第24話 靜子のビバ・ラ・ビーダ
「靜子にとっての『ビバ・ラ・ビーダ』…?」
児玉さんは、目を白黒させてつぶやいた。
「そうです」
対して九王沢さんは、いつもの天使の笑顔で頷いた。
「靜子さんの遺作、いわゆる絶筆です。それは必ずどこかにあり、すうちゃんに向けられた靜子さんの形見になっているはずなんです」
「…はあ」
珍しく、児玉さんは要領を得ない返事だ。
言うまでもなく、困惑しているのだ。
何しろ靜子は動画で、児玉さんに託した、と言っているのだから。当然、唯一の手掛かりは児玉さんのはずなのだ。
しかし肝心の児玉さん自身が、今初めてそれを訊いたと言うのだから、どうにもならない。
「さあ、児玉さん、答えて下さい。靜子さんの『ビバ・ラ・ビーダ』はどこにあるんですか?」
「お願い、答えて児玉さん!」
「えっ…いや、そんなっ…急に言われても」
九王沢さんと涼花、二人に詰め寄られて児玉さんは、じりじり後退した。
「確かに、スイスから日本へ送り返された荷物などはこっそり保管してましたけど、その大部分は東京のオフィスなんです。多少こちらに移したものもなくはないですけど、お嬢さまが仰られているようなものは、恐らく見当たらなかったと…」
「うそ!児玉さんまだ、何か隠してるんでしょ!?」
涼花は、容赦しない。
「か、隠してないわよ。本当に知らない…」
児玉さんは壁に追い詰められていた。ぐいぐい来る二人から視線を逸らすと、うめくように言った。
このままだと、児玉さんがかわいそうだ。前のめりの二人に代わって、僕が事態を整理する。
「確か映像は、一週間前の日付になってたんですよね。と、言うことはその間の、児玉さんと靜子さんのやり取りに鍵があると思うんですけど」
「そうですね…」
児玉さんは持ち歩いているスケジュール帳を、ぱらぱらとはぐった。
「この一週間、靜子との荷物の遣り取りは一件だけです。ここに来る直前…ですから四日前、さっき涼花に見せたメキシコ彩陶の首飾りを送ってもらったときです。そうだ、そのとき、靜子から向こうで使わなくなったものを送るのでついでに処分を頼まれたかな…」
「その荷物は東京ですか?」
九王沢さんがすかさず尋ねた。
「いえ、私物と言っても、靜子の仕事関係の資料や記念品なので、ここへ送ってもらったと思います。地下一階の収納にまとめて運び込むよう、宅配業者にはわたしから、指示してます」
「それです!」
二人は一目散に、地下倉庫に向かった。
あわてて駆けつける僕も児玉さんも、大変である。
それにしても靜子邸には何と、エレベーター付きの地下室があったのだ。資料庫のようだが、まるで美術館のようだ。
その薄暗いフロアに行くと、まだ荷解きされていない段ボールが山と積み重ねられていて、まあ、見ただけでうんざりすること。
九王沢さんと涼花、二人がやいのやいの騒ぐ中、男の僕が段ボールの荷卸しをしていちいち中を検めた。腰にきた。倉庫管理のバイトをしているみたいである。
「あの…涼花、もし出来たら、今日中に弁護士さんとお話してほしいんだけど…」
「後にして!」
涼花、やりたい放題だ。
事情が事情なので、児玉さんも強く言えないところが、弱みである。
結局、薄暗い地下室でしばらく粘ってみたが、それらしい包みは見つからない。と、言うかここには、日付の新しい荷物はほとんどなかったのだ。
「ここにはないようですね…」
残るは皆、靜子の生前のものだ。無駄を悟り、九王沢さんは判断した。
「やっぱり、東京の方なんでしょうか…?」
すると涼花は急に、しゅんとなって声をひそめた。
「残念だけど涼花、その件はわたしが責任もって探しておくから…」
恐る恐る児玉さんが切り出そうとした。そのときだ。
「二人ともどうしてこんなところに…あれ!お嬢さま!?まだいらっしゃったんですか!?」
夕食の支度を整えた香名子さんたちだ。何やら大がかりにやっている僕たちが気になって、様子を見に来たのだろう。
「スイスから、最近来た荷物はないですか!?」
涼花が勢い込んで訊いたが、二人はきょとんとした顔である。やっぱりだめだと思った、そのときだった。
「あ、わたし、心当たりあります」
おずおずと手を挙げたのは、香名子さんだ。
「あの…実は事件のさなかでお知らせできなかったんですが、お昼に成田空港の通関業者から連絡があって。荷物が一個、四日前から税関検査に引っかかったままになっていたそうなんです。それがやっと昨日通関出来たので、夕方には到着すると言うお知らせだったんです」
「荷物は!?」
「は、はいっ、あの後、皆さんが話している間にお母さんが対応したらしくて、裏口から二階の空き部屋に」
それだ。
僕たちは、息せき切ってアトリエ近くの休憩室に飛び込んだ。
すると確かにこの前までなかった大きな包装が、壁に立てかけてあった。
宛名は児玉さんだが、連絡先はこの奥久慈の屋敷の番号になっていた。九王沢さんと僕で補強の紐を切り、包みを剥がしていく。
(これが広瀬靜子の遺作)
世界でたった一枚、涼花のために描かれた靜子の『ビバ・ラ・ビーダ』。
涼花はその前に座って、相対するときを待った。それこそが、正真正銘、亡き母の、最期の贈り物だ。
「準備はいいですか、すうちゃん?」
はっきりと、涼花は頷いてみせた。
そこで僕と九王沢さんでかけられた最後の幕を下ろした。
その豊かな色彩が、こぼれでてきたときのことを僕は、忘れられそうにない。
誰もが、息を呑むはずだ。
白いワンピースを着た涼花が、そこでそっと目を閉じていた。服は襟元まで。これ以上ないほどに細密に、そして慈しむように描かれた大きな涼花だった。
美しい生え際のラインに細かな後れ毛が、そよいでいるのまで分かる。
下からのきらきらとした反映が、涼花の表情をより鮮烈なものに見せている。
瑞々しい光沢を孕んだ唇を少し綻ばせ、その涼花は気持ちよさそうに風を感じていた。
背景は水辺、海だと思う。アクアブルーの色調に光の珠がこぼれんばかりに
ひと目で涼花と分かるが、誰にも表現できない涼花がそこにいた。恐らくどんな大物カメラマンだろうと映画監督だろうと、この瞬間の涼花を切り取ることは出来ないだろう。僕もただ、茫然とその絵に見入ってしまった。
涼花へ
とだけ、書かれた便箋の切れ端が一枚だけ、同封されていた。
「お母さん…」
そっ、とつぶやくと、涼花はその便箋の切れ端を胸に抱きしめた。
その目が薄く閉じられるとそこに、靜子の描いたのとまったく同じ涼花が現われた。
しかしその唇は、固く閉じられていて、綻んでいかない。深い息ばかりが、そこからこぼれ出た。
「これが靜子さんの『ビバ・ラ・ビーダ』…」
広瀬靜子畢生の絶筆を前に、さすがの九王沢さんも茫然としていた。ただ、嘆息するばかりだった。
フリーダ・カーロは一九五四年七月一三日の夜、四十七歳で亡くなった。
死因は
不幸な事故は、最期まで彼女を苦しめ続けた。前年の八月に
薬物療法が効かず、アルコールに依存するようになったフリーダはそれでも、自分が生きていることで彼が幸せなら、と夫のディエゴを想い手術を決断したと言う。
確かに何度も、裏切られた。しかしフリーダは最期まで、夫を愛していた。晩年の彼女にとって命を長らえることは、何より夫、ディエゴのためだったのだ。
彼女の絶筆は、その苦しみの最中に描かれた。ブランデーが鎮痛剤代わりだったこの頃のフリーダにとって、食事も酒ももはや、最期の瞬間を引き延ばしにする気休めでしかなかった。
「それでも、わたしは生き続けるのだ」
と、最晩年のフリーダはそこまでの境地に達していた。
足を切断したフリーダにとって、毎日を生きることですら苦痛であったろうが、ついに彼女はそれを「生きているからこそ」だと達観したのだ。
「苦しみたくないのなら、死ねばいい。死はすぐそこにある」
だがそれでも生きているのは、自分が生きていることで、夫ディエゴと感じられる幸せを、生ある限り惜しんでいたのである。
そんな一九五四年の七月初めのある昼下がり、午睡から目覚めたフリーダは、庭で採れた西瓜に目を留める。
死を予感した彼女の感覚は、この上もなく澄んでいたのかも知れない。
今まで苦痛でしかなかった食事が、それを象徴する食物が、どれほどかけがえのなく、大切なのだと言うことを、フリーダは死の直前になり悟ったのである。
「見せて!」
フリーダは即座に絵筆を執った。
かくして農夫が採ってきた西瓜のさまざまを、フリーダはなんの
この作品には、難解な
どこまでも青々と育ち、真っ黒い種と赤く瑞々しい果肉を孕んだ、野放図とも言えるほどに放胆な西瓜たちの姿があるばかりだ。
背景は薄い雲を散らした、真夏の青空。靜子が最期に表現したように、そこにはなんの虚飾も、狙いもない。
手前にある食べごろの西瓜のひと切れに、フリーダは黒い字でタイトルを入れた。辞世の
ちなみに日記の最後の言葉には、このように記されている。
「死が心安らかであることを望む。そして、二度と戻りたくない」
靜子も、そのように思ったと思う。
涼花にとっては一方通行だったかも知れないが、最期の想いをこそ、この一枚に託したのだ。
「『ビバ・ラ・ビーダ』、意味を知っていますか?」
九王沢さんの問いかけに、涼花は目を閉じて強くかぶりを振った。間違いもあった。苦しいことばかりだった。
それでも、靜子は、この言葉で締めくくる生を全うしたのだ。
九王沢さんは、言った。
「『人生万歳』」
靜子の自署は、額の裏側にあった。
一切の屈託ない、のびのびとした字体で描かれた『
靜子にとって、涼花が全てだった。
何よりも、その人生は遺される涼花のためにこそあったのだ。
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