第2話 花どきのこの雨が上がったら
ときは
さる東海道の雄藩の家士だった清浦本家で、仇討騒動があった。渡り中間をしていた素性の悪い男が一家の当主と夫人を寝所で斬殺し、逃走したのだ。
「必ず仇を討ってやる」
遺された息子は、江戸の千葉道場で目録を得たほどの腕利きだった。
動乱の京都に逃げ、志士崩れになったと言う間男を追いかけると故郷を出るその息子の不退転の決意に、すでに名人と謳われていた酔夢斎は、自作した木彫りの鼠と短刀を身の守りとして託したと言う。
「御家の名を
その息子は家屋敷を売り払い、二度と帰ってこないつもりで仇を探した。しかし時に幕末動乱の京都、目指す仇には何年も巡り会えない。
何度も挫折しかけ、故郷を思ったが、酔夢斎がその鼠とともに託した言葉を胸に、仇討の旅に戻った、と言う。
「かの鼠は見ての通り、火勢に
その鼠の木彫りを託すとき、酔夢斎は言った。
「鼠は命運に
事実、維新の折、その息は諦めて在所に帰ろうとしたらしい。
しかし酔夢斎の言った通り、仇討を諦めかけた清浦本家には不運が相次いで起こり、火急鼠の祟りであると言われたらしい。
その息は考え直して、新たな世にも仇を求め、敵討ちが法令で禁止される明治六年の直前についに本懐を遂げた、と言う。
「そんなことがあったんですね」
僕は九王沢慧里亜に内容を解説してもらいながら、読みにくい草書の文字を追った。
なるほど、そう言えば祖父の話していた通りだ。そう思っていると、九王沢慧里亜は僕の顔をのぞきこんで、静かな声音で断じた。
「あなたはこの火急鼠を、緑谷さんに渡しましたね」
「どうせ、あの馬鹿どもには分からん。だからお前にくれてやる」
晩年の祖父は言った。
祖父は死ぬ前の二年ほど、中風を患い、工房に入れなくなっていた。枕元に隠していた木彫りの鼠は、若い頃に彫ったのだと言う。酔夢斎が作った現物を、空襲で喪われる前、幼い祖父は、飽かずに眺めたらしい。
「これはおれが作った。お前がどうしても成さんとせんことがあるとき、こいつの口におのれの血を塗れ」
怖ろしい話だった。祖父の言う通りにする気はなかったが、思えば僕は、それからその木彫りの鼠それ自体に惚れこんだ。
「火急鼠にあなたは、緑谷さんの血を塗った」
九王沢慧里亜の声に、僕は、はっとして現在に戻される。
「逃げてみる」
嵐の中で、僕は彼女の決意を聞いた。そして彼女の傷から、鼠の口に、僕はその血を塗りつけて託した。
「でも彼女は、死んだんでしょう?」
そしてあいつが生き残った。まだ生きていたのだ。
「先日、横浜で緑谷織絵さんの遺作展が催されました」
九王沢慧里亜は、歯噛みをした僕の心根を見透かすかのように、話を続けた。
「あなたは緑谷修平に、そこで出会った」
「ひどい目に遭ったぞ」
緑谷修平は酒を飲んでいた。着ていたものにまで、アルコールまじりの反吐が沁みついているようだった。
「その鼠の呪いだと、馬鹿馬鹿しい」
織絵の失踪後、僕は彼女の身の上を調べた。
緑谷修平の父親は元、学校長の県議会議員、母親は教育委員会の重鎮だった。本人も教員だ。織絵が、この男から離れられない理由がもう一つあった。修平を怒らせれば、彼女は教員としての生活の糧を喪う。
今思えば、火急鼠を持たせたのは正解だった。
「何が火急鼠だ」
自分を睨みつけるその男が、すべてを喪ったのを僕は知っていた。
いや、皆が知っている。織絵が火急鼠をもって逃げ続けたこの一年で修平の父親は不正献金疑惑で失脚、母親も直属の部下の長年の使い込みが告発され、引責辞任に追い込まれたと言う。
新聞種になるほどのこの二つのスキャンダルでこの男自身のキャリアも終わった。火急鼠は十分に効果を発揮したのだ。
「あんた、どこまでもあの人を追いかけてやると息巻いたそうだな。望み通りに出来て良かったじゃないか。あれがある限り、あんたは『追いかけ続けなくてはならない』。織絵を追いかけるのを止めたとき、あんたは大切なものを喪っていく。あれは、そう言うものなんだ」
「ふざけるな」
出鱈目を、と言いかけた男の唇は、震えていた。
よく、分かっているのだ。この一年で自分が何によって破滅に追い込まれたのかを。
「だからどうしたんだ。死んだんだ、あの女は」
僕は男を嘲笑った。そこで、止めの一撃を放った。
「らしいね。でもその火急鼠、今は僕が持っている」
もちろん嘘だ。でも思い知ったろう。
「あんたの呪いは死なない」
噛んで含めるように僕は言った。
「これからもあんたは、ただただ、喪い続ける。なすすべもなく、な。最後にその命が喪われるまで」
愕然として言葉もない修平に僕は言った。
「百万で売ろう。みじめな死に方をしたくなかったら。織絵が通ってた桜の森で、正午に」
「緑谷修平は来ません」
だから自分が来たのだ、と言わんばかりに九王沢慧里亜が言った。
「亡くなりました。今朝、交通事故で」
「そう」
もう運の尽きだったみたいだ。乾いた笑いが出た。
「だから、あなたが復讐を遂げる必要もありません。織絵さんの代わりに、殺人の罪を犯してまで」
笑いが止まらなかった。いいだろう、僕は工具入れのバッグを引っ繰り返してみせた。そこに清浦酔夢斎が、火急鼠とともに託した仇討の短刀が忍ばせてあったのだ。
「どうして分かった?」
僕は尋ねた。
自分の存在のことだ。
社会的に見て、緑谷織絵と僕はなんの接点もない関係だった。
あの男も、織絵が火急鼠の呪いの話をしなかったら、僕を認識することすら出来なかっただろう。だからこそ僕は、最後には自分の手で彼女の仇を討ってやろうと思ったのだ。
「織絵さんはスケッチを残してました。ここで描いたものだと思います」
九王沢慧里亜はそうして、スケッチブックを取り出した。
そこに描いてあるのは、僕の手の中で育まれていたのと、同じ種類の鳥の姿だ。
「これは、僕がいなくても描ける。そもそも織絵は自分でこの場所を見つけたんだ。彼女がこの絵を一人で描いていたとは?」
「いえ、この絵は彼女が自分のために描いたものではありません。誰かのために、描いたものです」
九王沢慧里亜は言うと、スケッチブックをめくった。
僕は思わず息を呑んだ。この手彫りの鳥と同じように、この桜の梢を渡る姿、尾羽を震わせた後姿、あらゆる角度からあらゆる表情でそれが細密に描かれていたからだ。
「これはデッサンではありません。造形の下書きです」
僕は、言葉もなかった。完全にその通りだ。木彫に限らず、彫刻は削り出す前に下絵としてスケッチを起こすのだ。
「彼女が、これを、僕に…?」
信じられない思いでこれを受け取りながら、僕は尋ねた。
九王沢慧里亜は日向のような微笑みとともに、大きく頷いて見せた。
「はい。だからわたしは彼女がここで、一人でデッサンをしていたのではない、と言うことに気づいたんです。そして恐らくその人物は、同じ美術でも造形を志している、と」
震える手で、僕はページをめくった。
いつの間に。こんなに詳細に、頼んでもいなかったのに。涙をこらえていると、九王沢慧里亜は驚くべきことを口にした。
「彼女は今も毎日、これを描いています。そしてわたしにも話していました。まだ思い出せないけど、果たさなきゃいけない約束がある、と」
毎日。僕は、息を詰まらせた。
「彼女は…?」
「生きていますよ。緑谷織絵の記憶の回復はまだ不十分ですが、その下絵は描いています」
思い出した。
満開のうららかな晴れの日、僕たちは珍しく出逢ったのだ。
「あ、あれウグイス」
たわわに咲いた桜の梢を渡って、雀ほどの小さな鳥が花を求めて歩いていた。
ふっくらと円みを帯びた身体に、綺麗な明るい緑色の羽毛。いつかあれを作って欲しい、と彼女にせがまれたのだ。
「よしっ、わたしが下絵描くから」
待ってて。
織絵は一生懸命、花に隠れては出てくるその鳥を追ったが、スケッチは完成しなかった。
「ご馳走様でした」
ぐい飲みを置くと、九王沢慧里亜は僕にメモを手渡した。
「緑谷織絵さんは、この病院でリハビリをしています。もし良かったら、顔を観にきてあげてください。必ず、あなたのことを思い出すと思います」
織絵が生きている。
僕は震える手ももどかしく、そのメモを受け取った。
ぱらつく雨はそのときなくなり、雲が白く光を帯びて来ている。雨露が光る桜の花の群れから、そのときあの小鳥が一羽飛び出した。
「これが、ウグイスですか…」
「違いますよ」
僕は即座に、言った。
「あれはメジロです」
九王沢慧里亜は、目を丸くしていた。彼女もまた、勘違いをしていたのだ。
「ウグイス色が緑色だと言うので誤解されますが、桜の花の蜜を吸うのはメジロだけなんです」
そう言えば勘違いを指摘すると、織絵も目を丸くしていた。今の彼女はまた、思い出してくれるだろうか。満開の桜の森で下でした話、二人で愛したささやかな静寂を。
「このメジロが出来たら、行ってみます」
九王沢慧里亜は、美しい笑みを浮かべて頷いた。
彼女が去って一人、僕は制作を終わらせることだけに没頭した。
(行こう)
桜が散る前に。僕たちの出逢った季節が、また巡ってしまわないうちに。
そのとき、静寂に息を潜めていた僕たちの時間がまた動き出すのだろう。
やがて空も晴れてきた。
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