第18話 不在の理由
九王沢さんはそこで、小休止を申し出た。
複雑な話だったので皆の頭の中を一旦、整理するためだと言っていたがたぶん、奥久慈リンゴタルトを食べてみたかったのだ。
「あっ、お茶冷めちゃいましたね。淹れ直しましょうか…?」
と、香名子さんが全員のお茶を替えたのだが、ほとんどの人は義務的に口をつけるだけで、味わっている余裕などなかった。
なんと、家籠にかかって死んだと思われた靜子が実は生きていたのだから。そして彼女はこの一年越しに渡る涼花の遺産相続に関わるある『計画』の首謀者、だと言うのだ。
だとしたらこの間、涼花の首を絞めたのは靜子だったのだろうか。そしてもしそうだとしたら、最愛のはずの一人娘の首を靜子はどうして絞めたのか。余計に不可解である。
かわいそうなのは、涼花だった。彼女は一見おとなしく、衝撃的な真相を暴いた九王沢さんの隣でお茶を飲んでいたが、最も気が気でなかったに違いない。
その顔は
その首筋にはまだ、ここからでも判る、自分の首飾りの紐で絞められたと思しき痕が、うっすらと赤くにじんでいた。
「すうちゃん、大丈夫ですか?」
「ええ、わたし、なんて言うか、とにかく、びっくりしちゃって…」
涼花はそっと自分の胸を抑えて、慎重に息を吐いた。
確かに九王沢さんが明らかにしたことの真相があまりに意外なもの過ぎて、理屈では分かっていても実感として頭が、ついていっていないのだ。
靜子は、一年前死んだわけではなかった。生きているのだと言う。と、するともしかして。こうしている今も、どこかで、涼花はじめ僕たちを見張っているのではないか。
「あの、お嬢さま、そろそろ…」
「はい。では、このお茶を頂いたら」
児玉さんが、スマホの時計を見ながら促す。一気にあれだけの推理を話したから、咽喉が渇いたのか、九王沢さん、ゆっくりとお茶し過ぎだ。
皆、衝撃を受けていると言うのに、のほほんとしているにも程がある。
「さ、再開はいつだね?一体、靜子は、どうしてこんなことをしたんだ?」
「…まさか今もどこかに、隠れてるんじゃないだろうね?」
謙三が堪えかねたように言い、征之助などは気味悪そうに辺りを見回す始末だ。
一成に至っては、不気味なほど物静かになっている。
そう言えば謙三たち、休憩なのに、誰も煙草に立たなかった。
「えっ!…慧里亜お嬢さま!早く、教えてください!」
意を決して、涼花が声を上げたのはそのときだ。
「母は…まだ…ちゃんと生きているんですか?…癌なんかで死んでいないで、今でも、生きてここに…?」
涼花の訴えは切実なものだった。
言うまでもなく、それは靜子がこの事件の首謀者、九王沢さんの言うある『計画』の主催者であった、と言う意味から来るものではない。
生きているかも知れないのだ。あの日とっくに、死んだと思われていた母親が、今も生きているとするならば。そしてここでもしかして、自分を見守っているとするなら。
涼花の目が涙で濡れ始めていた。希望と失望がない混ぜになり、泣いていいのか、笑っていいのか、よく判らない表情になっていた。
「…すうちゃん、ごめんなさい。靜子さんは、今、ここにはいないんです…」
九王沢さんはそんな涼花を見て、息を呑んだ後、痛々しげに事実を告げた。
「ここには…いない?」
涼花の顔から希望だけが、日なたの雪のようにみるみる消えていった。
「ああっ?ここにはおらんだと?じゃあ、靜子は一体どこに行ったんだ?」
謙三が耳障りな怒鳴り声を出す。ちっと黙ってろよおっさん。
「そうだ、児玉さん…」
涼花は何かに気づいたようにつぶやくと、児玉さんの方を見た。
「児玉さんは、最初から知ってたんでしょ?…だって、お母さんの『協力者』だったんだから。お母さんはどこに行ったの…?」
「涼花、それは…」
僕は、初めて見た。
あの気丈な児玉さんが、少し気弱そうな顔をしたのだ。
いやもちろん短い付き合いの人だが、彼女が自信なげに口ごもったのを僕は、初めて目撃した。
そんな彼女に何か許可を取ろうとするかのように、九王沢さんは憐みの目を向けた。児玉さんは、そこで何かを決心させられたのだろう。やがて小さく頷いた。
「靜子さんは、スイスに行きました」
九王沢さんの言葉は、衝撃的だった。スイスだって?あれ、何かどこかで聞いたことがあるぞ。
九王沢さんはそこで靜子さんの部屋にあった外国語のプリントアウトを取り出してみせる。
「発見した時にぴんと来ました。…これは、ペントバルビタールナトリウムの薬理作用に関する記事なんです」
聞いたことのない単語が出た。ペンとバル…なんだって?
「ペントバルビタールです。元々これはバルビツール系の睡眠薬として発売もされていたものです。しかし、現在ではこの薬物は、動物の安楽死などに主に使用されています。そしてもちろん、これは人間にも有効なものなのです」
話を聞きながら、涼花は泣きべそを掻いていた。
「何が、言いたいんですか…?」
重々しい息をつくと、九王沢さんは答えた。
「スイスは治癒不能な病気に冒された人に限り、法的に安楽死を認めている国なんです。そして外国人にも、その権利が保障されている唯一の国です。靜子さんは安楽死による
涼花にとって余りにも、それは衝撃的過ぎた。それならばやはり靜子は、自ら命を絶ったのか。九王沢さんは、心苦しそうに話を続けた。
「尊厳死は、ただの自殺ではありません。末期ガンに限らず、現在も治癒不能な病に苦しんでいる方は、沢山います。もちろん闘病を続け、生きようとしていくことは必要ですが、それとは逆に意志ある『死』を択ぶ人もまた、その権利を保障されるべきだと、わたしは思います」
日本でもある有名な脚本家は、老いて自分の意志表示が出来なくなる前に死にたいと、すでにスイスへの渡航準備を進めていると九王沢さんは言う。そしてそれを受け入れる機関も、スイスでは発達しているらしい。
取り残される遺族たちにとっては中々に受け入れがたいことだが、本人が人格や意思を損ない、生かされるままに生きると言うことに堪えがたい場合、『死ぬ権利』も尊重されるべきだ、と言うのが、尊厳死の考え方なのだと言う。
「最も有名なのは、ディグニタスと言う自殺ほう助機関です。元弁護士のルドウィック・ミネリと言う方が運営しているこの団体では、綿密な医療記録と数度の医師との面談を経て、不治の病に冒された人たちに『死ぬ権利』が与えられます。人が死ぬ、と言うことは大変なことです。安楽死でも不幸な事故は起きますし、いぜん、賛否両論があります」
しかし靜子は、自分の意志で旅立つ決意を固めたのだと言う。長年の担当医とともにスイスに渡り、辛抱強く審査を待ち、ついに尊厳死の権利を勝ち得たらしい。
「じゃ、じゃあ、つまり、そのお医者さんは、静子さんのためにスイスに…?」
僕の問いに、九王沢さんは静かに頷いた。
「靜子さんの覚悟は、並々ならぬものだったと思います。外国人に自殺する権利が認められているとは言え、審査の基準は厳しいですし、順番待ちも長くかかります。腎臓ガンは比較的、重篤な症状が表にあらわれにくい、と言われていますが、裁判所から許可が下りる前に決定的な症状が表われ、手遅れになることだって、十分に考えられることです」
それでも靜子は、自ら生きる時を限り意志ある死を望んだ。
「…そんな…」
どうしてだろう。涼花は涙ながらに思わずかぶりを振ったが、死病によってではなく、自分で命を絶ちたいと言う考え方は容れるにしても、涼花にとっては残酷すぎる。
「話は分かります…でも…わたし…お母さんと別れられなかった。…さよならッ!出来なかったんだよ…?なのに勝手に、自分だけで決めて…死ぬ、なんて、そんなの、納得できるはずないっ…どうして!?どうしてッ!?」
涼花の絶叫に、誰も応えるものはいなかった。せめて涼花には、そのことをきちんと話してあげるべきだったんじゃないのか。
「話せない、理由があったんですよ」
まだ涼花が嗚咽する中、九王沢さんが声を上げた。
「そのことを含めてそれが、靜子さんの決意だったんです」
確認するように、九王沢さんは児玉さんを見た。彼女はずっとうつむいていたが、それで意を決したように頷いて見せた。
「涼花、靜子は自分で自分を裁くことに決めたの。だからこそ、自分で死にたいと思って、スイスに渡ったの」
絞り出したような、児玉さんの声だった。
しかし涼花は、かぶりを振り続けた。すぐに受け入れられるはずもない。事情はどうあれ靜子はつまり、別れも告げずに、涼花の前から消えたのだから。
「涼花のためよ」
押し殺した声で、児玉さんが言ったのは、そのときだった。
「すべては涼花、あなたのため。それが靜子が練った『計画』だった。だからわたし、あなたと、靜子のために」
「すべてを投げ打って…あなたも、協力する気になったんですよね?」
九王沢さんの問いに、児玉さんは頷いた。仮面のように無表情だ。
しかし、涼花を想う気持ちに、嘘などなかったに違いない。今、その言葉で初めて分かったように思う。
つまり靜子の遺志を継ぐために、この児玉さんが、六園静子の涼花への遺産相続に執念を見せていた、と言うことを。
あれだけの
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ…」
ここまで話を聞いていて声を上げたのは、征之助だった。あんた、完全に部外者だろ?
「はっきり教えてくれ。靜子は自殺を決意しても、したかったことがあるんだろう?そこまでして遂げたかった『計画』って言うのは、一体、なんのことだったんだい…?」
児玉さんが精根尽き果てたようにうつむき、涼花の泣きさざめく声が響く中、九王沢さんだけが、その答えを口にすることが出来る。
「全ては、すうちゃんが円満に遺産を相続するためのことだったんです」
実にばっさりと、九王沢さんは切って落とす。
「この『計画』の本旨こそは、その邪魔者をすべてを、排除する目論見で行われたことだったのです」
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