醸成月のプレローマ
第1話 春先のプラシーボは
すっかり冷え込んできた秋の夜風に身をこごめて帰ってくると、お店の灯はもう消えていた。
なんだ、もう閉店か。
お客でもないのに僕はどこか、門前払いを喰った気持ちになった。閉店は午後十時。今はそれを三十分も過ぎている。店番をしている母親が面倒くさくなって、閉めたのだろう。もちろん、本来の閉店時間内ではあるので文句は言えない。
(でも開いているときは、朝まで開いてるんだよな)
ホットコーヒーが美味しい季節になって、お店も夏より持ち直したけど、父親がいないせいか、常連客の賑わいとはまだ程遠い。
彼らは親父が作ったつまみにお酒を持ち込んで、夜通し騒ぐから始末に負えないのだ。そんな空気の中で育って、逆にそれがないと寂しいと思っている僕も、まあ僕ではあるのだが。
カウンターにバッグを置くと、キッチンの窓の外の桜の葉が枯れ落ちているのが街灯に照らされてみえた。
赤を通り越して黄色く褪せた葉はもう、枝から落ちるばかりだ。その寒々しい様を見ていると夏など最初からなかったことになっていて、もう何か月も前から秋だったみたいにどこか寂しい気分になる。
重たいバッグを肩からおろして、電車で読みふけっていた文庫本と、塾のテキストやら筆記用具やらを取り出す。僕は小さく息を吐いた。
さすがに九月に入ってから、時間が経つのが早い。秋集中講座やら模試やら夜の自習復習やらで、そうこうしているうちにもう週末だ。で、もう十月も来週が最終週だ。長いように見えて受験生の一年は刻々と過ぎていく。
(受験生ってこんなもんかな)
ここに来て、一回ずつの模試の判定が重い。その判定が着々と自分の人生を決めてるんだな、なんて言う辛い実感が出てきた。高校受験をしたときとは、だいぶ違う。一体、僕はどうなるんだろうか。夜中に勉強していて、ふと、思ってしまう。
世間の荒波を間近に実感する僕に比して、相変わらずこの店は深海の果てのように鎮まり返っていた。ここだけは、そんなあわただしい流れとは無縁な場所だった。
でももはや僕にとってあの春は、遠い昔のようにも思える。ここのところの僕は、肝腎のみくるさんにもろくに会っていないのだ。
思えばあれは。
春迫る、雪解け水みたいな澄んで冷え切った夜気が流れていた三月の末だった。
花待つ季節、僕は彼女と付き合うことになった。
園城みくるさん。
うちの店の常連客、僕より十歳上の漫画家さん。
ほとんど同い年にしか見えないルックスと、仕事を吹っ飛ばして大好きなヨーロッパを放浪するのが趣味と言うぶっ飛んだ女の人。
今年は日本にいるって言ってたのに。先月も逢おうと思って仕事場に行ったら、留守だった。
「僕と、付き合ってほしいんだ」
年越しに持ち越した返事を、ヨーロッパから帰ってきたばかりのみくるさんがくれたその夜を、僕は、はっきりと憶えている。
「ちゃんと付き合おっか、わたしたち」
と、なんとも軽い、みくるさんの返事とともに。
もちろんその言葉に比して、気持ちは軽いものなんかじゃなかった。
そう僕は今でも信じている。僕はずっとその間、みくるさんの目を見ていたから。
ずっとどきどきしていた。吸い込まれるかと思った。いつも何でもない風に見過ごしていたみくるさんの大きな瞳が、切なくすぼまれて清かな涙で潤んでいたのに気づいてしまった。
あの日、仕事場を無理くり抜け出して寒い戸外からこの店に、来てくれたせいだと思う。僕は知っている。いつからかそう思っている。
いつもの気楽な顔の下に隠した、みくるさんの、本当の眼差しを。あの晩、彼女は、そんな目をしていた。だからこそ僕は、花待月に待ち続けた、
あれは間違いなく、僕だけに見せてくれた、本当のみくるさんの顔なのだ。
大分寒くなってきた。そろそろ夜、ここで何かするには暖房がいるな。
店のパソコンを立ち上げた僕はついでにエアコンもつけた。ミネラルウォーターを注いだケトルをIHのレンジにかけ、僕はつい最近ローストした豆を一掴み、ミルで挽く。
さてメールソフトが立ち上がった。カウンターの丸椅子をこっちへ持って行こうと思って僕は、クリアケースに入った分厚いプリントアウトの存在に気づいた。それには、見るだけでお腹がいっぱいの英文がびっしり印刷されている。
先週お店に来たお客さんの忘れものだ。まだこれ、取りに来てなかったんだなあ。こんなところに放り出しておいたら、汚れちゃうぞ。僕はそれを取り上げた。そう言えば、なんか変なお客様だった。
たぶん、女子大生だと思う。冗談ではなく、表に人だかりが出来るくらい、綺麗な人だった。黒くて長い髪の毛ですら、きらきらオーラをまとっていた。この横浜では言うまでもなく、テレビのロケやグラビアの撮影が多い。もしかして芸能人かと思ったが、正直あんまりテレビは観ないので分からなかった。ただ、お客としてはひと目見て不審だった。
その人は席に座ったまま、いつまで経っても注文しないのでこっちも困ったのだ。見かねて僕が声をかけるとびっくりするぐらい形のいい眉をひそめて、すごく切なそうに十秒ぐらい黙っていた。
そしておもむろに何を言うかと思うと、テーブルに置かれた食卓塩やら、ミルクやら砂糖やらが入っているトレイの辺りをひらひら手のひらで探っていかにも残念そうに、こう尋ねた。
「…どうしてスウィッチが、ないのでしょう?」
好きな銘柄のや淹れ方のコーヒーがないと言う文句は、よく聞く。しかし、ウエイターを呼ぶスウィッチがないことで苦情を言われたのは、これが初めてだ。
「うち、そんなに広くないですから」
「じゃっ、じゃあ、このまま頼んでいいと言うことですか?」
「はい、もうお決まりでしたらうかがいますけど」
その人はとても切なそうに、コーヒーとサンドウィッチを注文した。よっぽどあのファミレスとかにあるスウィッチを、自分で押したかったみたいだった。ファミレス行け。
僕の願いとは裏腹に彼女には、それから二時間以上、粘られた。その日だけ心なしか男性客が増えたのが唯一の救いだった。
その人はノートパソコンでずうっと、何かレポートみたいなのを書いていたのだ。ずっと話しかけられそうにないくらい、集中していた。息を吐く間もなく怒涛の勢いでキーを叩いていたのだがちなみにそれも全部、外国語の文章だった。
そうしている間にも彼女は、誰かを待っているみたいだった。夕方頃、テーブルに置かれたその人のスマホが鳴った。どうやら相手の人は約束の場所に来ず、勝手にどこかで待っていて、彼女を呼んでいるらしかった。彼女は、すっごい焦っていた。こんな綺麗な女の人を振り回せる人って一体、どんな人だ。
あわただしく出て行った彼女は当然のように、忘れ物をして行った。語学が堪能な母親によるとそれは、日本の旧い暦月について書かれたひどく専門的なレポートだったらしい。変な人だと思ったら、やっぱり外国の人らしかった。
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