第14話 容疑者暴走
それから僕たちは発見者の一人、香名子さんともう一度、靜子が死んだ部屋まで歩いてみることにした。
もしかしたらどこかに身を隠す場所がないか、検討しようと思ったのだ。
「発見時、靜子さんの部屋には鍵が?」
「ええ、内鍵が。それで児玉さんがお母さんに頼んで下からマスターキーを持ってきたんです」
これまでにも靜子は、自室で何度か倒れている。発見が遅れないように、中から鍵のかかる部屋は全室マスターキーを保管してあるのだと言う。
「その間、香名子さんが残ったわけですね?」
はい、と香名子さんは頷いた。となると、この時点では犯人はまだ、部屋の中に隠れていた、と言うことになる。
「誰かがどこかに隠れていた、とかそんな感じはありましたか」
「いえ、わたしたち、奥さまのことで目いっぱいで。涼花ちゃんも泣き叫んでたし、とにかくあわてちゃって」
半狂乱の涼花を連れて、香名子さんはロビーに降りた。そのとき母親と一階の部屋にいた医師が看護師を連れて階上へ向かった。出入りは常に、誰かの目を通さずには行われていない。
「ちなみに発見時、ロビーには全員が揃っていたんですよね?」
香名子さんは自分も含めて、と頷いた。
皆で靜子が来るのを待っていたのだ。当然、二階から降りてくる人影には注目しただろうし、不審人物がいたなら全員が気づく、と言うわけである。
「やはり密室ですか…」
僕の手帳を手に、九王沢さんはしばらく考え込んでいた。
「あ、そうだ九王沢さん。アリバイのない人が一人、いますよね?」
乃木である。この男は靜子と児玉さんに十時に追い返されたと言うことだが、誰も出ていく姿を見ていない。
もしかしたら客室かトイレにでも隠れていて、消沈している靜子を襲ったのではないだろうか。
「乃木さんには、アリバイがないわけではないです。実は靜子さん発見の一時間ほど前、すでに警察に乃木さんは拘束されているんです」
乃木は事故を起こしていた。靜子たちに追い出されてほどなく、捕まっていたのである。人身事故ではなかったのが幸いだが、発見時、会話もままならないほど泥酔していた。
さらに前科があったために尿検査も実施されたのだが薬物反応が出て、覚醒剤取締法違反容疑で緊急逮捕されていたのだ。乃木は警察署にいた。これ以上のアリバイはない。
「だから靜子さんの件では容疑が、掛からなかったんですね」
ちなみに乃木は夏のはじめ、不起訴で釈放になっている。警察が調べたところ、肝心な所持が確認出来なかったためだと言う。
それにしてもそれからその夏のうちに、覚醒剤の
「じゃあつまり、容疑圏内にあった人たちには、全員アリバイがあるんですか…?」
そうなると後は、外部犯の可能性しか考えられないが、事件のあったあの部屋まで、誰にも目撃されずに犯行を遂げ、逃走するのはほぼ不可能である。そもそも、部外者がいれば尚更人目につくと言う話だ。
九王沢さんはさすがに困ったのか、眉根を潜めて言った。
「警察が即座に、『自殺』の判断を下すわけですね」
仰るとおりである。容疑者全員にアリバイ、そして衆人環視。
それでも犯人は潜んでいた、そしていつの間にか消えた、と言うのだ。僕たちみたいな素人には、やっぱり無理かもしれない。
まったく、今回ばかりはどうにもならんぞ!?
ほとんど実りのある推理にならないまま、僕たちは靜子の書斎まで到達してしまった。ここまで九王沢さんはだんまりのままである。
ここは僕が何か言わなきゃ。そう思っていたら、ばっちり地雷を踏んでしまった。
「もしかして涼花と香名子さんが、嘘を吐いてるんじゃ…?」
それか、何かの間違いとか。自分で思わず言ってから、禁句だと気づいた。
あの温厚な九王沢さんでも、さすがにかちっと来ただろう。
「那智さん、わたし、すうちゃんのためにやってるんです!」
怒られてしまった。
「二人に、そんなことをする理由はありますか?」
「いえ、ないと思います…」
だがもう、現実的には、それか自殺か以外には考えられない。
もう列挙するのも面倒くさいほど、この部屋にいた靜子を刺すのは物理的に不可能なのだ。九王沢さんにだって分かってるだろうに。
しかし、一生懸命な九王沢さんに水を注すのも、かわいそうだ。彼女が諦めない限り、ついてあげなくてどうする。こうなったらとことん付き合ってあげなくちゃ。
「ちょっとここに寝て下さい」
死体役もお安い御用である。僕は香名子さんがやった姿勢のままに、仰向けに寝転んでみせた。
「長時間、人目につかなそうな場所はなさそうですね…?」
僕も寝ながら見渡したが、身を隠せるのは応接ソファの陰くらいである。しかしそれも、刺された靜子のところまで近づけば、やっぱり丸見えだ。
「ちょっとした刺し傷…(ぶつぶつ)」
やっぱり、と言うようなニュアンスで九王沢さんは、僕を指さして言う。またあの気になる言葉だ。ちょっとした、って。そもそも靜子はその傷で死んだんじゃないか。
「…あのう九王沢さん、前から突っ込みたかったんですが、全然ちょっとした傷じゃないですよねえ?」
「え?」
九王沢さんはそこでやっと、我に返ったようだった。
「わっ、わたし何かつぶやいてましたか?」
「ええ。…って言うか、なんなんですかその、ちょっとした刺し傷って」
すると九王沢さんはばたばたと、書棚から一冊の画集を取り出して、開いたページを僕にすすめた。その瞬間、僕は、あっと声を上げそうになった。
「『ちょっとした刺し傷』(一九三五年)は、フリーダの代表作の一つです。画題は一九三四年にタブロイド紙で話題になったある事件。この作品のように、夫が殴打の末、妻を刺殺します。それでも警察には夫は、殺す意思はなかった、と供述したのです」
それはまさにフリーダの痛烈な皮肉であった。固い木製ベッドの上に、全裸で横たえられた女の死体は、傍らにナイフを持って立つ男にとっては『言うことを聞かないので、ちょっと痛めつけてやった』程度の行為の結果に過ぎない、と言うのだ。
「遺体はフリーダ、犯人の夫は実際のフリーダの夫、ディエゴ・リベラです。彼女の絵画の師でもあり、メキシコの近代美術の最先端を走っていたディエゴですが、フリーダと結婚後も浮気は収まらず、悩みの種でした。中でも最大の衝撃は、ディエゴがフリーダの義妹であるクリスティーナと浮気をしていたことです」
バス事故の後遺症収まらぬフリーダはこのとき妊娠三か月でありながら、右足の指五本すべてを切断しなければならない大手術を控えていたと言われる。
大したことじゃない、とうそぶくディエゴに、フリーダはこの絵で強烈な反撃を試みたのだ。
ディエゴがやったことは肉体的苦痛に生きる自分にとって、殺すつもりもなく妻を刺し殺したこの、タブロイド紙の男と同じことだと。
「いや、偶然…」
に、しては出来過ぎている。
僕たちは直接、現場を見たわけじゃないが、香名子さんの言う通りの姿勢だと、ここに横たわるのは多少の無理があるのだ。
「靜子さんはここで、死ぬつもりだったんだよね…?」
自分で言ってから、僕は、はっと息を呑んだ。発見時、靜子はすでに自分の生を諦めていた。
と、言うことはだ。部屋の中で、靜子が『死体として』取ろうと思っていたポーズはまさに、ダイイングメッセージだったんじゃないか?
確かにあのフリーダのように、靜子は生前、浮気性の上に、犯罪者であった夫の脅迫と暴力に脅かされ続けてきた。
「じゃっ、じゃあ、やっぱり犯人は、乃木…?」
ようし、分かった!と手を打つところだった。が、あれっ、九王沢さんはいまいち乗ってくれない。
「あっ、ごめんなさい。聞いてませんでした。もう一回、お願いします」
さりげなくスルーされてしまった。乃木…じゃないみたいだね、うん!こうなったら僕はもう、全面的に九王沢さんの推理に従うまでだ。
「あのさ、やっぱりそのう、まず、密室が問題だよね…?」
「密室?…この部屋で起きた事件のことですか?」
スパコン並みの九王沢さんの思考はもう、僕をおいてずうっと先に行っているようだ。驚くべき言葉を僕は次に、耳にさせられた。
「あれは、すでに解決済みです。まずこの部屋は、『密室』でもなんでもないです」
「うそっ!?」
ったく九王沢さんの頭の中は、どうなっているのだ。さっきまで出口も隠れ場所もないことを、確認してきたばかりじゃないか。
「その件は何となく、香名子さんからお話を聞いてこの部屋に来た時点で想像はついていたんです。さっきまでは、それを確かめていました。ですが問題は今年の事件のことです。すうちゃんは、どうして襲われたのか?この理由がどうしても、分かりません」
「ええっ!?…でもでもっ、靜子さんの件はもう、誰がどうやったかまで、分かってるんだよね?」
「ええ、恐らくは」
ほぼほぼ!?とまで念を押すと、九王沢さんは真顔で頷いた。なんて子なんだ。
だがよく考えたら頷ける。九王沢さんは『僕の事件』も解決に導いたのだ。この事件も彼女は錯綜しきった情報を取捨選択して、いわゆる事件の『文脈』を再構築してしまったに違いなかった。
「気になるのは、すうちゃんと香名子さんがこっそりここへ来た時、再び『なぜ』ドアは閉められたのか、と言うことです。中にいた誰かが『どうやって』消えてしまったのか、と言うことより、『中で何をしていたのか』と言うことの方が、遥かに重要度の高い情報です。児玉さんは一年前から、ここを片付けていない、と言うので、何かヒントが遺っている、そう思っていたのですが…」
とか言いながら九王沢さんはデスクの抽斗を開けまくったり、外国語のプリントアウトをばらばら。いつも気遣いの子が、思考モードに入るとしっちゃかめっちゃかである。僕があわてて九王沢さんの散らかした跡を片付けていると、だ。
「いやあああっ!」
涼花の悲鳴だ。同じ階から聞こえる。僕と九王沢さんは、フロアに出た。まさに間一髪のタイミングだった。
涼花が無理やり、手を引っ張られて勘違いやくざの一成に連れ込まれそうになっていたのである。
「助けてッ!誰かッ、助けて下さい!」
「ッるせえなてめえッ!騒ぐんじゃねえよッ!オラッ、黙って言うこと聞きゃいいんだよ!」
「やめろ!」
僕は駆け寄っていって一成を突き飛ばし、涼花を開放してやった。
「慧里亜お嬢さまっ!」
ひっしと九王沢さんに抱きつく涼花。僕は、素通りである。
「てんめえ!おれが誰だか、分かってんだろうな!?」
「知るか!」
僕は一般人である。天下の視聴者様だぞ!涼花が泣いてるじゃないか!
「とにかく、おれのものになれって、いきなり…」
「ネットに書くぞ条例違反者ッ!」
涼花は十六歳だぞ。ったく、なあに考えてんだか。
「書いてみろや」
一成は、立ち上がった。ここまで言われて、尋常の精神状態じゃない。目が血走っている。
「つか、てめえ、関係ねえだろ?こっちはなあ、切羽詰まってんだ。時間がねえんだ、さッさとどけよッ!」
その瞬間だった。割って入った九王沢さんが、一成に真っ向からビンタを喰らわせた。ばっちいん!と、とんでもない音がした。
涼花にこんなひどいことされたら無理もないが。なんとあの温厚な子が、顔が青ざめるほど怒ったのだ。
「関係ないのは、あなたの方ですッ!すうちゃんは、わたしの一族の子なんですッ!わたし、あなたを許しませんッ!」
その声で、皆が集まってきた。一階まで思いっきり、聞こえただろう。児玉さんが殺気を込めて睨み合う二人を引き離し、涼花を僕に預けた。
涼花は僕でもいいやと思ったのか、嗚咽を漏らしながら、しがみついてきた。
「馬鹿ッ、お前何やっとるんだ!本家のお嬢さまに!」
謙三がやってきて、ぺこぺこ謝った。こっちはもう、九王沢さんのお父さんに伝わったら、えらいことになるので必死である。
「けッ!いちいち、るせんだよッ!」
一成、本当に社会人なんだろうか。レイプ未遂犯の癖に、唾を吐くと、壁を蹴って行ってしまった。でも、これで済んで良かった。
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