火急鼠

第1話 桜森の出会い

 そこでは何もかもがただ、息を潜めている。


 満開の桜の森に、花曇りの雨が降ると、時間ときが鎮まる。まるで海流のように揺れて動いていくこの世界の時間が密かに示し合わせて、一旦足取りをとめてみた。そんな風に。


 全ては時季に感じて咲く、この花が産む純白の静寂のせいだ。


 手に載せたらそのまま溶けていきそうな、桜の花叢はなむらの淡い気配。


 このいおを満たす香気は確かに在るのに、在ることを悟られぬよう、そっと静まり返っている。

 砂利くさい、雨の香りすらそこに溶かしてしまう。


 例年通り、僕はそこで、黙って木彫に刃を入れていた。

 人の来ない八幡の廃社の裏手にあった公園だった。


 桜見頃の雨の日は、よほどひどくない限り僕は、この棄てられたみたいな四阿あずまやに来る。


 工具入れの手提げバッグに、スーパーで買ったお惣菜とおにぎり。それに小瓶の日本酒。一日中いる。学校を辞めてからは、遠慮も会釈もなくなった。


 僕はそこで、亡くなった祖父の工房から持ち出した木材を削っては、制作を続けていた。手の中の小ぶりな鳥は、置いておけば冷たく硬い木塊に過ぎない。


 しかし人肌で温もれば、羽根の毛羽立ちが不思議な命の温かみを帯びてくる。


 その日も、冷えた手を温めながら、僕は木彫をいじっていた。まだこれは粗い。辛うじてそれが鳥の羽毛と分かるくらいだった。



 そんなときに、彼女が現れた。



 梢を渡る鳥は、騒がなかった。


 まるで桜の花叢を思わせるように、それはこの世界に純白の空白を作るような、風貌の持ち主だった。


 長い黒髪の光沢艶やかな彼女は淡い花柄のスカートに、白いスプリングコートを羽織っていた。なのに、僕には彼女が黒と白のコントラストばかりで構成されているように見えたのだ。


 ほんのり血の気を帯びたばかりの肌は、桜の花びらの危うい淡さだ。僕はむしろぎょっとした。思わず息を飲んだほどだ。



清浦一水きようらかずみさんですね?」


 彼女は僕の名前を呼んだ。発声の仕方も声音もほとんど、想像した通りだった。


「わたし、九王沢慧里亜くのうさわえりあと申します。亡くなった緑谷織絵ろくたにおりえさんのお友達ですね?」


 僕は黙って頷いた。



 何者なのだ、とはあまり思わなかった。


 ただ僕は、彼女が四阿に入りそこに腰かけるのを見ていた。すると九王沢慧里亜は四阿に入った途端、なぜか薄く目を閉じたのだ。



真桜まざくらですね。入った途端、とてもいい香りがしました」


 僕は密かに驚いた。

 やはりだ。今、彼女は香りを聞いたのだ。満開の桜が群れるこの四阿で、削られた桜の生木の肌の匂いを。


「趣味なんです。亡くなった祖父が木彫やってて、余った木材が工房に」

 僕は放りかけの工具を一瞥いちべつすると、手の中に隠していた木彫りの鳥を見せた。


 今、彼女が言ったが、桜材は本当の桜とかばをはじめとしたカバノキ科の木のものに分かれる。前者を真桜と言う。削りかすの匂いばかりでそれと分かったのは、彼女が初めてだ。


「御祖父は…人間国宝の清浦劉吾きようらりゅうごさんですね?」


 僕は黙って頷いた。

 僕の名前を知っているのだ。木彫の造詣といい、当然分かってて、ここへ来たに決まっている。


「じゃあ、あなたがその後を?」

「あくまで趣味です。祖父みたいな人間になるな、と言うのがうちの家訓ですから」

 僕はにべもなく首を振った。


 その世界では偉かったかも知れないが、結局は家族の厄介者だった祖父みたいになるつもりは毛頭ない。


「それより一体、何の御用ですか?要は、さっき言ってた緑谷さんのことで?」


 僕が尋ねると、九王沢慧里亜は小さく頷いた。


「亡くなられました」

「どこで?」

 突きつけるように問うと、彼女は質問を返してきた。

「緑谷さんの失踪は、ご存知だったのですね?」

「ええ、まあ」

 僕はそっけなく、頷いた。


 今のはいつ、ではなく、どこで、と答えたので、事情を知っている、と察知されても、仕方がないことだ。


 僕はぶっきらぼうに答えた。


「大分苦しんでいたみたいだった。家庭を持った人間から、暴力を振るわれ続けていたから。だからもしかしたら、最後に会ったのは僕だったかも知れないな」



「逃げるんだ。なるべく遠くまで長く、出来るだけ見つからず」


 僕は自分が最後に言った台詞を思い出していた。ちょうど、去年の今頃だ。


 花冷えのひどい曇天で、雷がどよめいていた。


 午すぎ、どっと降った。それでも彼女は来た。織絵はいた。何か訴えても届きそうにない楚々としすぎた唇が切れて出血し、額に紫色のあざがあった。



「毎日言われた。逃げられないし、絶対に逃がさない。逃げれば、巻き込む人間を増やしていく。こっちは痛くも痒くもないんだ、って」



「言わせておけばいい」

 と、僕は答えた。

「でも、これだけは言える。逃げ切ればあんたの勝ちだ。信じるも信じないも自由。後は、自分で決めればいいよ」

 こうして僕は袱紗ふくさに包んだ『それ』を、彼女に手渡したのだ。



「どうぞ」


 九王沢慧里亜は、そう言うと何か包みをこっちにすすめてきた。


 どこか神妙な表情だった。開けてみると、手作りらしい桜餅が四つ、綺麗に入っている。なんだ、何の変哲もない。


「緑谷さんがあなたが中退した学校の教師だったことを、あなたは知っていましたか?」

「いや」

 僕は乞われるままに端から一つ、その桜餅をつまみあげると、首を振った。



 僕たちがここで逢っている間に、僕がそれを知っていたか、と言えば答えはノーだ。僕自身、別に何の思い出もなかった高校を辞めて、すでに何年も経っている。



「あの人は画家だって聞いた。画家にも色々あるから、深くは聞かなかったけど」

「緑谷さんは美大を出た後、公募展でいくつもの賞を受賞しましたが、高校教諭の資格を取り、市内で教鞭を採っていました。清浦さんの県立高校には非常勤の講師として、赴任されたようですよ」



「非正規なんだ」


 桜の花弁の浮いた吟醸酒ぎんじょうしゅの入ったぐい飲みを、彼女はとても大切そうに手のひらで愛撫していた。


「だからこんなところでお酒を飲んでたら、仕事クビになっちゃう」


 彼女から、冗談とも自己韜晦じことうかいともつかないそんな台詞を何度か、聞いた。


 教員にも非正規があるとは、知らなかった。だが最近では、教員採用が厳しくなり、臨時の補充要員として講師と言う形で教員免許資格者を雇うことが、珍しくはないと言う。


「詰まらないかも知れないけど、ちゃんと、普通の勉強もしといた方がいいよ」


 織絵はお節介だった。彼女も美術系の高校に進学したかったところを、両親に説得されて、行きたくもない普通科に三年通ったらしいから。


 大検を取ったらと、かなり具体的な提案をされたこともある。勤務先の元生徒だ、お節介も当然か。自分が辞めた高校の名前を言った時、彼女は確かにはっとしていた。



「どうぞ、お返しに」


 九王沢慧里亜も、杯は拒まなかった。祖父が愛用していた皮鯨かわくじらのぐい飲みに、僕は桜餅のお返しをなみなみと注いであげた。


「美味しかったですよ、桜餅」


 そのとき世辞ではなく、きちんと言ってあげると、美しい顔が一瞬、綻んだ。さっき、変な顔をしていたのはそのせいだろう。察してあげたのは正解だった。


「わたし、生まれて初めて作りました」


 彼女はイングランドから来たばかりで、英国人のクォーターらしい。確かに目の形や乳白色の肌の質感は、日本人離れしたものを感じた。


「それにしてもあの人が先生だって、知らなかったな」


 僕は九王沢慧里亜に、若竹煮わかたけにをすすめながら、吟醸酒を口に含んだ。


「先生だって分かってたら、お酒なんか勧めなかった」



 僕たちが初めて会ったのは、春先、雨の降る土曜日だった。しかし、花冷えの曇天が続くうち、彼女は平日もそこに来るようになった。最初は新しい職場に馴染まない、と言う話だったと思う。配偶者からの暴力について、相談を受けたのはその後だ。



「緑谷さんは明らかに、配偶者から理不尽な暴力を受けていました。彼には別の女性と、一度、離婚歴がありました。その際に、医師からカウンセリングと治療を受けていました」



 境界性人格障害きょうかいせいじんかくしょうがい


「その男はそう診断されていたわけだ」

 九王沢慧里亜は、小さく頷いた。



 確かに織絵から聞く、その男の話は異様だった。男は織絵が自分の人生に必要だと涙ながらに掻き口説きながら、反面突然暴力的になり、まるで物でも扱うように彼女を殴った。


「境界性人格障害は、一説には愛着形成の不全から起こると言われています。過度に干渉する親や、逆に必要な愛情を与えずまったくの教育放棄を行う親に育てられた場合、正常な人間関係の形成が出来ないまま、大人になってしまうと言うケースがあります。


 その場合、見捨てられたくない、と言う不安から、恋人や友人に過剰かじょうな依存を行い、暴力を振るうようにまでなったりする傾向があるそうです。


 この種の人格障害は、本人が被害を訴えることはまずありません。配偶者の、うつ病を始めとした症状から、最後には暴力被害の訴えに到るのが、一般的だそうです。緑谷さんのケースもそれに当たるものと言えます」



「逃げられない」


 肩を小刻みに震わせ、それからの織絵はいつまでも泣き続けることが多くなった。


 桜の森の静寂は消え去り、嵐と雷鳴の轟きばかりが、彼女の荒れ果てた心と自己否定の乱脈に、寄り添うばかりだった。


「答えて」

 僕のシャツを掴みながら、ときに織絵は訴えた。

「わたしが悪いの!?わたしが悪いからこうなったの!?」



「境界性人格障害の配偶者を持つと、非常に必要とされ評価される反面、暴力に走ったときに、それは全否定されます。大好きと大嫌いが、脈絡なく繰り返されるのです。そうしていくうちに本人の強い見捨てられ不安が、配偶者に伝染うつっていくのです。


 結果、人格障害の配偶者を持った健常な人が『この人には自分しかいない』と想うようになり、理不尽な暴力を甘んじて受ける共依存きょういぞんの状態に陥るのです」



「僕は彼女に逃げろ、と言った」

 僕は、大振りのたけのこを箸でつまみながら言った。

「専門の人から見てそれが正しい措置なのかどうか、よく分からなかったけど」

「あなたの助言は、緑谷さんにとって間違ったものではなかったと思います。事実、共依存の状態に陥ってしまうと、自分の本当の価値判断を取り戻すのが難しくなります。冷静に相手と自分との感覚の違いを見極めるためには、その人から一定期間隔離することが必要になります」

 九王沢慧里亜は言うと、持っていた手提げからまた何かを取り出した。

「しかし、あなたが彼女にしてあげたことはそれだけじゃなかったはずです」

 手に取ってみるとそれは、一冊の古い和綴じの草紙だった。

「これは?」

「ここを見て下さい」

 九王沢慧里亜は本を開くと、とある一か所を挿した。

「これはあなたのご先祖のお話でしたね?」



 それは江戸時代の珍事奇譚を集めた覚書おぼえがきである、と言う。


 よく出来た木彫の動物がいなないて吉兆を告げたとか、廊下が池になって鯉がはねたとか言う話はいわば江戸の流行りで、読み物や座談として楽しまれたと言うが、これもその類いだろう。


 だが僕は九王沢慧里亜が指し示す項をみて驚いた。


火急鼠ノ事かきゅうそのこと


 と言う話だ。題そのものよりも、僕が驚いたのは、話の語り手のことだ。『清浦酔夢斎きようらすいむさい』とある。


「これが僕のご先祖?」

 九王沢慧里亜は、しっかりと頷いた。


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