという疑問は、秀吉率いる兵達自身の疑問でもあった。しかし、信長の無念の涙か、信忠の怨念か、奇しくも桶狭間に季節外れの大雨が降り注ぐ。視界が碌にとれない土砂降りの中での開戦は、疲労困憊であった秀吉率いる織田軍には救いだった。


 結果、思いもよらぬ秀吉の圧勝に終わる。

 勇猛果敢ではあるがまだまだ未熟な福島正則が三河の重鎮・石川数正を討ち果たし、その隙を掻い潜るように敵本陣に到達した知勇兼備の片鱗も見えぬ剛腕・加藤清正が明智光秀を討ち取ったのである。


 そんな個々の活躍も見事ではあったが、戦と言うものを見た場合には、光秀の討ち死によって総崩れとなった明智・徳川連合軍を狩りつくしたのは軍師の黒田官兵衛の手腕あってこそだった。だからこそ、生死不明であった逃亡中の家康が草の根分けて探し出され、その首を持って秀吉の元に差し出されたのである。主君の仇討ちに成功した秀吉の名声は天井知らずとなり、どこまでいっても所詮は農民上がりという嘲りを払拭することに成功する。


それは織田家において、発言力が激増することを意味しており、戦線をやりくりして各地から送り込まれた明智・徳川討伐軍が不発に終わった家臣団は自身の戦功を優先し主君を見捨てたと世間から噂され、その名声は落ちていったのだ。



 歴史に残る大謀反劇は幕をこうして幕を閉じた。



――――天下も定まった後日

 

当時を懐かしんだ福島も加藤もそれに付き従った秀吉の数少ない子飼いの者達が、酒盛りの肴に当時を振り返り不思議に思う事があった。

 天下分け目の戦と言っても過言ではない時に、悪天候ではあったが徳川家康の姿が見えなかった事、その懐刀とも言える本多忠勝を含めた数名の者も又、見かけなかった記憶と部下達の噂。にも関わらず、秀吉が行った首級の対面においては、本多忠勝を含めた榊原、井伊、酒井の重鎮が揃っていた事だ。

 首を取った者が死んでしまう事は良くあり、近くに居た者がその首を持ち帰ることが普通であったが、その功を誇る者が1人も出なかったことが不可解だと語った。それが逃亡していた家康の首であるならば尚更である。



 後年、秀吉が幕府を開くことなく国を大きくしていったのは亡き主君の夢だったと書物に記された。又、その一方で自身が農民出身であることから苦労し、差別もされた経験を活かし、血統主義の廃絶と実力主義を徹底したと記録、それは日ノ本の国を大きく発展させることになった。




 英傑達の夢舞台、華々しくも儚く散った者達、輝きを放つ前に露と消えた者達の声が埋もれた真の歴史には存在する。その声を聴きたい、知りたいと願う事も又、英傑への道かもしれない。



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まさか、貴様が……いや、必然か? 惜帝竜王と夢の盾 @kataotinebiki

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