第3話 内気なギタリストの恋

「さっきはつい興奮して、すみませんでした…」


 遠也は蚊の泣くような声に戻っていた。


 ほっぺに見事な手形がついている。まさかあんなに、クリーンヒットするとは思わなかった。ばっちいん!てすごい音がして散歩のおばあちゃんが振り向いていた。男の癖に、ちょっとは防ぐとかしろよ。


 あれから十五分後の谷中の喫茶店である。古き良き洋食の美味しい純喫茶だ。目立たない角の席で、わたしたちは改めて向き直った。


 テーブルは二対一、面接官とバイト希望者みたいな座り位置である。


 だが何しろ油断は出来ない。さっきパスト(ファンの間ではこう呼ぶらしい)のトーヤくんといる、とLINEで情報を募ったら、逆にすっごい勢いで友達からリプが来たのだ。未知の恐怖を感じた。


 ギタリストとしての実力と人気は物凄いらしく、女性ファンはほぼ遠也推しのようだ。まあ確かにかわいいかも知れないが、と言うことは、女の子は無制限食べ放題に違いない。ちゃらいの極地である。


「ったく、一体どう言うつもりだったんですか?つい、さっき会った女の人にあんなこと言うなんて」

「ごめんなさい…あんなこと急に言っちゃって、反省してます。でもこんなに、詩歩さんと同じことをおっしゃる方、本当に初めてで…そんな人、いなかったから」


 遠也は意味深な上目づかいで、ちらちらと九王沢さんを見た。こいつ、まだ懲りてないな。


「詩歩さんと言う方は、どんな方なんですか?」

 九王沢さんは上手く話を替えた。


 すると遠也は、潤んだ目を輝かせて懐の携帯電話から(…今時ガラケーだ)例の雪村詩歩の画像を見せつけてきた。


 雪村詩歩は、襟足でマッシュルームのように綺麗に髪を切り揃えたショートボブだ。刺すようにクールな目つきをしているし、顔の造作も小作りで、一見、和風美人と言ったところだ。九王沢さんと共通点があるとしたら、背が高いことくらいだ。


「依田さんは、ご存知なんですか?」

「うん、雪村詩歩って、わたしたちと同い年でしょ?十三、四歳で一回デビューしてるから」


 実際、パストよりソロの雪村詩歩の方がわたしたちの世代には身近だ。当時、ストリートミュージシャンとか、女性シンガーソングライターが流行ったけど、雪村詩歩もその一人だったのだ。


 まだ中学生、デビューは鳴り物入りだった。

 普通の女の子のシンガーと違う、アイリッシュフォークやジャズをベースにした本格的な演奏に中原中也や谷崎潤一郎など戦中・戦後派の文学を踏まえた独特の歌詞の世界観が話題になって、わたしたちの間でコピーする子も少なくなかった。当時はこう言う独特な感じも受けたのだ。


 シングル五枚と、アルバム一枚を出した彼女は突然消えてしまった。


 両親が厳しくて学業を優先させられたとか、失恋して失踪したとか、仕事をドタキャンして契約を切られたとか色んな噂が飛び交ったが、真相は分からなかった。だが遠也によると、普通に一般人しながらバンドをやっていたと言う。


「高校の、先輩なんです。…僕が軽音部に入れなくて困ってたら、バンドやらないかって声をかけてくれて」



「君、どうせなら客前でやらないかい?あんな低劣な連中と、狭い部室なわばりを奪い合って演奏してたってしょうがないだろう」


 遠也の目に、散り際の桜吹雪をまとって現れた雪村詩歩は、天の使いのように見えた。…らしい(このときのことを語る遠也は、ちょっと退く勢いだったが、突っ込むのもめんどいので黙っていた)。


 当時から遠也のギターは図抜けていた。何せ父親が音大の教授で、母親がクラシックギターのプロ奏者と言う音楽一家だ。小さい時から国際大会で優勝歴もあるし、好きな音楽もクラシックだしで当然、高校の軽音部からは浮いていたと言う。



「でも、僕、バンドの音楽なんて聴いたことも、演奏したこともないし」

「じゃあ、演奏してみればいいじゃないか」

 遠也の尻込みを、雪村詩歩は問答無用で封じた。

「大丈夫だよ、それだけ上手ければすぐに消化できるさ。それにね、わたしは君のような人をずっと探してたんだ。…演奏が上手いのはもうけものだったがね。だが、そう言う理由だけじゃないよ」

 雪村詩歩は意味深な語尾を濁すと腕を回してそっと、遠也を抱き寄せたと言う。

「君はもう、わたしのものだ」



「情熱的な方なんですねえ…」


 影響されやすい九王沢さんは、すっかり感心している。羨ましい、とか思ってるんだろう。


「わたしも、那智さんにもっと積極的になりたいです…」

「あの、も、もう恋人さんがいらっしゃるんでしょうか…?」


 遠也が愕然としていた。馬鹿め、今さら気づいたのか。


「そんなことより、遠也くんはその詩歩さんが好きになったんでしょう?それがきっかけでバンドを始めたんだ」


 わたしが話題を戻してやると、遠也はこっくりと頷いた。それで今や人気バンドの看板だって言うんだから、まさに運命の出会いと言うやつじゃないか。


「じゃあ今も同じバンドやってるんだし、詩歩さんと、付き合ったらいいじゃない」

 と、言ってやると、遠也は目に見えてしゅんとなった。

「それは…無理なんです。詩歩さんにはもう、付き合ってる人がいたから」


 ぼそぼそと、遠也は言った。つか、あんだけ誘惑しといて、他に好きな人がいたからだとお。


「そもそも、詩歩さんがバンドを作ったのは、理由があって」



「わたしはね、遠也くん。ただ自分の音楽を売るよりも、音楽で自分の運命の人を見つけなきゃいけない。わたしの運命の人に、そう言われたのさ」


 それが一時はメジャーデビューまでした音楽活動を、休止した理由なのだと言う。中学生のわたしたちが聞いた失恋もドタキャンも、本当の話らしい。


「その人はあるとき突然、わたしの夢の中に現われたんだ」



 その男は小柄で薄汚いコートを羽織った、黒いソフト帽の男だったと言う。


 煙草の脂で汚れた指で鼻の下をこすり、よたよたとこちらへ歩いてきた。爛漫らんまんの桜の花弁が雨のように降りしきっている。


 それが地面に散り敷き、陽に蒸れて真っ白に光っていた。その反映にまぶしそうに顔を上げると男は、意外に若くあどけない顔をしていた。そしてそいつは、口汚く詩歩さんを罵ったのだそうな。


「ヤイ、おめえのざまをみろ。貴様は今、一体ここで何をしていやがるのだ」



「まるで生前の中原中也ですね」

「随分口が悪いね」

「生前は認められず、ひどい酒乱でしたから」

 わたしの突っ込みに、九王沢さんは苦笑した。

「作家の永井龍男ながいたつおさんによると、若き日の中也は『薄汚れたゴムまりをぬれ雑巾でひと拭きしたような顔』をした少年だったと言います。明治四十年(一九〇七年)山口に生まれた中也は、若くしてダダイズムに傾倒し、生涯を詩人として生きる覚悟を決めます。十七歳、京都立命館中学時代、終生の恋人、女優の長谷川泰子はせがわやすこと知り合い、以後、駆け落ち同然で同棲を始めたのも若くしてでした」

「はい、詩歩さんも言ってました。中原中也は自分の運命の人だったと」

「それで、あなたには、その格好をさせたわけですね?」

 九王沢さんの問いに、遠也は小さく頷いた。


 確かにその衣装、ステージに映えそうだが、異様だと思っていた。しかし、普段もその格好と言うのはどうだろ。


「詩歩さんは他に好きな人がいる、と仰いましたね。…と言うことは、小林秀雄こばやしひでおさんがバンドにいると言うことでしょうか?」

 九王沢さんがさらに鋭いことを言うと、達也は、はっと息を呑んだ。



 それは同じバンドでボーカリストの小林康生こばやしこうせいと言うミュージシャンだったそうな。二十七歳の小林はパストが所属するレーベルを主宰し、すでにいくつかのインディバンドを手がけていた。


 活動を休止した雪村詩歩を熱心に口説き落として、バンドに誘い込んだ張本人だったのだ。実際上、雪村詩歩は年上でバンド運営などにも長けた小林に頭が上がらなかったのだそうな。



「中也も長谷川泰子さんを、若き評論家の小林秀雄に奪われてますね。年上の小林は中也より包容力があり、何より泰子が傾倒する演劇通でした」

「そんなことより、でも遠也くん、何もしないで諦めたの?」

 強く、遠也は首を振った。

「僕も何度も告白しました。でも、詩歩さんはもう、小林さんから離れられないと言うんです」

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