九王沢さんにそれでも誰も突っ込めない
第1話 そう言えばのミステリ
「そう言えば九王沢さんってさあ、どこに住んでるだっけ?」
それはまだ少し肌寒い、ある春の宵。僕たちはもはや行きつけになった横浜元町の例の喫茶店で、時間をつぶしていた。知り合いのベーシストとピアニストが、夕方から登場する予定のお店の開店を待っていたのである。
なので上の質問には、特に強い思い入れが込められているわけじゃなかった。ふとしたときに口に出た素朴な疑問と言うやつで、僕も本当にただ、何気なく聞いたのだ。
客観的にみてもそれは別に、大した質問と言うのでもなかった。ロンドンから留学してきたのは知ってるけど、この東京の一体どこに住んでいるんだろう、と言う話である。
「へっ?…あの…」
しかし九王沢さん、なぜかちょっと言葉に詰まった。
「わたしが…どこに住んでいるか、ですか?」
「うん、そう言えばね、って言う話なんだけど」
この前、サークルでも話題になったのだ。九王沢さんはどこへ帰っていくのだろう、と。言われてみれば誰も知らなかった。なぜなら帰るとなると、九王沢さんは忽然と消えるのである。
まあ、僕たちがそれほど気にしていなかったから、消える、と言うわけではないんだろうけど、恋人の僕も親友の依田ちゃんも、九王沢さんの家の最寄り駅すら、実は知らなかったと言うのは、結構なミステリである。
「みんなで話してたんだよ。九王沢さんって、どこにステイしてるんだろうね、って」
まさか僕たちみたいに、寮やワンルームアパートに住んでいる、と言うイメージはどうしても湧かない。
高級ホテルに長期滞在したり、九王沢家所有のペントハウス(タワーマンションの最上階とか)に住んでいるとか、はたまた、九王沢家のコネクションでどこかの豪邸にステイさせてもらっているとか、なんの根拠もないのにそんな憶測の方が、しっくりくる。
「わたしは!その…普通の、おうちですよ。皆さんとおんなじです」
「えっ、それってアパートとか、寮ってこと?僕のアパートみたいな?」
「はいっ…そんな感じです」
と九王沢さんは力強く返事したが、まずその返事の仕方が怪しい。それにこの子、そんなところに住んだことなさそうな気がする。
だって思えば、僕のうちに来たばかりの頃だ。九王沢さん、よく、誰もいないのにドアや壁にぶつかって痛がっていた。たぶん、そんな狭いとこに住んだことないのである。
「そんなことないですよう。わたし、今は大丈夫ですから!」
言い張る九王沢さんだが、今でも狭い場所がやや苦手なのはよく分かっている。でも他のことは気さくなのに九王沢さんて随所に思わぬ地雷…と言うか、トップシークレットを持っているのである。
「そっかあ。普通のお部屋なんだねえ。あんまり、高級なところだったら敷居が高くてまずいかなあと思ったけど、それだったら今度、泊りに行ってもいい?」
「えっ、泊りに…ですか!?」
九王沢さんはなぜか、途端に真っ青になった。
「それは!大丈夫です、大丈夫。那智さんが泊まりに来るなら歓迎します。けど…それは今日…ではなくて、近々…と言うお話ですよね?」
「う、うん。…いや本当、今日は別にいいよ。今度!機会があったら。九王沢さんの都合いいときでいいからさ…」
(なんだこの必死な感じ…)
一応、僕たち付き合っているとは言え、女の子の部屋だ。無遠慮にずかずか上がっていいと言うわけではないだろうし、九王沢さんにも都合があるんだとは思うけど。
「いやそこで先輩、どうして踏み込まないんですか!?行っちゃえば良かったじゃないですか、そのままずかずかと!だって彼氏でしょう!?」
「や…だって悪いじゃん。九王沢さん、その日は来てほしくないみたいだったからさ!」
いやー依田ちゃんに罵倒されるの、久しぶりである。大体、そんなに目の色変えなくたっていいのに。
「行ってくださいよ、そこは。だってあたしだってまだ、お呼ばれしてないんですよ?」
「えっ」
意外過ぎた。僕より先に九王沢さんをお泊りに誘い、飲み会の席では必ず隣同士、九王沢さんの親友の名をほしいままにする依田ちゃんがまだ。九王沢さんのプライベート空間には、一度もお呼ばれしてないのだとお?
「うちにはお泊りに来ましたよ?…でも、呼びたがらないんですよねえ。なんて言うか上手く避けられているって言うか…」
同じ感じである。僕も依田ちゃんも、それとなく避けられている。率直に言って九王沢さんは、自分が住んでいるところに人を呼びたくないのだ。
「どうしてなんだろう…?」
言われて依田ちゃんも、不思議そうに眉をひそめた。
「どうしてなんだろうって…先輩が分からなかったら、わたしだって分からないですよ」
付き合いも深くなってきたが、まだまだ生態が分からないところがある九王沢さんである。未確認生物か。でも確かに、普段は見過ごしているけどよく考えてみると「ん?」と言いたくなるようなことはある。
「そう言えば九王沢さんて、たまーに消えることあるよね。じゃあまたねって、振り向いたらもういないとか」
「いや、いくらなんでもそんなことはないでしょ」
依田ちゃんは、さすがにあきれ顔である。そうなると人知を超えると言いたいのだろうが、あの九王沢さんについては若干、怪しい。僕たちの世界の常識からは、そこかはとなく外れていたりするのである。
「てゆうか先輩、お泊りしましょうよ。もう注意するのもめんどいのでしませんけど、恋人同士、なわけでしょう?」
「お、おう。当たり前だろ!」
とは言ったが、そのあとの言葉が続かない。てゆうか自分で言っててなんだこの歯切れ悪さ。
だが事実として、よく考えてみるといまだに謎がまだ多い九王沢さんである。実際のところ本当は宇宙人でした、と言われても、普通に受け入れてしまいそうだ。
「あ、でもねえ、言ってたよ。今度来ていいって。今日じゃなくて、近々ならいいんだって」
「近々って…そもそもそれ、いつの話ですか。そもそも、それから来ていいよって話ありました?」
「いやーないけど大丈夫でしょう。それに確かその話したのは夏前…いや春、年明け…クリスマス…だったかな?」
「どんだけ前なんですか!?完全にはぐらかされてるじゃないですか!てゆうかそれがクリスマスだったんなら、クリスマスに自宅に呼ばれない彼氏ってなんなんですか!?そもそも、そこから話がおかしいでしょう!?」
てわけで、始まったのだ。僕と依田ちゃんの二人で。九王沢さんの自宅にお呼ばれしよう大作戦が。訪問者が彼氏の僕ひとりではなく、依田ちゃんも乗ってきて二人なのはもちろん、そこはかとなく九王沢さんの警戒を解くためである。
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