第23話 想い行き着く果て

 九王沢さんは暮れゆく闇の中で、息を呑んだ。


「わたしと、靜子さんの最期のメッセージを…?」

 はい、と涼花は意を決した顔で頷いた。

「そうです、わたし、お嬢さまと一緒にこれを観たいんです」


「まだ、中は見てなかったんだ?」

 僕が聞くと、涼花は訝しそうに一瞬こっちを見た後、目をそらしてうつむいた。

「実は、怖くなっちゃって。わたし、またお母さんのこと、分かってあげられないかも知れない、と思ったらこれ、一人で観れなかったんです」

 そこで涼花は言葉を切ると、小さく息をついた。

「だってもしかしてわたし、慧里亜お嬢さまがいてくれなかったら、まだ、母はわたしに別れも告げずに死んでしまった、それも悲惨な自殺したんだと、思い込んでたはずですから。誰にも言えなかったけど、本当に辛かったんです。涙も出ないくらい、心が凍りついてました。さっき、お嬢さまのお蔭でやっと泣けたんです」

「何よりです」

 九王沢さんは頷くと、その豊満な胸に涼花を抱き寄せ髪を撫でた。


「やっぱり間違っていたんです。埋葬が」

 涼花は少し言いにくそうに、言った。


 まさに間違った埋葬。それを、元の道筋を捜し出して、九王沢さんは、あるべき場所へ葬ったのだ。僕と、果恵のときと同じように。


「確かに悲しかったし、辛かったです。でももともと、わたしの悲しみ方は、間違っていたんです。お母さんのお墓だと思っていたところには、お母さんは葬られていなかった。だからわたし、泣けなかったのかも知れません。でもそれは、あのとき、お嬢さまと出逢わなかったら、一生分らなかったかも知れないことでした」


 九王沢さんは何も言わない。ただじっと、涼花の心の音が響くのを待っているようだった。


「また、見失いたくないんです。だから一度だけ、すうと一緒にこれを見てほしいんです」

「分かりました」

 九王沢さんは即答した。

「実はわたしも、気になっていましたから。…那智さん、大丈夫でしょうか?」

「僕は別に、構わないけど」

 すると涼花は、僕には営業用のスマイルを向けた。

「あ、那智さんは帰ってもらって結構ですよ。明日、お仕事もあるでしょうし」

「付き合う、って言ってんだろ…」


 僕がいなくなったら、誰が九王沢さんを送り届けるのだ。それに明日、仕事があるのはお前の方じゃないか。



 と、言うわけで僕たちは裏口から入った。ロビーの方ではまだ、児玉さんが弁護士さんと細かい打ち合わせをしているし、夕食の支度やら何やらで、伊東母娘が駆けまわっている気配がした。


 主を喪った靜子のアトリエにも、鈍色にびいろの夕闇が落ち始めている。


 涼花は靜子のモバイルの電源を入れた。それから九王沢さんに目配せをすると、USBメモリをそこへ挿し込んだ。


 メモリの中に、動画はたった一つだ。あまり重たいデータではないから、それほど長くはないのだろう。撮影された日付は、ちょうど一週間前になっていた。


 涼花がマウスを操ると、午後の陽射しがたっぷりと入り込んだ小さな部屋が映りこんだ。


 スイスにある靜子の病室兼アトリエだろう。簡素なベッドに数冊の本、空っぽのイーゼル、一輪挿しの花瓶、必要最低限のものしか置いていない感じだ。


 身体を伸ばせるタイプの椅子に座っているのが、広瀬靜子だ。


 薄いクリーム色のカーディガンを着て、ひらひらの黒いスラックスを履いた靜子は少し痩せすぎくらいの印象はあったが、不穏な死の影はそれほどにうかがえない。


 僕などから見ると、女優時代からトレードマークだったボブ気味のショートを襟足で綺麗に切りそろえて、昔とそれほど容姿は変わっていないように見えた。



「涼花ちゃん、お母さんです。今日も元気で、お仕事してる?こっちは、とっても静かだよ」


 もうこの世界にはいない靜子は、涼花に向かってその日向のような笑顔で話しかけてきた。



「ここは、スイスです。もう佐奈恵(児玉さんのことだ)から聞いていると思うけど、お母さんはある選択をしてここにいます。そして、あなたに告げずにここにきてごめんなさい。まだ、わたしは死んではいませんでした」

 靜子は淡々と、真相を告げた。


 内容は、九王沢さんが推理した通りである。靜子の持てるすべてを涼花に与えるため、靜子は意を決して邪魔者を排除する計画に殉じた。


「もう涼花に会えなくなると思ったら、とても悲しかったけど、これはお母さんの命をかけてやり遂げるべきだと考えたの」


 何も告げず遺される涼花のことを思ったか、靜子の声はいたたまれなさそうだったが、自分の目の黒いうちにその完遂を見届けたい、と言う意思に満ちていた。


「わたしが死を装って一年、乃木は死に、すべての準備は整いました。今、あなたの周りには誰もいなくなったと思います。あなたは誰にも気兼ねなく、自分のしたいことを全うできるはずです」

 靜子はそこまで一気に話すと、どこか寂しそうに笑った。

「だからお母さんが、最期にあなたにあげられるのは『孤独』です。涼花、あなたには何度謝っても足りないと思うけど、わたしはあなたに独りで立つ人間になってほしかったの。ひどいやり方だと、自分でも思う。他にやり方はなかったのかって考えたこともあったわ。でも、今のわたしには、これしかなかった」


 そこで靜子の目に、きらりと光るものが宿ったのが分かった。


「だからもし、涼花が今、辛いと思ったのならそれはみんな、お母さんのせいです。全部、お母さんのせいだと思って下さい」


 涼花はそこで、無言でかぶりを振った。違う。言葉はなかったが、違うそんなことはない、そう言っているように見えた。


 その瞳から、大粒の涙がこぼれたのはそのときだ。


「こんな愛し方で、ごめんなさい。…でも忘れないで。このわたしの身体はいなくなっても、わたしはいつでも、あなたを愛しているわ、涼花」


 他人である僕にも伝わった。


 とても厳しく、また一方的ではあったが、それが靜子の娘を想う最期の愛の形だったのだ。


 最期に娘と過ごす時間を、今わの際の別れを、犠牲にしてまでも、靜子が想ったのは何より、未来の涼花の自由と自立だった。


「涼花、あなたにはこれからやりたいことが沢山あると思う。佐奈恵とも話したの。佐奈恵は、あなたは大手に入って自立した方がゆくゆくは、お仕事が伸びるし、しやすいって考えているみたい。でもそれはよく相談して決めて下さい。これからは、あなたの決断に皆が従います」


 靜子は話を終えると、ベッドサイドの方からそっと何かを取り上げた。


 僕にも見覚えがあった。今年の秋、ようやく出たと言う涼花の写真集だ。


「佐奈恵から送られてきました。あれからもお仕事、沢山増えて来たみたいで良かったね。ドラマもCMも、動画で観てます。あなたならもっと大きくなれるよ。お母さんも元気でお仕事する涼花の姿、毎日見て、お守りにしてます。本当にありがとう」

「おっ…かあさっ…」


 涼花の、母を呼ぶ声は、それ以上、言葉にならなかった。


 涙で声が詰まって、これ以上の言葉が出なかったのだ。僕も、思わずもらい泣きしそうになった。


「ううううっ靜子さん…」

 だが、泣けなかった。

 真横で九王沢さんがもう、ぐっしょぐしょにもらい泣きしていたからだ。


 涼花の手前こらえていたのだろうが、顔を真っ赤に泣き腫らして、握りこぶしをぎゅうっと震わせると、ぼろぼろ涙をこぼしていた。


 赤の素っ他人の僕と違って九王沢さんも靜子にかわいがってもらって顔を知っているからだろうが、さすがにぎょっとして僕の涙が引っ込んだ。こう言う時、乗り遅れると損である。



「そこで涼花にも、わたしから何かお返ししたいと思います。わたしがいなくなる前に日本に必ず送り届けるから、待っててね。佐奈恵が管理出来るように、しておきます」


 話すことがなくなった靜子はそこで少し、沈黙した。靜子も、画面の向こうで涼花との別れを名残惜しく、思っていたのだろう。



「いっぱい勝手なことを言って、ごめんなさい。でも、最後に一言だけ、言わせてください。わたし…涼花のお母さんになれて本当に、良かった」


 笑顔の靜子の目からも溢れる涙が、こぼれ落ちていた。


「ありがとう」

 最後の肉声は、心なしか震えていた。

「さようなら」


 動画は、そこで終わっていた。



 涼花も九王沢さんも、いつまでも泣いていた。二人とも抱き合ってガン泣きである。手が付けられない。


「あの…まだいらっしゃったんですか?」


 二人には悪いけどその後、僕の車が去らないのを察した児玉さんが様子を見に来てくれて、助かった。


 悲しみのレベルが違い過ぎて泣くに泣けない僕は、正直居たたまれなさの極地だったのだ。


「…児玉さん、お母さんのお返しって何のことだったの…?」


 涼花はそのことを、児玉さんに尋ねた。児玉さんが管理できるようにしておくと、靜子が言っていたからだ。しかし予想に反して、答えは予想外のものだった。


「え…お返しって。あの、それどう言うこと…?」

 ええええっ?

「だって、靜子さんがこの動画で…」

 僕は動画の内容を説明した。


 実は児玉さんも、その動画を観ていなかったらしく、実際に観てぽかんとしていた。


「わたし…聞いてません。え…靜子…?」


 どうでもいいが、広瀬靜子、アドリブが多い。児玉さんとの打ち合わせにないことをやり過ぎだ。これには、さすがに呆れた。



「どうしましょう、お嬢さま…」

 涼花は途方に暮れていた。

「捜しましょう。児玉さんにそれを託した、と靜子さんが言っている限りは、必ずわたしたちの手の届くところにあるはずです」


 泣きツボから復活した九王沢さんは、僕たちに向かって確信を込めて言った。



「恐らくは、それが靜子さんにとっての『ビバ・ラ・ビーダ』のはずです」

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