第9話 家籠の怪

 それは靜子の腹部に刺さっていた六園家秘蔵の脇差のことだと言う。

 銘を『家籠やごもり』と言う不可思議な名前がついているが、その由緒については、今はほとんど知られていない、と言うのだ。


「お母さんを刺した刀」


 涼花の話によると、今回の遺産相続でも、この源清麿の脇差は相続の対象となり、行方が注目されているそうな。



「仕方のないことかも知れません」


 涼花にとっては、お母さんを殺した刀だ。だが、六園家の家宝である以上は、その刀は何が何でも六園家の人間に受け継がれなくてはならない仕組みになっているのだ。


「『家籠』、と言うのは元々、幕末についた名前なんです。当時、六園家のひとり娘が、さる尊攘志士そんじょうししと忍ぶ恋をしていたのですが」


 名家六園家の娘だ。もちろん、他にめとらせる相手がいたし、その男も幕吏ばくりに追われるような危険な生活をしていた。結局恋は、成就しなかったのだ。


「その方は戊辰戦争に従軍して、函館五稜郭はこだてごりょうかくで亡くなったそうなんです。戦後、遺髪とこの清麿の刀だけが遺品として彼女の家に届けられたと、言われています」


 戦火を潜ってきた清麿は、最初は長刀だったと言う。辞世のような偈がついていた。


『皇国一等の志、果ててのちは君をや守らむ』


 義に殉じたのちはこの刀で、あなたを護ろうと言うのだ。想い人の気持ちがいかに深かったかが分かる。


 それから娘と添った婿は、明治新政府に到って出世し、官途をたどった。だが、酒乱の癖があり、度々妻に暴力を振るういわゆる悪夫であった。


 亡き恋人の清麿を後生大事にする妻に癇に障ったのか、ある日、夫は妻を部屋に監禁して殺そうとしたらしい。


「だからおはんは好かんのだッ」

 嫉妬した酔漢は足元もおぼつかぬまま、その佩刀の鞘を払うと、

「そげん大切な刀なら、こいで想い人に添わしちゃるウッ!」

 と、妻の髪を引っ掴んで、頸を落とそうとしたと言う。とんでもない暴力亭主である。


 だが酔っていたし、腕の方はへぼかったのか、思いっきり振り下ろした刀は鴨居にぶち当たり、その瞬間、折れた。まさか折れるはずがないのだが、何たる不運、物打ちからぽっきりいったのだそうな。


 するとその切っ先はくるくる回転しながら落ちて、そのまま、酔った暴力亭主の咽喉に刺さった。即死、であったと言う。


 この時、剣は短刀に造り直され、この事件に因んで『家籠やごもり』を称した。



爾来じらい、六園家では、これは娘を護る刀だと言われ、長女の嫁入り道具の一つにされていたんです」


 それから清麿の守り刀は近代に到っても、度々、怪事を起こしたらしい。六園家の子女と想いを交わしたその維新志士が今でもこの清麿に憑いているのだそうで。



「く、九王沢さんそんなこと話したの?」

 薄々嫌な予感がしながら、僕は九王沢さんに確認した。

「はい…靜子さんも大切にしてましたし、すうちゃんのことも、守ってくれる刀だから、嫌がらないで大事にしてあげて欲しいと。そう言ったのですが」



「え…お化けが、憑いてるんですか?」

 涼花はさすがに、真っ青になったと言う。

 当然だ。涼花は誰もいないはずの部屋に、何者かが潜んでいるのを見てしまったのだから。

 そんな因縁深い怪異譚を、しかも九王沢さんの口から聞いてしまったら、これまさに追い討ちである。

 無関係の僕ですら、ぞくっとした。


 涼花たちの前で消えたのが、もしかして万が一、人間じゃないとしたら?


 あのとき部屋にいたのは、時代を超えて清麿に憑いた六園家の亡霊だったのか。


 もちろん、まさかの話だが。これはいよいよ話がミステリーじみてきたぞ。



「すうちゃん、わたしが変な話をしてしまったばかりに。気にしたでしょうか…」


 気にしただろう、そりゃばっちりと。そう思ったが、あまりに九王沢さんが気落ちしているのでうかつに言えなかった。


「で、でもさ、ほら、もう一年前の話なんだろ。これで今回はやっと遺産の整理がついたって言うか、その遺産の問題さえ片付いちゃえば、何事もなく終わるわけで」

「何事もなく、終わる…?」

 九王沢さんが途端に不安そうな眼差しをしたので僕は、言葉に詰まってしまった。

「う、うん!…だっ、だってそうじゃないか。…靜子さんがあんなことになって、遺産の整理が覚束なくなって、今までばたばたしてただけなんだろ?…あ、明日だっけ?東京から、弁護士が来ればそれで解決じゃないか」

「はい…」


 ううっ、自分でもよく分からないくらいに、一気にまくしたててしまった。


 でも本当、靜子の死は不可解だったかも知れないが、これ以上、遺産がらみで起こり得る事件など、想定しようがないのだ。


 明日になれば涼花が遺産を相続するし、あの六園家の誰かがその後見人になる。もちろん誰がなるか、についてはそれぞれ問題があるだろうが、その流れ自体に異論を唱える人はいないのだ。


「お風呂でも入って来なよ。内風呂、入らないともったいないじゃないか」


 自分でも精一杯、いや全力を越えてフォローをした思う。それもこれも、九王沢さんに元気になってほしい一心だった。


 結果、九王沢さんはお風呂に入ったら少し落ち着いたみたいで、僕のために瓶ビールを出してお酌してくれた。あ、すんません。


「今日も運転、お疲れ様です☆」

「ううん、お昼(まで)は楽しかったな。軍鶏美味しかったよねー」

 などと、普通の旅行トークに戻ろうとして、はっと気づいた。

「おっ、お風呂はあッ!?」

「はっ、入ってきましたけど!?」


 入ってきましたじゃないよっ。

 なんッ…てこったあ!こっ、混浴するはずだったじゃないか。九王沢さんを先に入れてどうするんだ。一生懸命さが裏目に出た。まさか自ら、玉砕の道を択んでしまうとわ。


 ああああっ、これで二泊目だ。ついに九王沢さんと、欲望を達成することなんか、夢のまた夢かなあ、と、思ってしまった。


 今、午前零時を回った。

 くーくーと、隣で九王沢さんはかわいすぎる寝息を立てている。部屋はすでに真っ暗。お酒にも酔ったし、寝ようと思ったけどこれ、どうにも眠れない。


 のそのそと起き上がると僕は、寝床でウイスキーの準備を始めた。


(こーれはもう、諦めるしかないのかなあ)

 がぶりとロックでウイスキーの原酒を僕は、やけくそ気味に煽った。


 だって、さっきのはさすがに凹んだ。

 空振りとニアミスを繰り返しての、オウンゴールの連発だ。やってもうたで済まされない。もはや取るところがない、とはこのことだ。そして明日が最終日、千秋楽である。


 これではお友達旅行と、何ら変わらないではないか。九王沢さんがここまで僕に踏み込んで来てくれた、と言うのに。


 へたれに生まれてしまった自分を、僕はこれほど呪ったことがなかった。もはや何かの呪いだろうか。涼花どころか、お祓いしてもらった方がいいのは僕じゃ!?だーって、どうしてこれほどまでに、上手くいかないのだ。


 に、してもだ。大体、九王沢さんだって、じりっじりしてるに決まっているのだ。依田ちゃんの絶対命令とは言え、あんな雑誌を持ってきて。しかも僕は知っている。後で僕は、こっそり確認したのだ。


『今度こそ彼氏に退かれない!エッチを成功させる10のポイント』のところに、文春文庫のしおりが挟んであったのを。女の子って、本当に分からない。どうしてその覚悟でここまで来て、切羽詰まった様子一つ、見せないのだろう。


 ああ、酔ってきた。思考が、そして理性が業務終了である。


 そうだよ。そもそも、混浴が問題じゃないじゃないか。


 僕は九王沢さんと、この旅行で恋人としてするべきことをしたいだけだ。別にやってはいけないことを無理にするわけじゃないのだ。


 混浴より何より、はっきりセックスしたい。なのにうう、どうして上手くいかないんだ。


 どうせダメならダメもとで、このまま寝込みを襲っちまうか。なぜならふと見た寝顔がかわいすぎる。


 僕はいつの間にか、腕を突いて九王沢さんに覆いかぶさっていた。


(キスまではいつも、いくのになあ)


 その、美しい鼻梁びりょうの線の谷底にある、ぷるるん天使の唇はいつも冷ややかな柔らかさで、ひめやかな花の匂いがするのだ。


 僕はいつも、キスをするときに触れるこれも瑞々しい黒い髪に触れた。まだ微かに少し、湿気を帯びている。洗い髪から匂う香りがせるように甘かった。


 でもそれでも、だ。


 僕はまだ、彼女の『女性』の核心に触れてさえ、いないのだ。


 例えば白磁気のように艶やかな無欠さを誇る白い肌。それは心なしか今は、薔薇色に上気しているが、温泉の熱で蒸されたままの、甘ったるく息苦しい香りを放っているのだ。


 それは髪についたシャンプー混じりの芳香ともまた違う。もっと蒸れた、生々しさすら感じる匂いだ。


 本当はそれが、九王沢さんの実体。僕はその九王沢さんを愛さなければならなかったのだ。


「う、うんっ…那智しゃん…ううんっ…もお…だめですよう…」


 目を閉じたまま、九王沢さんが眉をひそめ微かに、姿勢を乱す。


 僕の身体は思わず強張ったが、寝返りは、思ったほどでもない。ああっ、て言うかだめですようって言ったぞ今。


 さらに温泉で温まり過ぎて、暑かったのだろう。だが重要なことはそんなことではなかった。なんとそのとき浴衣の袷がほぐれて、はだけたのだ。


 九王沢さんのHカップの神乳、その霊峰の裾野が。


 神秘の谷間の奥が、薄い汗で濡れていた。それがやけに生々しかった。誰もその突端を見たことのない幻の頂きである。今のでちょうど五合目の付近ほど、露わになったか。僕はごくり、と息を呑んだ。


(見るくらいは)


 そう、見るくらいはいいんじゃないか。霊峰の頂きを。これまで誰の目にもさらされることのなかった天使のつぼみを。


 なんてせこい、小っちゃい男だと言われるだろうが、それでも構わない。僕は九王沢さんを愛しているのだ。少しでも、彼女のことを知りたいと思って何が悪いことがあろうか。


 いやそりゃあ、こっそり見て悪いとは思うよ。


 でも、そもそも本当は混浴で堂々見れたのである。僕はそこまでの立ち入り許可を、九王沢さん自身によってすでに与えられている。ただ、タイミングが整わなかっただけなんだ。


 正攻法で見れなきゃ、手段を選ぶしかないんだ。


 僕さえ黙っていれば誰も傷つかない、何も起きない。


(よっ、よし…)


 僕は思い切って九王沢さんの袂に指を差し入れ、ぺらりと捲った。


 その瞬間、九王沢さんが目覚めたらと言う映像がよぎって思わずのけ反ったが、決定的瞬間はついに、訪れなかった。


 その代わり、ほとんど見えた。一点の瑕疵かしもない、処女雪のような肌に包まれた九王沢さんの左乳の頂が。突端の大事な部分はまだ、部屋の薄明かりの闇に沈んでいる。


 第一のミッション、接触はとりあえずパスした。

(あと、一歩)

 後は、登頂あるのみである。

 あの浴衣の稜線に隠れているのは、頂きを目指すものが恋い焦がれた、天使の高み、おっぱいを求めるものに与えうる至高の極地である。んッ、んんッ、と小さく咳ばらいをしたが大丈夫だ。


 まるで金庫破りの呼吸で僕が、九王沢さんのHカップの乳首を拝もうとしたときだ。


 スマホが盛大に、ポジティヴパンクの爆走を流した。自分で設定しておいて、最悪だと思った。大好きだったはずの新人バンドが、今まさに大っ嫌いになるところだった。


「でっ、電話っ!」


 僕のスマホが鳴ると同時に、九王沢さんの電話も鳴り始めた。あわてて九王沢さんから離れながら、電話を放り投げてしまうところだった。


 僕の着信は『香名子さん』であり、九王沢さんの着信は『涼花』であった。僕が取った着信で香名子さんが切羽詰まった悲鳴を上げていた。


「すっ、涼花ちゃんが誰かに襲われたんです!」

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