花待月のプラシーボ

第1話 元町のコーヒー店

 手挽てひきのミルから、中挽ちゅうびきにしたコーヒー豆を濾過紙ろかしに移す。


 笠間焼の黒いカップにセットして、IHのレンジから、湯気を噴き上げる純銀色のケトルを引き上げる。


 濾過紙の中のコーヒー豆に鎌首をもたげた細い注ぎ口を近づけて、かすかに濡れる程度にお湯を滴らす。



 それが出来ると、僕はほっと息をつく。これから豆が湿る二十秒ほどはすでに至福の時間なのだ。


 何しろ、このときに、ふわりと薫る焼き菓子のような甘い香りは、手挽きの豆でコーヒーを淹れる人間だけが味わえる特権なのだから。


 飲むときにはこのふわっとした香りは、もう喪われてしまう一瞬の幸せだ。




 親父が経営しているこの店には、業務用のローストマシンがある。


 普段はほとんど店にいず、あてのない海外放浪に人生を費やす親父のお蔭で僕はこの機械の使い方をしっかりと憶えてしまった。


 ちなみに僕が好きなのは、中煎りのアメリカンローストだ。


 まだ明るいレンガ色ほどのこの煎り方は酸味が勝つコーヒー豆でやると、思わず笑顔になるほど美味しいのだ。


 さてと、時間だ。豆が蒸れたら、僕はケトルでお湯を注す。


 ふっくりと水分で膨らんだコーヒー豆の山を、枯山水を整えるみたいにして崩していくのだ。


 ドリップすると、濡れた海の砂を思わせるコーヒーの山が、さりさりと音を立てながら沈下していく。


 穴が出来た分、周囲は切り立った山になる。後はその山を崩しては山を見つけての繰り返し。こつを掴めばそう、難しいものじゃない。


 こうして出来るコーヒーが一杯、三百二十円。山の手にほど近い横浜元町の一等地にしては、破格の値段だと思う。


 個人通関の資格を持っている母が仕入から販売まで一手に引き受け、僕が顧客管理をしつつネット通販の開拓をしなければ、お店だけではとても食べてはいけない。よく毎月生き残っているものだ。


 三月の売上もさんざんだった。

 お蔭で僕は、店番をしながら大分受験勉強が進んで助かったのだが、そもそも進学できない経済状況になったりすることもあり得る。


 ともかくもうちょっと、気候がよくなればなあ。僕は思わず三月の冷たい雨に打たれている、街灯の下で咲く白梅を恨めし気に眺めた。


 今は深夜だ。がらんとしたフロアの奥の席に、僕はカップを持って座り込んだ。モバイルを開いて、諸々メールの処理を行う。


 アドを区別していないので、お客さんのメールと個人連絡が混じってるから大変だ。父親は海外に知り合いが多すぎる。


 そのほとんどがどうでもいい連絡や消息の問い合わせばっかで正直迷惑している。


 そんな親父も、今、フロリダの知り合いからのメールで、ようやく生存が確認された。どうもワニ肉を使ったジャーキーの輸入を画策しているらしい。また夫婦喧嘩だ。


 熱く香るコーヒーを飲んで一気にストレスを吐き出す。


 受験勉強の合間の残務処理もこれで、あらかた済んだ。商品の発送メールは送ったし、返信もいくつか済ませたので後は、山のようなDMをゴミ箱に捨てるだけだ。


 削除ボタンをクリックしながら、スクロールで流していると、いらないメールの間に、いつもは見慣れない一通が紛れ込んでいるのを見つけた。



 件名:や・っ・と・帰・国☆


 僕は急いでメールを開いた。心当たりがあったのだ。やっぱり、待っていた連絡だった。親父に返すはずのメールもそっちのけに、僕は文面に目を走らせた。


 誰にも言えない。それは僕が、寒い冬が終わって桜が咲くのと同じように、待ち焦がれていた約束についてのものだったのだ。


 僕はふと、向かいのテーブルに視線を移した。あの袋小路のコーナーの一角、土壁を背にした二人掛けのテーブルの、壁側が彼女の定位置だった。



 名前は園城えんじょうみくるさん、と言う。


 みくるは何と、本名だ。ラノベやアニメに出てくる美少女みたいなキラキラネーム。


 だけどもう二十八歳だ。しかし、中身も外見も、アラサーと言う言葉からもっとも遠いところにいる人、と言えば、何となく伝わる。いまだ十歳年上とは思えない人だ。


 職業は、なんと漫画家さんである。僕が知っているだけで、二、三本の連載は抱えているはずだ。


 しかし放浪が趣味なので、しょっちゅうヨーロッパに古城を探訪に出かけ、妖精を探していて戻れなくなった、黒魔術の霊媒師に帰るな、と言われた、などの奇天烈な言いわけで〆切を飛ばし、編集者の人に怒られている。


 あの席でネーム(下書き作業)をやっている以外は、ほとんど編集者に追いこまれていると言っていい。どう見ても、なってはいけない社会人の見本である。


「お店、行こうと思ったら捕まっちゃいました。なので今日は行けません。原稿、また落としちゃうかも☆」


 しょうもないテンションの文章に僕は頭を抱えた。この人に反省と学習の二文字は、通用しない。他人事ながら、ため息が出る。いや、今回は他人事じゃないんだった。


 僕は、こんな人を好きになってしまったのだ。




 元々、みくるさんはチェコかルーマニアかの山道で、親父が拾ってきたのだ。


 まるで魔女が出そうな鬱蒼とした森を車で流していると、一見高校生かと見間違うような三つ編みで眼鏡の女の子が、バックパック一つでヒッチハイクをしていたと言う。


「人さらいから、逃げて来たのかと思ったよ」


 父親の第一印象は、そのまま僕が見たみくるさんだ。


 お店に初めて来た日のことを、僕はよく憶えている。その頃まだ、みくるさんは、ただのヨーロッパおたくのバックパッカーだった。


 ほっそりした手足や肩幅がえらく華奢で、人形のようだった。


 大人の色気ゼロな容姿のせいもあって、ひどくちんまりしていて、遠くから見かけるとほとんど高校生くらいの女の子にしか見えない。


 イメチェンと言う言葉を知らないのか、いつもアプリコットブラウンに軽くブリーチをかけた髪を束ねて、後ろに二本、三つ編みにして垂らしている。


 デニムかカーディガンの上っ張りの下は、大体、丈が長くて動きにくそうな暖色系のふわふわスカート。


 昨今、ヨーロッパは人身売買の犯罪が流行っているそうだ。僕が誘拐犯のメンバーならみくるさんを、十数秒で拉致する自信がある。


 驚くべきことに、さらには方向音痴だ。この地元横浜でもスーパーに買い出しに出ると、ちょくちょく徘徊はいかいしているみくるさんに出くわすことがある。


 〆切に追い詰められてパニックになったみくるさんは、自力で仕事場にも帰れないのだ。


 よく何度も単独で海外を放浪できるな、と思う。


 だがそれくらいの情熱があるからこそ、日本で漫画家と言う職業が成り立っているのは、彼女にとっても幸運と言う他ない。一般社会人の生活は、天地がひっくり返っても無理だ。



 

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