第25話 二人の旅は
「遺産は相続しません」
涼花は、弁護士を前にきっぱりと言い切った。
「六園家の財産は、それを相続するに値する人間がそのときに相続して、きちんとすべきだと思います。それまでは、財団を存続してその管理を任せます。そして財団の理事は今まで通り、児玉さんにお願いします」
涼花は、児玉さんを見た。
「自分で必要なお金は、自分で稼ぐから」
「…涼花」
「わたしまず、自分の道で一人前になるから。それまで見ていてよ」
何か言いかけた児玉さんの声を、涼花は、断固とした言葉で塞ぐ。
「お母さんの次の六園家の当主として、お願いします。勝手に、いなくならないで。お母さんの次は、わたしと歩いていってほしいの」
児玉さんは、目を丸くしていた。
だが次の瞬間には、唇を綻ばせて頷いた。
それは今の涼花に、何かを感じ取って安心した、と言う顔つきだった。
そのとき僕も、部外者ながら目を見張っていた。涼花の物の言いは、今までの涼花と明らかに何かが違うと思った。
これまでの涼花は、誰か庇護してくれる存在を求めて心が色んな人のところへ
だが今、児玉さんに傍にいてほしいと言った時の口調には明確な意志の火が灯っていた。
涼花は、大人になったのだ。そしてそれは何より、お母さんに、託されたものを信じることが出来たから。
児玉さんもまた、その一人だと信じることが出来たからだ。
「分かった。わたし、どこにも行かないわ。これからもよろしく、涼花」
児玉さんが差し伸べたその手を、涼花は両手で受けた。靜子がいなくなり、二人はようやくお互いを信頼することが出来たのだ。
さてすっかり、日も暮れてしまった。
「本当にありがとうございました、お二人とも」
涼花は僕と九王沢さんに向かって、それぞれに頭を下げた。
「わたし、前よりお仕事がんばることにしました。お嬢さまのお陰です」
「良かったですね」
九王沢さんもやっと安心したのか、陰のないいつもの天使の笑みに戻っていた。
「グラビアもがんばりますよ☆…ところでお嬢さま、おっぱいが大きくなる食べ物とかって、何か知りませんか?」
「さあ…」
九王沢さんの笑みが、少し引きつっていた。
しかし今思ったが、九王沢さん自身は、自分の豊かすぎる胸については、実際どう思っているのだろう。いつか聞いてみたい気がする。
「また機会がありましたら、ぜひ遊びに来てください。今度はきちんと歓迎できると思いますから」
児玉さんも出て来て、頭を下げた。
「え、児玉さん、わたし来年も来れそう?」
「涼花?…(すっごい難しい顔に児玉さんはなった)いや…涼花は、どうかは分かりませんけど、伊東さんたちがここで記念館と宿泊所を運営したいと言うので、場所は残しておきますから。いつでも気軽にお泊り下さい」
「必ずお部屋開けときます。お代はいりませんから、ぜひまた来てくださいね☆」
香名子さんたちも、別れを惜しむように九王沢さんと僕に言った。
「て言うか泊まっていかないんですか?」
涼花はずいっと前に出て来て聞いた。
「お気持ちは嬉しいんですが、明日は予定がありますので」
「児玉さん、わたしたちは?」
「泊まっていくわよ。こっちの方が現場が近いから。明日は五時起き、八時集合で映画のロケ、昼はグラビアとウェブ配信の番組の出演、夜は新しいCMの撮影」
「はーい…」
涼花の声が小さかった。
しかし何たる忙しさである。でもこの分だと、涼花はちゃんと一人前になれそうだ。ぜひ画業で身を成した靜子のように、立派な女優としてがんばっていってもらいたい。
「じゃあ、もうお別れですね…」
涼花は暗い顔をした。だが次の瞬間にはすぐ笑顔に戻っていた。
「あ、でもお二人とも都内だから、どこかで会えるかもですよね?」
涼花の方は判らないが、僕たちはほぼ毎日秋山すずかを見るだろう。
「はい、またどこかで会えたら、いいですね」
「絶っ対、遠くからでも、声をかけますよ?」
「今度は、高いところから飛び降りたりしないでね?」
「今度は、普通ですよう☆」
僕が冗談めかして言うと、涼花は苦笑してうなずいた。また睨みつけられるかと思ったけど、ああよかった、怒ってない。
「そうだ、那智さんも。すうと握手、してください」
「えっ、いいの?」
涼花は無邪気に頷くと、両手で僕の手を握ってくれた。
非の打ち所のない笑顔だ。色々僕たちの間にはわだかまりがあったが、分かってくれたようだ。さすが涼花は芸能人だ。やっぱりなんていい子なんだ。
「さっきはよくも、わたしのこと見捨ててくれましたよね…?」
笑顔から、負のオーラが出ていた。握る手が、痛い。
「いや、それはあの、時間稼ぎのために仕方なく…ねえ、九王沢さん!?」
「はい…?」
九王沢さんは、相槌を打ったが目を丸くしていた。何のことだかぴんと来ていないようだ。
「わたし、顔を切られるところだったんですよねえ、那智さん…」
「いやごめん!本当、悪かったから!許して!」
「許しません」
負の笑顔のまま涼花は自分のスマホを取り出すと、くるりと背を向けて。僕と九王沢さんの間にちょうど、収まった。そして写メをぱちりと、一枚。
「え…?」
僕が戸惑っていると涼花は、今度は屈託のない笑顔に戻って言った。
「記念にこの画像、送りますね。那智さん、お嬢さま、連絡先、教えてください☆」
涼花は、強かった。こうして明日も、早く起きて僕たちが、テレビで観るような秋山すずかに戻るのだろう。不思議なものだ。
その屈託のない笑顔の裏で、秋山すずかに何があったのか、そして今の涼花の心の音を、本来なら視聴者にすぎない僕たちは、うかがい知ることなど出来なかったはずなのに。
「さようなら」
いつまでも手を振る涼花が、夜の闇の中に遠ざかって消えていくのを、僕たちは、名残惜しくすら思った。
しかし色々、大変だった。予想外すぎて人に話すことすら、出来そうにない。
まあ誰に言っても信じてはもらえないだろう。何しろ、密度の濃い二泊三日だった。
こんな旅、九王沢さんとしか出来ない。終わってみれば一生、忘れられない出来事が沢山あった。その意味ではこの二泊三日は、僕にとっても、九王沢さんにとっても特別なものになったんじゃないかな。
と、まあここまでは建前で。
ばっきゃろう!ぬあああんて綺麗ごと、通用するか!!
なんと、終わってしまったのである。
あれだけの成功の予感と確信を得ながら、
いや、紛れもなく原因は僕だ。もはやぐうの音も出ない。僕が生まれついてのヘタレだからである。
途中、何度もいけそうなシーンがあった。しかし、あえなく後塵を拝することになったのは、紛れもなく、あと一歩踏み出せなかった自分自身のせいなのだ。
惜敗などではない。大惨敗である。ふたを開けてみれば、いいとこなしであった。
きっと僕の背中には、貧乏神ならぬヘタレ神が乗っかっているのだ。そいつがいいところで、僕の生来のヘタレパワーを、増幅して発揮する仕組みとかになっているのである。
はーあ僕。こんなかわいい彼女がいるのに、そして彼女自身も望んでいるのに。こんなにがんばっても、想いを遂げられないものなのか。
「あっという間でした。もう、帰りなんですね…」
対向車のヘッドライトに照らされながら、九王沢さんもどこか、憂い顔である。
九王沢さんは天使のように優しいので、決して表には出さないが、内心では僕にがっかりしているのかも知れない。
いや、こんなにチャンスをやったのに、ヘタレめこん畜生!とか思っていても、それに対して僕は一っ言も反論も出来ない。
いつもは天使の笑顔なのに、眉をひそめて九王沢さんはしばし何事か考えている様子だったが、北茨城のインターに入るまでに少し、微睡んだようだった。温かい寝息の気配が微かに聞こえていた。
ただ単に、疲れたのだろうと思いたい。よく考えてみればさっきまで、涼花のために東奔西走、その爆発的な直観力と行動力をいかんなく発揮したのだ。
推理小説の名探偵も顔負けだった。でもさすがに、フィクションの探偵とは違う。終わった瞬間に緊張の糸がほどけ、どっと疲労が押し寄せて来たんだと思う。
「那智さん…今、どこですか?」
半分眠ったような声で、九王沢さんが言ったときには、もう午後八時を大分回った頃だ。
「まだ、茨城出てないよ。出るのが遅かったからさ、都内まではもう少しかかるかも」
返事はなかった。また、眠りの世界に入ったのかと思ったが、九王沢さんはまた少し、眉をひそめて考えていたのだ。
「…本当はわたしたち、二人の旅行だったんですよね…?」
いきなり聞かれたので、僕は少し、どきっとした。
「う、うんそうだね。結果ちょっと色々あったけど」
「わたしのせいですね…本当はもっと二人でいたかったです…」
九王沢さんがうつむいたので、僕はあわてて言った。
「いっ、いやあ!やーでもそんなことはないじゃないかなあ。色々あったけど、楽しかったし。九王沢さんだって、涼花と涼花のおうちのことが解決して良かったじゃないか。…あれだって、僕たちがたまたまあそこにいたから出来たことなんだしさ!」
言葉が、虚しく宙を浮いた。
そりゃあ、僕だって半分、心にもないこと言った自覚はある。だって旅行の目的は、違うのだ。
混浴とセックス…じゃなくて、恋人として、九王沢さんのお誕生日の記念に、二人でもっと、距離を縮めるための旅行にしたかったわけで。
「那智さん、わたし、まだ、帰りたくないです。あと一泊、しませんか?」
決然と九王沢さんが言ったのは、そのときだった。切ない瞳が、潤んでいた。
それがぐいぐいと東京方面にハンドルを切ろうとする、僕の後ろ髪を引っ張った。
「えええっ?いいけどでもさー、今からちょっとお宿を探すのは…」
トップシーズンのもう夜、九時になんなんとするところだ。
温泉宿で最寄りなら、海っぱたへ出て銚子辺りでってことになるが、今からチェックイン出来るところが果たしてあるのかどうか。
返事に戸惑っていると、ぶるぶる着信が。たぶん涼花だ。さっき撮った写メを送ってきてくれたんだと思う。僕はあわてて運転席からスマホを九王沢さんに渡した。
「あ、依田さんです」
「うそっ!?」
ここへ来てまさか、依田ちゃんから電話だ。運転中なので九王沢さんが出ると、依田ちゃんは相手も確かめずに、大絶叫を放った。
「先輩!あーたたち、一体全体今、どこで何してるんですかああ!?」
依田ちゃんが、動転するのも無理はない。見ろと言われて視たのは、秋山すずかのインスタグラムである。
そこにさっき撮った写メが、ばっちりアップされていた。九王沢さんとのツーショットがデコってあったのだ。
後ろに写る肝心の僕は、半分見切れた上、そのフレームに埋まりかけていたが知り合いならばっちりと確認できるレベルだ。しかも涼花の絶好調なコメントがついていた。
『憧れのお嬢さまと!また絶対、お会いしたいです☆』
まだ一時間も経ってないのにこれが、ばちばちふぁぼがついて、何万リツイートもされていたのである。ネット社会って恐ろしい。ツイッターでトレンドになっていた。
『秋山すずかとツーショットの美少女』『すずかちゃんと一緒の女の子、誰?』『謎のお嬢さま』
当然、この美少女の正体と僕を知っている人間は大騒ぎである。
大学の皆やバイト仲間、高校の同級生はじめ地元の幼なじみから、一斉に連絡が来た。
メールもラインもパンク状態である。このまま明日、大学に行ったら、バイトに出たら、どうなっちゃうんだ?涼花、なんと言うことをしてくれたんだ。
「これでしばらく、帰れませんね?」
九王沢さんは、天使の笑みで微笑みかけると、僕の肩にもたれた。
「実は児玉さんが、銚子の老舗の温泉宿に知り合いがいて、さっき予約をとってくれたんです。今からでもチェックイン出来るって言ってました」
僕は思わず、息を呑んだ。
まさか、予想外の展開だ。なんとあの九王沢さん自ら、さらなるリベンジを買って出てくれるなんて。
「バイトも、授業も休みます」
僕は即答していた。そんなものなど、もはや最初からなかったも同然だ。
「もう暗いですからお部屋のお風呂なら、一緒に入っても大丈夫だと思います…」
九王沢さんは僕を切ない上目づかいで見上げると、大事な部分を腕で抑えて言った。
「あっ、明るいと恥ずかしいですから!」
まったく、九王沢さんには一生、勝てる気がしない。気持ちだけで十分だった。運転していなかったら、僕は彼女を抱きしめていただろう。
「じゃあもう一泊、行こっか」
「はい☆」
僕は寸でで、千葉方面にハンドルを切った。東京に帰れるはずなんかない。
僕たちの旅はどうやら、まだまだ終わらないみたいだ。
[参考資料]本編を執筆するに当たって特に以下の資料を参考に致しました。
『フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ』(解説:イサベル・アルカンタラ、サンドラ・エグルノフ 訳:岩崎清、2010、岩波書店)
『戦国武士の合戦心得』(著:東郷隆、2004、講談社文庫)
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