第3話 待っていた返事は

「分かった。へーたくんのこと、真剣に考える」


 みくるさんが突然言い出したのは、それからしばらくのことだった。


「次の桜が咲くまでに、絶対戻ってくるから。そのときはちゃんと、へーたくんに、わたしの気持ち話すね。だから待ってて」

「分かった」

 僕は答えた。


 春までの辛抱だ。どうせ待つのは慣れてる。


「気持ちは嬉しかったよ。ありがと、へーたくん。じゃあ、わたし、勝負してくるね!」

「勝負?」


 うっし、とか妙な気合いで決意したみくるさんは、林原さんの待つテーブルに戻った。


 ええええっ!?と林原さんが絶叫していた。


 とにかくヨーロッパ旅行へいくのに、僕をダシに使っているわけじゃないことを、ここで祈るしかなかった。



「馬鹿だな。みくるだって、大人の女だぞ?あいつ、ヨーロッパに彼氏がいるんじゃないか?」


 みくるさんがヨーロッパに逃亡してから、たまに帰って来た親父に相談した。即座にぐさりと痛いことを言われた。


「まだ分かんないだろ」


 みくるさん処女説、と言うのがある。この店に集まるおじさんたちが、まことしやかに真偽を語り明かし、要はいい酒の肴しているのだ。


「あのな、んなこと本気で信じてるの、童貞のお前だけだよ。二十八だぞ、アラサーだぞ?男いなかったらしょっちゅうヨーロッパ行くか?」


 ああう、反論できない。


「まあ、おれとしては付き合うのは構わねえよ。けどさ」


 くそ親父、バーボンラッパ飲みしながら適当にしめやがった。


「お前と彼女は違うんだ。そこは、理解しろよ。お前にとっちゃ、初めての恋愛でも、向こうにしてみれば、パターンが見えたオファーかも知れないんだ。それに三十近くなったら本当にお前と生活できるのかを含めて、色々考えなくちゃだけど、お前にとってみれば恋愛ってまだ、ただの言葉でしかないだろ?」


 こいつと同じ、酔って冷めたら忘れちまう。


 そう言いたげに、親父はベンチマークのボトルの中の液体をひけらかす。かっこつけやがって。


「いい子だけどな。あいつのこと気遣うなら、相手の都合のことから考えな」



 恋に恋する年頃か。

 こちとら平成男子だ。昭和の少女漫画じゃあるまいし。


 でも後で自分に、こう言い換えると、ずきっときた。


 お前はただ、恋愛したいだけなんだ。でも、みくるさんはもう違うんだ。



(本当に愛してる、のとは違うのかな)


 今でも判らない。でも同じ場所で、気持ちがずっと足踏みしているのは、誰にも表現しきれない気持ちを、確かにみくるさんに感じたからだ。


 十二月に入ったばかりの冷たい雨の夜のことだ。出版社のパーティに出席したみくるさんは、酔っ払ったまま、うちに来た。


 もうとっくに閉店してたけど僕は店を開けた。大迷惑だった。結局泥酔したみくるさんを抱えて僕は、ソファのある二階のフロアまで上がらなければいけなくなった。


 親父の部屋のあまり使われないベッドに、みくるさんを寝かしつけた。色んなことがゆるゆるなみくるさんだが、こんなにお酒に呑まれることはまずない。


 何か嫌なことでもあったのか、酔っ払っているその日のみくるさんは珍しく、すごく無口で素直だった。


 ベッドに下ろそうとすると、突然、強い力で抱きしめられた。


「お願い」

 彼女は絞り出すような声で、言った。

「いやかも知れないけど、しばらくわたしと一緒にいて」


 闇の中で、曇った眼鏡の中の瞳が、確かに潤んでいた。その眼差し。それが信じられないくらい美しく、みくるさんのものとはとても思えなくて。今でも思い出すたびに胸が切なくなる。



 その晩はそのまま、僕はみくるさんに寄り添った。


 もちろん僕が眠れるはずはなかった。


 僕の胸にしがみついたみくるさんからは、アルコールで温かく蒸れた甘酸っぱい花の匂いがずっとしていた。


 気の利いた男だったら、ここで一発やれたかも知れない。悔しいけど、童貞の僕には無理だ。


(これで、良かったんだよな?)


 まあ実際、何度も血迷いそうになった。でも、出来なかった。


 まるで生まれたばかりの子猫のようにもろくて限りなく温かい、みくるさんにそんなこと出来るわけない。


 ああやっぱダメ元で、キスくらいしたい。二人いる自分と格闘しながら、僕はずっと冷たい冬の雨の音が戸外でさんざめくのを朝まで聴いていた。



 そんな晩のみくるさんに僕は、出会ってしまった。


 それから決心した。

 だったらもう、好きになるしかないじゃないか。


 でも、逆にこうも思う。僕はただそのとき、勘違いしただけ、なんじゃないかと。


 あの晩、初めて、女性のみくるさんに会った。


 あの眼差し、抱きしめられた力の強さ、寄り添った身体の体温。


 要は僕は、ただそれを誤解しちゃってるだけ、とりあえず好きになってみたいだけなのかも知れない。


 薬が効いたふりをしているだけ。本当は女の子なら、誰でもいいのだ。ドジっ子なみくるさんがただ、そのスイッチを間違って押しちゃっただけなのだ。


「まるで恋のプラシーボだねえ」


 今日の昼、ラジオの恋愛相談を聴いていたら、すかした番組のDJがふざけたことを言っていた。


 いらっときたのにその場で調べた。プラシーボとは、暗示で効くはずのない薬に効果が出てしまう現象を言う。日本語では偽薬効果と言うらしい。


 人の気も知らないで何が恋の偽薬効果プラシーボだ、半笑いしながら言いやがって。


 でもそれがずっと、心に引っかかってた。

 僕はちゃんと、本当のみくるさんのことを見ることが出来ているのだろうか。彼女のことを考えた上で告白に踏み切ったのか。


 ずっと答えは出ないままだ。


 そう言えば今度のヨーロッパ旅行には、特別な用事があると、みくるさんは言っていた。要は僕への返事は、それが片付くまで待って、なのだ。


 確認しなかったけど、親父が言ってた彼氏かな、とぴんと来た。もしかしたらその人と、話をつけるのか、説得されるのか。


 みくるさんの性格も考えて、可能性は五分だ。いや、もっと分が悪いかも知れない。仕事延びないかな。まだ会いたくない。


 そう思ってるとコンコン、と、店の入り口横のサッシが鳴った。


 残りのコーヒーを口に含み僕がふと、そちらに視線をやるとスマホを持ったみくるさんがまさに立っていた。コーヒー噴きそうになった。


「うにゃあ!さむうい!とっとと開けろお!」


 近所迷惑だ!


「なっ!?ななななあにやってんだよ!?こんなとこで!」


 あわてて僕はみくるさんを招き入れた。カーディガンひっかけただけの薄着だった。


「いやあ、上手く逃げられたよ。実にいい作戦だった」


 どうやら、あの状況下を脱出してきたらしい。林原さんは厳戒態勢だったはずだ。どんな作戦だったんだ。


「いいのかよ、藤野さんと来るつもりだったんだろ!?」

「藤野ちゃんはいいんだよー、だって、あいつがいたら返事出来ないじゃん」


 僕の息が、ぴったり停まった。みくるさんは目を丸くした後、言った。


「憶えてるよ!なにっ、へーたくんは忘れたの!?」

「忘れるわけないだろ!」


 僕が言い返すと、みくるさんは本当に嬉しそうに笑った。


「待っててくれてありがとう。じゃあ答えを言います」


 言葉を切ると、みくるさんは、はっきりと僕に向かって言った。


「ちゃんと付き合おっか、わたしたち」


 

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