第6話 勇気を出すNTR

「僕は帰る」


 僕はもはや真っ白な灰である。燃え尽きた。やけ酒が飲みたい。十日酔いにでもなって、死んでしまいたい。しかし、火力抜群の依田ちゃんがそれを許さない。


「何言ってんですかあーたッ!むしろ、勝負これからでしょうッ!?」

「で、でも、九王沢さんが」


 言いかけた瞬間、ビンタ二発目である。お母さんに連れられた小学生が、口をOの字に開いてみていた。


「じゃかあしいわッ!それでも男ですか!?乗り込むんですよ、こうなったら!白黒つけなきゃ、終われないでしょう!?それでこそ真正のNTRってもんじゃないですか!?」

「いや、ちょっと言ってる意味が分からない」


 真正のNTRじゃねえし。だったとしても、もうこれ以上、何も見たくない。


「いいから来いッ!だいッたい、そんなだから、浮気されるんですよ!現場に乗り込んで、あたしも相手の男に一言、言ってやりますからほら!」


 依田ちゃん、大炎上である。こうなったら誰にも止められない。



「くのうさわさんがうわきくのうさわさんがうわきくのうさわさんが…」


 平仮名にしても、破壊力は一向に衰えない。口から幽体離脱しそうだ。まさか僕と隠れて、誰かと会っていたなんて。僕の人生で間違いなく最大の痛手である。


 そりゃ、あの九王沢さんに僕とじゃ釣り合わないのは分かってましたよ。でもまさか、こんな形で、破局に遭遇してしまうなんてそんなはんな。



「先輩、聞いてますか?それとも、人間やめますか?」

「人間やめたい…」


 泣き言を言う僕を、依田ちゃんは、さっきのビンタより鋭い目線で睨んでくる。


「もういい加減にしてくださいよ。そもそも、当然の結果、ダメで元々、でしょう。先輩のような酒飲みでずぼらでだらしなくて、どうしょもなくて、甲斐性も将来性もなくてしかもへたれでくそどうしょもない先輩に、九王沢さんのような超優良物件がマッチングしてたことが奇跡なんですよ!その辺はこの際、すっぱり諦めたらどうなんですか?人間やめるより簡単でしょう!?」


「今どうしょもないって二回言ったな…?」


「言いましたよ。でもその先輩を、九王沢さんが選んだことは忘れないでいてあげた方がいいんじゃないですか?」


「依田ちゃん…」


 僕は思わず、言葉に詰まった。


「てゆうか、これも忘れないでください。九王沢さんを先輩に紹介したのは、何を隠そう、このあたしなんですから」

「そうだよ、そうだったよね」


 無修正の後輩の罵倒に潜むほのかな思いやりに、僕は思わず、じんと来た。


「僕だって捨てたもんじゃないってことだよね?」

「いや、先輩は食べるところなしのサンマの骨みたいな感じですけど。でもあれ、骨まで食べる人だっていますからね」

「おまっ…フォローしたいのか、したくないのか!?」

「したくてしてるわけじゃないのは、確かです。でも先輩、ここであーたが正気にならなくてどーするんですか!?あたしも一緒に乗り込めないじゃないですか!」


 敢然と依田ちゃんは、言い切る。


「依田ちゃん、君はそれでも行くのか…?」

「行きますよ。そこに何が待ってようと。先輩を一人でなんて行かせません」


 その健気な顔つきをみて、僕はようやく、我に返った。だってこれから行くのは下手したら、修羅場である。


 そこに依田ちゃんは、僕と運命を共にしてくれると言うのだ。口では猛毒を吐いていようと、こんなに先輩思いの後輩はいない。本当に目頭が熱くなってきた。



「ありがとうね、依田ちゃん。僕が不甲斐ないばかりに…」

「いいんですよ、不甲斐ないのは、ずうううっ…と前から知ってますから!…てゆうか、ここで降りられないじゃないですか。九王沢さんの新しい彼氏、かっこいいかも知れませんし!」

「依田ちゃん…」

 僕、今まさに、お前の先輩やめたい。



 気を取り直して、尾行は続く。気は取り直してないけど。ここで九王沢さんを見逃してしまったら、ここまで来た意味はない。すでに最悪の結末が用意されている感しかないけれど、こうなったら開けるしかないのである。バッドエンドと言う名の、禁断の扉を。


 激落ちしている僕に対して、九王沢さんは買い物袋をぶら下げて、雲を上を歩く感じである。誰もいないのに天使の微笑を惜しまず、鼻唄まで歌っていた。今の僕にとっては、これは悪夢でしかないのに。少し離れての九王沢さんとのこの道のりはまさに、地獄へ道連れアナザー・ワン・バイツァ・ダストである。


 に、しても九王沢さんが歩くのは、都内、と言ってもごく庶民的な下町である。駅前のアーチから商店街の大通りが続き、路地や小道にも沢山、個人経営の古書店や、こぢんまりした喫茶店など、昭和な看板の古い店が残る。とくにじわじわ油を切ったばかりのあげたてコロッケを店先で包んでくれるお肉屋さんなど、九王沢さんのどストライクである。


 実際、九王沢さんは、じっと眉根を寄せて何やら切なそうにしばらくコロッケが売れていくのを眺めていたが、やがて何かを決意したようにぎゅっと握りこぶしを作って、抗いがたいコロッケの誘惑を振り切って歩き始めた。


 やっぱり、相手は男の人なのだろうか。奥ゆかしい九王沢さんが、僕と一緒ならいざ知らずコロッケ立ち食いしながら男性に会うなんて、はしたない真似をするはずがない。だから泣く泣く諦めたのではないか。これは、ますます怪しい。


「あ、先輩、コロッケ食べます?九王沢さんが諦めたやつ」

 そして依田ちゃんは早速、そのコロッケを実食である。

「わっ!…これ、やっばいです。すっごく美味しいですよ!ポテトのマッシュ粗目でほくほく肉厚!あたし好みです☆さすが九王沢さんが、目をつけただけありますね!?」

「そりゃ良かったね…」

 そこはかとなく湧き上がる殺意を抑えながら、僕は相槌を打った。

 こいつ、完全に興味本位、自分の楽しみのためだけについて来てやがる。こっちはそれどころじゃないってのに。


 それにしても、どんなやつなんだろうか。こんな商店街のある駅前に住んでいるのなら、貧乏大学生の僕とそう、かけ離れたような人間じゃない、と思うが。


 

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