あたらしい日々は足元から

春嵐

第1話

耐えろ。ここまで来たのには、意味がある。だから、耐えてくれ。


どこかから、声。


振り返って、声の主を探した。誰もいない。夜の街だけが広がっている。


何かに、耐えてきたわけではない。しいていうなら、さっきからヒールが少しつっかかる。買い換えどきかもしれない。安物にしてはがんばったほうだ。


日常を平均的に過ごし、そして今、自分の人生を完遂したとなんとなく感じたから、しのうと思った。この人生で、行うべきことは全て行ったはず。


さっきの声は、なんだったのだろう。ただ、耐えろとだけ伝えてきた。


「何を」


耐えろというのか。


人生に忍耐が必要だったことはない。

普通の生活、普通の仕事。友達や恋人がいないのは、自分が人よりも少しだけ身体能力や思考力が優れていたから。そのために他者と協調する機会が少なかった。それだけ。仕事をする上での人間関係やご近所付き合いは普通にこなしている。


ヒール。底がすり減っていく。こんな感じで、自分の精神もすり減っていたのだろうか。普通の日常に、普通じゃない私は耐えられなかったのか。


人よりほんの少し優れているだけ。そんな些細な違いで、精神が悲鳴をあげるなど、ありえない。少なくとも、私の精神は今まで一度も軋んだことがない。


こうやってしに場所を探して歩いていても、こわさは感じない。これから訪れるであろうしに対する好奇心と、普通が終わるという事実にちょっと高揚しているだけ。


耐えろ。まだ終わりじゃない。


また、声。後ろではない。かといって前でもない。


「上かな」


見上げる。夜空。街の灯りで、星は見えない。


「じゃあ下か」


今にもつぶれそうな、ヒール。声の主はお前か。


「いま楽にしてやるから、しに場所が見つかるまでがんばってくれ」


しかし、そのヒールを見た瞬間に、わかってしまった。


自分も、このヒールなんだ。


たまたま、ちょっと頑丈に生まれただけ。ぎりぎりまで歩いて、あたらしいのに買い換えられるまで使われ続ける。


耐えてるんだ。この靴は。


人生に、次の靴はない。買い換えられない。終われば、次はない。


それなのに、簡単に捨ててしまっていいのか。


少し休ませて、靴底とソールを替えれば、まだ歩けるんじゃないのか。


まだまだ、耐えられるはずだ。


そう、ヒールが語りかけてくる気がする。


「じゃあ、耐えるか」


新しい靴を買って帰ろう。そして、靴底とソールも。スプレーも欲しいな。


新しい靴を履こう。


それとは別に、このヒールは、まだ直せば使える。耐えられるぞ、まだ。






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あたらしい日々は足元から 春嵐 @aiot3110

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