第8話 靜子の死

 香名子さんの話によると、靜子の自殺は正午過ぎだったそうな。


 まだ六園家の人間はロビーで待たされており、遺産分配の話は昼食の席で行われる運びになっていた。


 だが約束の十二時になっても、靜子は降りて来なかったと言う。



「なんだ、勿体ぶりおって」


 長兄の謙三などは憤慨ふんがいしたようだが、実はこの人たちが来る前に、ひと悶着あったのである。


 どこで噂を聞きつけたか、あの乃木雅人が自分にも金を寄越せ、と怒鳴り込んできたのだそうな。



「それが十時過ぎ頃だった、と思います。わたしたちは警察呼ぼうかな、とか相談してたんですけど」


 結局靜子と児玉さんが自室で対応し、事なき得た、と言う。通報をちらつかせると、乃木はいつもの捨て台詞も吐かず、這う這うの体で裏口から逃げて行った。


「…また、警察に嗅ぎまわられてるみたいだからね」


 香名子が様子を見に行くと、二人は苦笑しながら顔を見合わせていたと言う。


「香名子ちゃん、ちょっと疲れたからお昼まで一人にしてくれないかな?」

 靜子が本当に消耗した様子で言い出したのは、その時だった。

「え、でもすうちゃん、もう来ますよ?」

 それは涼花が都内での仕事を切り上げてこちらに向かっていて、運転する事務所のスタッフが、後四、五分で着くと連絡があったときだったと言う。

「ごめんなさいって言っておいて。涼花とは後で話すから」

 だが靜子の口調は、有無を言わさないものだったようだ。乃木の件で本当に疲れていて、誰とも口も利きたくない様子だったらしい。


 それから正午過ぎ、ついに児玉さんと香名子さんが部屋を訪れ、靜子の遺体が発見される。


「もう部屋中血まみれで、すごかったんです」


 靜子は血のにじむ腹部を抑えて倒れていたが、そこに日本刀の脇差が刺さっていた。


 それは六園家の秘蔵になる源清麿の脇差『家籠やごもり』に間違いないと言う。


「まだ、意識があるわ」

 児玉さんが返り血構わず寄り添って、靜子を介抱したと言う。

「もういい…放っておいて…お願い…」

 靜子はまだ口が利けた。うわ言のようにそうつぶやいていたらしい。

「早く先生を!」

 児玉さんはすぐにかかりつけの医師を呼んだ。医師がどうにか応急処置をしている間、児玉さんは救急車を呼び、ロビーで待っている六園家の人間にも事情を説明したと言う。


「お母さんっ」

 駆けだそうとする涼花を、児玉さんが抱きついて捕まえた。

「香名子さん、お願いします」

 泣きじゃくる涼花を、香名子さんは渦中から引き離したと言う。



「で、それから香名子さんはすうちゃんと二階を見に行ったんですね?」

「ええ、すうちゃん、お母さんに会うのずうっと楽しみにしてたし、どうしても、って言うからつい」

 騒ぎに乗じて二人は、こっそり瀕死の靜子が処置を受ける二階へ上がったのだと言う。


 靜子は別室に移されたらしい。廊下では在宅看護婦や医師たちが右往左往していて、まさに修羅場であった。


 誰かに見つかるとやはりまずいので、香名子さんは涼花とこっそり様子をうかがおうとしたのだそうな。


 異変は事件現場である、靜子の部屋を通りかかった時に起こった。


「バタン!ってドアが閉まったんです!もうすんごい勢いで」


 中には誰もいないはずだった。二人は思わずドアノブに手をかけて開けようとしてしまったと言う。開かなかった。なんと中から鍵が掛かっているのだ。


「誰かいる!って思いましたよ。でも、もうわたし動転しちゃって」


「何やってるのこんなところで二人とも!?」

 児玉さんの怒号が降ったのは、その時だ。

「大変なときだって言ったでしょう!香名子さんまで!いい加減にしなさいッ」

「いや今っ!誰か中にいて鍵を…」

 児玉さんの剣幕に香名子さんはしどろもどろになってしまった。

「馬鹿なこと言わないの、涼花のお母さんが生きるか死ぬかのときに!」

「でも中に絶対、誰かがいたんですよ!」


 涼花が強硬に言い張ると児玉さんは、いかにも鬱陶しそうに鍵を開けて中を見せたと言う。室内の惨状はそのままに、やはり中には誰の姿もなかったのだそうだ。


「まったくこんな悪戯までして。何が面白いの!?」

「そんなことしてません!」

 涼花は断固主張した。


 と、言う感じで香名子さん自身、あまり口は出なかったようだが。



 確かにあのとき。

「あそこには絶対誰かが居たんです」

 その何者かが、ふいの香名子さんと涼花の出現に愕いてドアを閉め、鍵をかけた。

「やっぱりすうちゃんが言う通り、児玉さんが何と言おうとわたしにはそうだった、としか思えないんです」



「と、するとやはり靜子さんが刺された現場には、最初から誰かが居たんですね…」

 九王沢さんはそう言ったが、警察もその可能性は検討したらしい。


 だが警察が到着しての実況見分では、何者かが現場に隠れていた形跡などは、発見出来なかったそうな。


「香名子さんの話によると、児玉さんに二人が締め出されてから現場保存のために、所轄の警官が到着するまでは、ほとんどタイムラグがなかったそうですね」


 入れ違い、とまでは言わないが、通報を受けて警官が到着したのは、十分前後の違いであったと言う。


「香名子さんの話では、その間児玉さんも降りて来ず、六園家の他の人間も二階へ出入りした形跡はなかったそうです」


 間もなく救急車も搬送し、瀕死の靜子さんは警察が事実確認を続ける中、担架に載せられて運び出された。


 このように見てみると確かに、あわただしい。靜子さんが刺された前後の状況は。


 だが、話を綜合そうごうすると、靜子が刺された、と言うその部屋の付近には実に多くの人の出入りがあったと言うことになる。


 もしあそこに誰かが隠れていたのなら、警官が現場に踏み込んだ時点で見つからない、と言うのは、どう見ても考えられそうにない。


「犯人の経路についても、警察はかなり検討したのでしょうか?」

「ええ、何度も同じ話を答えさせられたんです」


 香名子さんはそれで、うんざりしてしまった、と言う。確かに、あの部屋のドアを事件後、あわてて閉めた何者かはいた、と彼女は思う。


 だがその後、幾度も警察に犯行現場に不審な人物の出入りが不可能だったことを確認されて、自信がなくなってしまったのだそうだ。


 香名子さんと涼花。


 あまりに不条理な事態に直面したことになるが、どうにも説明がつかない。彼女たちの話が本当なら、部屋に潜んでいた何者かは二度、衆人環視の状況から消えたことになる。


 作り話や悪戯を疑われるのも、無理はない。だが二人にはそんなことをする理由などないのだ。それで口をつぐむしかなかった。


 涼花が一年越しに集められたあの家で、靜子が殺された件にこだわるのも分かる。


「すうちゃんはずっと、信じてたんです。お母さんが本当は殺された、って。でもそれを、なんでもいいから早く奥さまの遺産を分配したい大人の都合で無理やり自殺に曲げられたんだと、思ってたと思います」


 心の奥に封印していたもの一切を独白した香名子さんも、涼花がそう思っていた、と言いながら、一年越しの憤懣やるかたない感じだった。


「わたしはいいんです。でも、奥さまが死んで一番悲しいのはすうちゃんなのに。他の人はともかく、児玉さんまで頭から悪戯、って決めつけて。本当にひどいと思います」



「帰る」

 そのとき化粧室から、涼花が戻ってきた。


 もう少しだけ独りにして、と言うので、部屋に遺してきたのだが、またばっちりとメイクをしてきた。


「たぶんずっと、独りで泣いていたのを悟られるのが、嫌だったんじゃないでしょうか…」

 涼花が去る車を見送りながら九王沢さんは、悲しそうに表情を歪めていた。


 やってもうた。全く要らぬことを、蒸し返してしまった。

 僕が今朝の涼花の話を持ち出したばかりに、九王沢さん一気に意気消沈である。


 彼女も本当は涼花のことが心配で、ずうっと心が離れていなかったのだ。僕に心配させまいとしたその感情の堰を僕自らが、不用意に切ってしまったじゃないか。サッカーで言えば、オウンゴールである。


 まだ泣いてないけど九王沢さん、ずっと泣きそうな顔だ。部屋の中のテンションは、お通夜帰りのそれである。


 こらもう、混浴どころじゃないやんけ。ったく、何やってんだろう僕。ついにすすんで地雷を踏むようになってしまった。


「く、暗くなったら寒くなってきたねえ」

 僕はさりげなく話しかけたが、九王沢さんは応えない。ああ、なんてこった。いつもは、こんな子じゃないのに。

「お茶でも淹れようか。ちょっと温まろう」


 僕が九王沢さんの返事を待たず、部屋の電気ポットに水を入れ始めたそのときだ。何か苦しみに堪えかねたような顔で、九王沢さんが僕に話しかけてきたのだ。


「…那智さん、わたし、もしかしたらすうちゃんに余計なお話をしてしまったかも知れません」

 僕は九王沢さんの異様な様子に思わず、声音を強張らせた。

「余計な、話?」

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