第5話 この春一番の歌は

 それからほどなく、A Past Day Singsは、二人組になった。レーベルを脱退したと思ったら、すぐに別会社に拾われてシングルが出た。


 わたしと九王沢さんだけが知っている。それは遠也があのとき谷中墓地でギターをつま弾いていた、途中まで描かれたばかりの歌のない曲の行く果てだったのだと。雪村詩歩に歌われて、その曲は誰の耳にも訴えかける作品になっていた。

 彼らは二人で一つ、だったんだと思う。二人の中で在りし日が、再び歌い出したのだ。


 そして桜満開の頃、わたしたちは再び谷中を訪れた。今度は文芸部の花見だ。九王沢さんと下見しただけあって、その日は一番いい場所がとれた。

 有線から、雪村詩歩の声が流れている。


 止めないで

 ボートを漕ぐ その手を

 在りし日に戸惑ったわたしを許して

 もうすぐ わたしたちの湖に月が満ちる

 接唇くちづけ

 ほら わたしたちの日々が歌い出すよ


「『湖上』ですね」

 九王沢さんは言うとわたしの隣で、一節を口ずさんだ。『在りし日の歌』にあると言う。


 ポッカリ月が出ましたら、

 舟を浮かべて出掛けませう、

 波はヒタヒタ打つでせう、

 風も少しはあるでせう。


 月は聴き耳立てるでせう、

 すこしは降りても来るでせう、

 われら接唇する時に

 月は頭上にあるでせう。


 全然、桜ソングなんかじゃないのに、この春一番のヒット曲だ。どうしてだろう、その切ない声と淡いメロディは確かに、この春に、再び新しい恋を始めてみたくなるような、そんな気分にさせるのだ。


「二人の新たな、船出の歌ですね」

 九王沢さんは、わたしにそう言って微笑んだ。

「せっ、先輩!ぬああにやってるんですか!ここ、他人様のシートですよ!」

「ああ、ごめん。こっちでもっとよく、有線の歌が聴きたくて。(全然、反省してないな)…ほら、雪村詩歩じゃん。この子、すごいよな」

「先輩」

 わたしは、那智先輩を睨んで思いっきり言ってやった。

「馬っ鹿じゃないですか?」

「ええ、なんで!?いい曲でしょ!?」

「馬鹿だよね、九王沢さん」

「は、はあ…」


 あの日の謎をかけるように、わたしは九王沢さんに微笑みかけた。この曲は、雪村詩歩だけの手柄じゃない。どうしてパストが二人組になったのか。そんなことも、知らない癖に。


 でも那智先輩なんかに話してやるもんか。あの日、あったこと、それはわたしと九王沢さんだけの、この春一番の思い出なのだ。



 ※『湖上』『在りし日の歌』(1938年)より。『中原中也詩集』(新潮文庫)より引用しました。

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