第4話 在りし日の歌はまだ
「君とは感性が合う、でも…康生とは気が合うんだと思う」
躊躇していたが詩歩はやがて息苦しそうに、それを答えたと言う。
「君は確かに、わたしの運命の人だよ?…でも、わたしはもう、康生に望まれてしまっている。運命の人だと言われてしまっている。そしてわたしはと言うと、想うより、想われることに満たされてしまっている。…これは、どうしようもないことなんだ」
「詩歩さんは、康生さんと結婚しました。…今、バンドが休みなので、沖縄へ新婚旅行に行ってるはずです…」
遠也から、負のオーラが漂っていた。うう、切ない。そして、思わぬ芸能スキャンダルを聞いてしまった。
「それで僕も、バンドを辞めます」
「そうなんだ…って、ええっ!?それはっ、ここで話していいこと!?」
この子、爆弾発言が多い。聞き流すところだった。
「音楽辞めちゃうの!?」
「いえ、別の会社でソロでデビューします。以前から詩歩さんにも、言われてたんです。ギターだけ弾いてないで、自分で曲作りもしたりボーカルもとってみたら、って。迷ってたけど今度のことで決意したんです。さっきの曲はそれで」
遠也は空で運指をしてみせた。
「え…じゃあ、もしかしてクビになったの?まさかその、小林康生のせいで?」
「まさか」
と、遠也は一度、軽く笑い飛ばした。
「でも、ずっと、考えてはいたんです。パストは二人のバンドだし、僕だって詩歩さんから折角教わったんです、自分の音楽をやってみたいです」
わたしはつい、下世話なことを聞いたが遠也は、誰の悪口も言わず、むしろあっさりとしていた。
「まだ、作りかけなんですけど。詩歩さんがすごく気に入ってくれて」
バンドと同タイトルの曲が、雪村詩歩は書こうとして、果たさずにいたと言う。
「『在りし日の歌』ですか?」
「そう、A Past Day Singsです。本当は出来たら今のバンドで演奏しようって、言ってくれてたんですけど、それももう、かないませんね」
遠也は寂しそうに笑った。
偶然だけど何だか、わたしたちはとんでもない瞬間に立ち会ってしまったんではないか。名物のオムライスが来たけど、そっちのけで話を聞いてしまったじゃないか。お蔭で料理の味も判らなかった。
「色々、お話聞いてくれてありがとうございます。またどこかで見かけたら、声を。かけて下さい」
と、礼儀正しくお辞儀をする遠也。
わたしは、ちょっとこの子を誤解してたと思った。話しただけの印象だけど、巷のバンドマンと違って呆れるほど一途な子なのだ。
「九王沢さん、突然声をかけてすみません。でも、最後にいいですか?」
遠也はあどけない瞳を歪めると、意を決したように言った。
「あなたが。僕にちょうど詩歩さんと同じことを言ってくれたんです。『初めて聴いたのに懐かしくて、なぜかどんどん、メロディの先を追いたくなってしまう』。だからあなたに聞いてみたくて。このメロディの先を。…でも、自分の曲です。もう少し自分で、追ってみたいと思います」
深く、一礼した。もう一度、彼は、あの、誰もいない谷中の墓地へ戻って独りで作曲を続けるんだろう。そう思うと遣る瀬無かった。
「待って下さい」
そう、九王沢さんが言い出したのは、そのときだった。
「じゃあ、わたしからも最後に言わせて下さい。詩歩さんがあなたの想いを、振り切った台詞。…あれには出典があるんです」
はっと息を呑んで、遠也が振り向いたのはそのときだった。
「『中原と君は、感性が合う。でもおれとは、気が合うんだ』。これは小林秀雄が、長谷川泰子を口説いた台詞なんです。『どっちを取る!?』すかさず迫られた泰子は、小林秀雄を択びます。…しかしその愛は、二年半しか続きませんでした」
それでも中也は変わることなく、泰子を想ったと言う。昭和五年十二月に泰子に子が生まれた時も、息・茂樹の名付け親になるほどだった。
「わたしは中也と泰子の関係をみて、考えるんです。確かに運命がすれ違い、二人は別の人と添い遂げました。でも二人の関係は中也が三十歳で亡くなるその瞬間まで、永遠のものでした。想うと言うことは、ただの形ではないのではないでしょうか。わたしも愛している人がいます。彼とずっと一緒にいたいですし、そのためには結婚をしたいとは思います。でもそうでなくても、想うことは出来るんです。想うこととの、本質とは別なんです。あなたはずっと詩歩さんを好きでいていい。そう思います。だから、何が、言いたいかと言うと」
九王沢さんは、敢然として言った。
「諦めちゃだめです!」
「あなたの在りし日もまた、いつかあなたの中で歌い出すはずです。一緒に時間を過ごした、詩歩さんとも、きっと!」
「…本当だ」
遠也はそこで、寂しそうに笑った。じんわりと悲しみが沁み出すような笑みだった。
「あなたに会えて良かったです、九王沢さん」
こうして、わたしたちは路地を折れた。美術館でまったりしようと思ってたら、色濃い体験をしてしまった。て言うかあれで別れちゃったけど、がんがんリプ送って来る友達にはなんて説明しよう。トーヤくん、バンド辞めちゃったじゃん!
だが、わたしたちが数メートル歩いたときだった。
「遠也」
息せきかけて走る靴音と、切迫した声。雪村詩歩のものに違いなかった。遠也はその声に、愕然として振り向いたあと、少しうつむいた。そこに確かに、白いブラウスにジーンズ姿の雪村詩歩が立っていた。
「別の会社のオーディションに行くんだって?」
雪村詩歩は、問い質すように言った。
「誰がそんなことしていいって言ったんだ!?」
対して遠也は、
「詩歩さんも、僕に嘘を吐いたじゃないか」
雪村詩歩は、はっ、とした顔をした。
「あれは、あなたの言葉じゃなかった」
遠也は駆けつけたわたしたちを振り向くと、ぶっきらぼうに指を差した。
「さっき、教えてくれた人がいたんだ。…自分の言葉でちゃんと、言ってくれないと分からないじゃないか」
「すまなかった」
雪村詩歩は言うと、強く頷いた。
「僕は、中也じゃない」
はっきりと、遠也はその言葉を雪村詩歩にぶつけた。
「…あなたが想う運命の人でもないかも知れない。でも、ずっとあなたが好きだ」
遠也の声は、空気を震わせ、はっきりと通って堂々と聴こえた。さっきまでおどおどしてたのが別人みたいだ。へたれの先輩にも、ちったあ見習わせてやりたい。
「僕は何度も僕の言葉で、あなたが好きです、と言ったと思う。…僕はあなたから、あなたの言葉をずっと聞きたくて一緒にいたんだ。あなたは康生さんに望まれたかも知れない。でも僕は、あなたに望まれたからここにいるんだ!」
雷に打たれたように、雪村詩歩は身を震わせた。やがてこぼれたのは、小さなため息だった。そのため息は震えを帯びていたが、それはどこか温かなものだった。
「わたしは、格好悪いな。君と大違いだ。結局
雪村詩歩の目に、涙が光っていた。
「…結婚は、辞めたよ。康生が君を、クビにしたなんて言うから。ようやく自分が何を択んだらいいか、分かったんだ。新婚旅行なんてくそくらえだ」
と、言うと彼女は、歩み寄り、遠也の手を取った。
「バンドも辞めてきた。わたしはもう一度、わたしの意志でやりたいことを、堂々とやりたい。わたしが好きな遠也と。二人だけでいいんだ」
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