第2話 すれ違いの日々は

 その女の人は店の奥の壁が背になる席に座っていた。


 ここ、みくるさんの指定席だった。

 ついこの前までみくるさんはその席で、ネームを描いたり、編集者に詰められたりして、一喜一憂して悶絶していたのだ。そんな光景にも久しく遭っていない。



(どうしてるのかな)


 思い出さない日は、ない。


 こっちはずっと、一人で行動しているのだ。メールで十月の予定を話したのすら、半月くらい前だ。


 三日前のメールにまだ返信はない。スマホを開いてはため息をつくのが、日課になってしまった。



 みくるさんとあんまり連絡が取れなくなったのは、九月からティーン向けのノベライズの仕事をする、と言ってからだ。


 小説の原作者のたっての指名でみくるさんは、挿絵を描くことになったのだ。


 それがどうも、いわく因縁のある人だったらしい。その作家さんは若くしてナポレオンの伝記でデビューしたほどのヨーロッパ通で、駆け出しのみくるさんに目をつけたことがあるようなのだ。


「ちょっと、手の早い人なんだよね」

 と、漏らしたアシスタントさんはあわてて口をつぐんだ。


 宝生ほうしょう、と言うその作家さんは実家が元々金持ちの整形外科か何かで本人も医師免許を持っていて、あくせくなんてしたことない、悠々自適の文筆業だそうな。


 その上、ヨーロッパ車を乗り回しては美人の担当編集に手を出す、なんてことも平気な派手な人らしい。


 ヨーロッパにくわしいこともあり、みくるさんはデビューの前後、それこそ自宅を行き来するくらい仲良くしていたが、ある時期を境にぱったりと交流が途絶えていたそうな。


 アシスタントさんによればそれは、その宝生さんが編集の紹介で、ヨーロピアンハーフなモデルタレントさんと浮名を流し始めた頃と一致するのだと言う。


 それからみくるさんはむすっとして、その話をすると口も利かなくなるほどだったみたいだ。



(もしかして、付き合ってたのかな)


 すごく下衆な想像を、したくなってしまう。そしてそれがまた、一緒に仕事するようになって、実は去年の秋ぐらいからまた元のように交流が再開していたらしいのだ。


 こっちはこんだけほっとかれて、考えたくないことがどんどん噴出しても、無理はないと思う。



 堪え切れなくなって僕は、電話をかけた。みくるさんは、例によって留守電だ。


 駅からこっちに来る間、仕事場にも電話をかけたが、もう上がってるって言ってたのに。


 忙しいって言うけど、本当に仕事なんだろうか。あああああ、これじゃ僕、旦那の浮気を疑う主婦みたいじゃないか。


 なんてかっこ悪くてみみっちいんだろ。男の癖に。最近自分のすっごく嫌な面ばっかに出くわしてうんざりする。


 でもみくるさんが悪いのだ。僕の不安に何も、応えてなどくれないから。僕より大人の癖に、包容力ゼロなのだ。こんちっくしょう。


 ケトルのお湯が、吹きそうになっていた。ったくこんなにほっときやがって、と、口から湯気を吹いて怒っている。今の僕みたい。


 でもこいつと違って、この気持ち、どこにも注ぐ口が見当たらない。虚しくなって僕は、レンジをとめた。


 ため息をつきながら、ケトルのお湯を濾過紙の中のコーヒーに注ぐ。よく煎った豆は、濡れた浜辺の砂のようになって香ばしい匂いだけを残して、じりじりと沈下していく。



一野谷いちのたにくん、これ」


 塾の自習室のブースにいると、制服姿でボブカットの女の子が何かを手渡してきた。


 ちょうちょが描かれたかわいい封筒からのぞいているのは、今秋公開の映画のチケットだ。抜きだそうとすると彼女は、その手をとめた。


 な、なんと中に手紙が入っているのだそうだ。ここだと恥ずかしいから後で読んで、とその子は言うのだ。正直僕は、耳を疑った。


 女の子からラブレターなんていつからこの塾は、人智の及ばぬ魔境に変貌したのだ。いや、他校の子だし実際、いたずらか何かじゃないか?


 あらゆる否定要素を積み重ねたが、そこにはちゃんとLINEのアカウントに電話番号、メールアドレスが揃っていた。


 見栄を差っ引いてもかわいい子だった。向こうは僕の学校のクラスの女の子を通して、僕のことを調べたらしい。講座や模試の会場で会話したことがあったようなのだ。


「志望校も一緒だし、悩みとか、色々話せたらいいと思って」

 彼女はそう言った。


 で、とりあえず来週は模試もないし、二人で映画を観に行かないかと言うのだ。


 その手紙は、ずっと人目につかないところに仕舞ってある。断るつもりでいたけど。明日か。すっごく気が重い。



 そう言えばあれから、僕とみくるさんは映画すら観に行ってない。いつもどっちかの都合が合わなくて、すれ違ってばかりだ。


(同じ受験生か)


 引き換え、僕とみくるさんは明後日の方向を向いている。


 出来上がったカップをテーブルに口をつけて、僕はため息をついた。苦かった。淹れ方ミスったじゃないか。これだってみくるさんのせいだ。


(分かってて付き合ったはずなのに)



 いつも僕は、あの晩のことを考えてしまう。みくるさんの告白の返事を聴いた夜じゃない、僕がみくるさんのことを好きになった夜だ。



「嫌かも知れないけど、しばらくわたしと一緒にいて」


 十二月の寒い夜、駈け込んで来たみくるさんは、いつもと全然違ってすごく綺麗にみえた。


 あの日から僕は、みくるさんと言うとあの晩のことをまず、思い出してしまうくらいに。忘れられない。


 いやむしろ、はっきりと思い出せる。あのときのみくるさんのことを。


 泣きながら必死で僕にすがりついた冷たい指の感触や、外の冷たい夜気でしんなりと濡れた髪の毛の甘い匂い。


 アルコールでほどよく火照った、小さな唇が吐き出す呼気の感触と、初春に咲き始めた花のように清かで甘い、女の人の匂い。


 大きなフレームの眼鏡の奥で涙に濡れた瞳は、じっと僕を見て捉えて離さなかった。


 確かに僕は彼女を好きになった。あの晩、悪酔いしたみくるさんがたまたま、僕を頼りにした、ただそれだけだとしても。

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