第33話 白紙レシピの意味

「見ての通り、わたしは今、ダニエルさんのお店で働かせてもらっているけど、料理人になるのが幼い頃からの、わたしの将来の夢ではなかったの」


 少し間を置くとカイリーチは、今度はゆっくりと話を始めた。


「わたしが最初、なりたかったのは、お医者さんだった。わたしが幼かった頃、祖父はある難病を患っていて、お祖母ちゃんは二人で食堂を続けていくのにとても苦労していたの。だからわたしは大きくなったら、お医者さんになってお祖父ちゃんを助けてあげたいと思ってた」


「どうしてお医者さんにならなかったんですか?」


 涼花が率直に聞くと、カイリーチは小さく首を振り、


「その病気は今の医学では、完全に治すことが出来ない病気だったから。それよりも、上手く付き合っていく方法を考えた方がいい病気、と言った方が、正しいかもね。実は、わたしのお父さんもわたしが生まれてすぐ、同じ病気になってしまったんだけど、症状がひどくて亡くなってしまったの。付き合うのがとても難しい病気なのよ」


 世の中にはあまた難病があると聞くが、一体どんな病気なんだろう。


「日本語では、膠原病こうげんびょう、と言う名前の病気なんだけど」


 カイリーチがその病名を口にすると、僕を含むそこにいた全員が九王沢さんを見た。絶対知ってるはずだ。即座に分かりやすく解説してくれるに違いない。まるで人間事典である。


「免疫機能の病気ですね。…花粉症や食物アレルギーなどと同じく、抗体こうたいの誤作動、と考えると、分かりやすいでしょうか」

「抗体!?」


 涼花は、救いを求めるように僕を見てきた。


 そこからか、とその場で突っ込みたかったが、抗体と言うのは確か、身体に病原菌や異物が入ってきたときに戦ってくれる体内セキュリティのようなものである。


 僕たちはインフルエンザはじめ各種の予防接種をするが、それはこの抗体を作るためにするんじゃなかったんだろうか。


「へ~たさんの言う通りです。免疫機能は身体を守ってくれるためのものですが、しばしばシステムエラー、誤認識を起こすのです。膠原病もその一種なのです」


 いわゆる全身性の免疫機能疾患と言われるこの病気は、誤作動した抗体が血液を通じて身体中を暴れまわり、複数の内臓に炎症を起こさせると言う恐ろしい病気なのだそうだ。


 アレルギーと同じく、症状には個人差があり、長く患う人もいれば、発症のショックが強く、そのまま息絶えてしまう人もいるらしい。



「抗体は病原菌による感染症や悪性腫瘍あくせいしゅようなどと違い、本来は身体を守ってくれている機能なので、取り除くことは出来ません。なので現代の医学では、根治こんちは不可能、と言われています。強い症状が出ないように、食べ物やサプリメントを択んで、上手く付き合っていくしかありません」


「そう、あなたの言う通り。…祖父の闘病は長く、つい二年ほど前に亡くなるまで続いた。わたしが医学部ではなくて薬学部を択んだのも、そんな祖父の影響だったの。学生時代から会社に入るまで、色んな国の色んな薬を研究したわ。治らない病気と付き合っていくには、東洋医学で使われるような生薬がいいと思っていたから」


「症状を根絶することを目的としたいわゆる『対処療法』の西洋医学に対して、漢方を始めとする東洋医学が目的とするのは、身体全体の自己治癒能力を促す、体質の改善が目的と言われています。だからカイリーチさんは、薬学を択ばれたんですね?」


「ええ、でもそれも祖父には役に立たなかったけど。晩年の祖父は、薬物治療は一切行わず、食べ物も祖母が作ったものしか食べなかった。それでも医師が予想したよりもはるかに長く、生きることが出来たの」


「それが魔女スウィンムーアのマジックスープのレシピだったんですね…?」


 カイリーチは、大きく頷いた。


「そう、そのお陰、としか思えなかった。本当に死ぬその日まで、お祖父ちゃんは、フィオナお祖母ちゃんのスープを口にし続けた。わたしが捜していたものは、本当は、すぐ、そこにあったのよ」


 しかし、フィオナお祖母ちゃんのレシピは、彼女の代で途絶の危機に立ってしまった。


「祖父を亡くしてから、お祖母ちゃんはすぐ店を畳む決意をしたの。もう何十年もやっていた食堂だけど、パートナーだったお祖父ちゃんの闘病が終わって、お祖母ちゃんは続ける気力まで失くしてしまったのよ」


「そこであなたが継承者に…?」


 カイリーチは、微笑んだ。


「そう、なろうと思った。お祖母ちゃんがご先祖さまから受け継いだレシピは、この何百年ものあいだ、数えきれない人を救った『白魔法』のレシピだから。わたしがやってきた薬学の知識も生かせると思ったの。でもね…」


 と、呑み込みやすい話の流れだったが、そこでカイリーチは、急に声色を暗くした。あれっ、なんだか声まで小さいぞ。


「すみませんあの、後半聞こえませんでした。…なんて、言ったんですか?」


 と、九王沢さんがみかねて尋ねると、何やらもじもじしている。今までのカイリーチらしくない。急にはっきりしない物言いになった。


「…だからね、わたしがレシピを継ごうと、最初は少しずつお祖母ちゃんに教えてもらいながら、がんばってはみたんだけど…」


 そのときだ。傍らにいたダニエルさんが、とんでもないことを言ったのは。英語だったが、短い単語で僕たちにも意味は取れる。彼は今、こう言ったのだ。


「実は彼女の料理、まずくてね」

「まずかったんですか!?」


 と、僕が思わず言った瞬間、カイリーチは顔を真っ赤にして悲鳴を上げた。


「そっ、そんなっ!はっきり言わなくてもいいじゃない!?」


 九王沢さんと涼花も目を丸くしている。確かに、カイリーチは料理は得意じゃない、と言ってはいたが、これは衝撃告白である。


 かく言う僕だって、取り立てて自分に料理のセンスがあるなどと自負しちゃいないが、まだ面と向かってまずい、とは言われたことは一度もない。ダニエルさんも、ぶっちゃけすぎである。


「誤解のないように言っておくよ。彼女は、料理が下手なわけじゃないんだ。問題はその、味つけのセンスと言うか、選択がね…」



 ダニエルさんは今さらのようにフォローを入れたが、つまりはこう言うことらしい。カイリーチの料理は、いわゆる健康志向に偏りすぎているのだそうな。


 すなわち、自分が研究してきた製薬の知識を盛り込んであれやこれやアレンジするので、どうにも味の方がおろそかになる、と言う例のパターンである。


 言われてみれば、健康志向の人が陥りやすい袋小路ではある。



「薬膳料理とかって、当たりはずれありますもんね…」


 涼花が危険なことをちらっと口にする。商売上、他店の悪口は言えないのでなんとも言えないが、健康と美食を両立すると言うのは意外に難しいものなのだ。


「わっ、わたしだって!ちゃんと作れば、ちゃんと作れるのよ!?誤解しないでよ?」

「カイリーチさん、大丈夫です。あなたのお気持ち、とても分かります。…何か、理由があるんですよね?」


 そのとき九王沢さんが、なぜか深く同意した。何やらこの人にも、強く思い当たるふしがあるらしい。


「『このレシピを継ぐ魔女は、何か新しい工夫を加えなさい』。そのための試練のお料理が本来は、チキンのマジックスープのレシピの本当の役割なのよ」

「試練の料理…」


 おうむがえしの涼花に、カイリーチは優しく微笑んで見せる。


「そう、誰にも頼らずいちから自分で作るの。マジックスープのレシピだけは先代の魔女と、次にレシピを受け継ぐ魔女の頭の中だけにあるってわけ」


 カイリーチは自分のこめかみを指でこつこつ叩いた。


 なるほど、そう言うことだったのか。

 それで、レシピにマジックスープは白紙なのである。


「だからお祖母ちゃんもわたしに、スープの作り方は、教えてくれなかったの。先代の魔女はただ、食べさせてくれるだけ。お祖母ちゃんもレシピを受け継いだときは、そうだったみたいね。…小さいときから食べてきた味を自分で再現して、これに新しいひと工夫を加える。そのとき、わたしは魔女スウィンムーアの名前を継ぐことが出来るの」

「厳しいんですね…」

 涼花は、感心したようにつぶやいた。


 確かにそうだ。

 あくまでオリジナルの味を保存しようと言う考え方もそれはそれで至難だが、レシピにないスープを再現し、さらなるグレードアップまで加えなくてはならない、とはハードな継承条件である。


 でもだからこそ、スウィンムーアのチキンのマジックスープは、これだけ長い間、生き永らえる名品になったのだろう。



「非常にユニークなプレゼンだった。だから思わず、条件を呑んでしまったよ。スープが完成したら、僕はこのお店の経営をカイリーチに任せる。そのときこの店は、正真正銘の魔女の料理のお店になるってわけだ」

 ダニエルさんも、脱帽である。


 それほどカイリーチの情熱と執念には、舌を巻いたのだろう。


「わたしも修行中なのよ、涼花ちゃん」


 愛らしく片目をつぶってみせたカイリーチは、涼花に向かって呼びかけた。


「欲しいものを手に入れるなら、まずはひたむきに努力をしないとね」




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